獲物
からからに渇いた喉を、粘ついた唾液で潤す。
石灰質の壁に背中を合わせ、息を潜め耳を澄ます。
赤っぽい茶髪を片目にかけた彼——“
「はぁっ……はぁっ……くそっ。これが
薄らと光を帯びた苔が幾つか地面や壁で輝くだけ。
光明は、乏しい。
視界の悪い洞窟の中で、シモンは全神経を研ぎ澄まして気配を探る。
(あれはヤバい。信じられんが、サラマンダーよりも上。ざっと見た感じ
第二選別の開始時点では、確かに堕剣の登場に気押されたシモンだったが、今やそれ以上の衝撃を受けていた。
洞窟の中に入った後も、クリスタルの青白い光に導かれるように進んだ先にいた、一体の怪物。
それは、明らかに規格外の力を持った魔物だった。
さらに恐ろしいのは、その怪物の住処であろうこの洞窟の中で、あと三日間も逃げ回らなくてはいけないということ。
(幸い、この洞窟内は入り組んでいるから逃げること自体は可能だが、これを後三日間はキツすぎるぞ。マジで一睡もできないか? 選別試練、噂以上だな)
シモンはこの第二選別の参加者たちを思い浮かべてみる。
だが、頭に浮かんだ生き残りの中でも最上位の強さを持っているであろう、“加護狩り”ヴィンセントや“堕剣”ネビ以上の潜在能力をそのクリスタルの怪物からは感じ取れた。
(まあ、だが強さの割に速度は速くない。俺の
シモンの計算では、この第二選別で実力的に生き残れるのは自身を入れて三人しかいない。
他の参加者ももちろんそれなりの実力者であろうとは思えたが、あの怪物に比べれば塵芥と同じに思えた。
もっとも、自分自身でさえ、
「そろそろ使っておくか……見透かせ、写し出せ、《
呼吸が整ったところで、シモンは自らの固有技能を発動させる。
彼の“
波打つように広がっていく、シモンの目には映らない知覚範囲。
すぐに手に取るように理解できた情報に、彼は舌打ちをした。
「ちっ。いるな。こっちに向かってる。まだ撒けてなかったか」
シモンの知覚範囲の中でゆっくりと前進している一際強いエネルギーを感じる物体。
クリスタルの
まるですぐ傍にいるような感覚。
まだ休憩し足りていないが、留まるという選択肢はない。
シモンは壁から背を離し、万里掌握を発動させたまま走り出す。
(まさに我慢比べだな。生存戦略。それを試されてるってわけか)
しかし、だからといって不死身なわけではない。
人間の居住域を離れ、魔素の濃い魔物の生息域に足を踏み入れれば、格上の怪物たちは幾らでも存在している。
ゆえ、試されているのだ。
狩人ではなく、獲物側に立った場合でもなお、加護持ちとしての才覚を生かし切れるのかを。
(あの怪物の間合いに入ったら、おそらく俺じゃ凌ぎきれない。完全に逃げ切るしかない)
速度が速くないとは言っても遅いわけではない。
加えてシモンの推察では、そのクリスタルの魔物は遠距離型の攻撃方法も用いる可能性が高かった。
(俺の固有技能のおかげで、この迷路みたいな洞窟内でも、完璧に道は把握できる。第二選別。きついのは確かだが、俺なら突破できる可能性はある)
迫り来る魔物から逃げるための正しい道を的確に選びながら、シモンは駆ける。
薄ら濡れていて、滑りやすい岩土の上を走りながら、僅かながらにも魔物との距離が大きくなっていることに彼は安堵した。
(そうだ。俺は、選別を生き残る。堕剣も加護狩りも関係ない。まずは眼に見える範囲で勝利を掴む)
目に見えていれば、恐れはない。
シモンにとって、最も怖いのは、見えないこと。
どれほど大きな脅威だとしても、彼の視界の中にあれば不安はなかった。
「……あ!? な、なんだ? この反応は? まさか!?」
しかし走り続けるシモンは、唐突に一旦足を止める。
発動され続けている万里掌握。
彼が向かっていた先から感じる、身に覚えのある気配。
その形も大きさにも、強い見覚えがあった。
「……クリスタルの魔物が、もう一体、だと?」
進行方向から感じ取れたのは、まさに今シモンの背後からじわじわと迫りくるクリスタルの魔物と全く同じもの。
無意識のうちに見落としていた可能性。
怪物は、一体ではない。
「くそがっ! 俺としたことが、油断した! だけどこのレベルの魔物がまだいるなんて! 地神ガープは俺たちを皆殺しにするつもりか?」
これまで出会った魔物の中でも最上位の力を持つ怪物。
シモンは過去に“バベルの斜塔”と呼ばれる魔物の軍勢に対する防衛戦に参加したことがあるが、その軍勢の中にもこのクリスタルの魔物級の存在と対峙することはなかった。
実際には魔物適正階級50以上と目される魔物が何体かいたようだが、実際にシモンが相手をすることはなかった。
そういった高位の魔物は全て、バベルの斜塔に参加していた唯一の神下六剣である“剣帝”ロフォカレ・フギオによって屠られていたからだ。
(いや、待てよ? でも実際、ありえるんじゃないか? 今回の選別試練には、あの“堕剣”が参加している。実際、飛んで火に入る何とやらみたいなもんだもんな。堕剣を殺す絶好の機会。もしかして、俺、巻き込まれてる?)
堕剣殺害のために、必要以上に危険な選別試練を行なっている。
その可能性は大いにあるとシモンは考える。
なぜか不自然なほどに地神ガープは堕剣ネビに関して無関心を貫いていたが、相手は始まりの女神ルーシーに追放され、初神バルバトスと精神デカラビアを殺めたとされる神殺しの罪を背負う男だ。
どう考えても神に連なるものが無視をしていい相手ではない。
(他の参加者もろとも、堕剣を殺すために魔物を焚き付けた。最悪だ。パルクスが
シモンは考える。
まだ逃げる道はある。
万里掌握で把握する限り、もう少し先にいけば分かれ道があり、そこから迂回していけば入り口方面に戻ることが可能だ。
何はともあれ、一旦はこの窮地を抜け出す。
挟み撃ちにされるのが最悪のパターン。
シモンは思考を整理すると、再び先に進もうとする。
「って待てよ。あれ、何だ。おかしい。おかしいぞ。こいつ……速い?」
しかし足を一歩踏み出したところで、またもやシモンの足が止まる。
それは、彼の万里掌握の知覚範囲内で、反対側から迫ってくるもう一匹のクリスタルの魔物の速度だ。
明らかに、速い。
シモンの背後から迫る一体に比べて、圧倒的に速い。
グネグネと入り組んだ洞窟内を、凄まじい速度で駆け抜けている。
彼が分かれ道に辿り着く前に、その岐路を通り抜ける。
「え? あれ? これ、もしかして、詰んだ?」
粘っこい汗が、額に滲む。
もうすでに、二体の怪物が進む道の間に抜け道はない。
彼の固有技能によって、その暗闇の中の絶望が見えてしまう。
「え、え、どうしよう。嘘だろ。俺、ここで、死ぬのか?」
逃げ道はない。
ドクン、ドクン、と心臓が高鳴る。
指先が、震え出す。
恐怖が、迫ってきている。
まだ姿は見えず、音もしないが、シモンには完全に理解できる。
前方と後方から確実に迫ってきていることが。
「あ」
そしてついに万里ではなく、数メートル前方に、青白い光が見えた。
幽玄のように淡く輝く、死の青。
シモンの手元のクリスタルが強く震える。
「rrrrrriiiiiiiilllllllllllllllll!!!!!!」
耳を劈くような高音。
カチカチカチカチ、硬質な音が鳴り響く。
鱗のようにびっしりと全身を覆う鮮やかなクリスタル。
鎧にも似たクリスタルはその一つ一つが生き物のように、ウネウネと蠢いている。
(ああ、死んだ)
間近で見れば、すぐに理解できた。
自らの力では、及ばないと。
ムカデのような細長い身体。
眩い蒼白光は美しいようで、グロテスクでもあった。
短い触腕を小刻みに器用に動かし、狭隘とした石壁の間を上下左右関係なく自由自在に動き回る。
その巨躯に秘められた力は、直接触れずとも理解できる。
大顎をカチカチと鳴らすクリスタルの魔物があっという間に目前に迫る。
シモンは、もはや思考を放棄して、ただぼんやりとその怪物を眺めていた。
(ああ、綺麗だな)
死の青い光に全身を照らされながら、シモンは景色を眺めるかのように静かに怪物を見つめていた。
魔物の駆ける振動が地響きのように伝わる。
死の光が、瞬く。
シモンは、静かに自らの最期を見届けることにした。
そしてついに怪物が大顎から酸性の唾液を垂らしながら彼の下に辿り着き——、
「——アハハハハハハハハハッッッ!!!!! やっぱりィイイイ第二ィイイイイイ選別はァアアアア楽しいィィィなアアアアアア!?!?!?!? 全然三日間じゃ足りないぃィィィィイッやっホォォォォオオオオオ!!!!!!」
——そのまま風のように通り過ぎていった。
途端に満ちる静寂。
眩い青の光は嘘のように消え、何も見通せない暗闇が戻る。
「……え? スルー、された? というか今、なんかいなかった?」
シモンは、なぜかクリスタルの魔物の尾の付近に、何か人のようなものがしがみついていた、というよりは齧り付いていたような気がしたが、それがどこまで現実のものがすぐに判断できなかった。
発動したままだった
万里掌握を無効化しつつ、
そんなものは、いない。
存在しては、いけない。
掌握しきれない恐怖が、シモンの心にべっとりとこびり付いたまま、離れない。
「もう何が何だかわからない……やっぱり俺も
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