美食家


 海面から伸びる触腕を見た瞬間、ネビは瞬間的に宙に向かって跳んでいた。

 飛びかかるネビに対して、明確な魔素を感じさせる触腕が鋭敏に反応し、彼の身体を掴もうとする。


(念の為赤錆でスペースを作っておくか)


 巻きつくようにネビの身体を掴む触腕。

 そのタイミングを冷静に見極め、包帯を巻いた自らの剣想イデアである赤錆を間に差し込み拳分の間隙を生み出す。


「——スゥッ!」


 鍛え上げた内臓を含む身体操作で、自らの肺を一旦潰し切った後、一気に空気を取り込む。

 ヒュウッ、というつむじ風のような音を立てながら、空気を吸い込み切るのとほぼ同時に、掴まれた身体が海の中に引き摺り込まれた。


(力は強いが、耐えられないほどじゃない。アスタの編集エディットを使うまでじゃないな。その戦い方より、もっと鍛錬レベリングできる戦い方がある)


 みしみし、と触腕に掴まれた身体の骨が軋む音を感じ取りながら、ネビは思考を続ける。

 麻袋を頭に被り、さらに海中という条件も相まって、視界はかなり不明瞭だ。

 ある程度深度があるところまで引きずりこまれたのか、水圧もそれなりに感じられ、内臓に負荷がかかっている感覚がした。


(危険度の高い水棲型の魔物ダークは、そもそもその生息域を通るような船がないから普段なかなか会えない。今日の俺は運が良い)


 弾力性のある独特な質感の触腕は、僅かな視界の中で観察する限り、ネビの身体を拘束しているもの以外にもあと七本あるらしい。

 ネビは、その情報を手に入れた瞬間、あまりの歓喜に水の中ということも忘れて一瞬哄笑してしまいそうになった。

 興奮で満ちる感情はそのままに、思考はあくまで冷静に分析を進めていく。


(この拘束からむりやり逃れることは可能だが、さすがにこの海中という条件下で、一旦振り解いても、完全に逃げ切ることは難しい。いや、しかし、ここは海水自体に魔素が満ちている。あえてこの辺り身体が潰れる限界までで潜ることも鍛錬レベリングになりそうか? 赤錆でこいつの足を全部半切り程度にしてやれば、捕まらなくなるか? いや優先順位が違うな。それはこいつとの鍛錬レベリングが終わった後でいい)


 海中という環境自体にも興味が湧くが、それを脳内シミュレーションの後方に置き換えて、瞬時に八本腕の魔物に引き戻す。

 普通にこの目の前の敵を倒すだけでは、不十分。

 最も困難で、代償が大きく、手間のかかる手段を探す。

 苦労は、蜜の味。

 ネビの閉じた口から、自然と漏れ出たヨダレが海の中に溶けていく。

 

(ん? これは……)


 すると、その時ネビの研ぎ澄まされた感覚に、僅かなノイズが走った。

 それは、彼だけが気づくことができた変化の予兆。

 変化の時は今ではないが、ほんの僅かな違和感を彼は見逃さなかった。


(ああ、決めたぞ。だ。これで行こう)


 一手目、その手に対する敵の対応、その後の自らの対応、それに対する敵のさらなる対応。

 まるでボードゲームのように、この先のレベリングを脳内で高速で計算処理し、その結果を導き出す。

 この定石が、最も自らを追い詰め、一瞬の油断、誤断を自分に許さないだろうとネビは判断する。

 死線の先に、最高の快楽がある。

 飢えが、彼を急かす。 

 堕剣ネビ・セルべロスは、空腹だった。

 目の前のご馳走に、彼はその牙を剥く。


(さあ、濡れろ、赤錆。鍛錬レベリングの時間だ——ってもう、濡れてるか)




————




 それは、小癪なヒトだった。

 大海全域を棲家とし、海流に乗って漂うに生きる魔物ダーク、リヴァイアサンにとって、出会う生き物はその全てが餌に過ぎない。

 伸縮自在の八本の腕。

 しなやかで敏捷性にも優れるリヴァイアサンの自慢の八本腕の最大の特徴は、切断されても、その切り口同士を接合することができるという点だった。

 さらに“黒墨スモーク”という能力も持ち、相手の視界を奪うことも可能だ。

 海中という身動きが制約される空間、さらに潰される視界。

 一度リヴァイアサンに獲物として捕捉されてしまえば、逃げ切れた者は誰もいない。


【コイツハ、ナンダ?】


 そんなリヴァイアサンが、普段とは異なる海域を気付けば遊泳していると、幾つかの餌の気配がした。

 一つ一つが小粒で、量としては不満が残るが、リヴァイアサンは美食家だった。

 感じ取れる気配に、覚えがある。


 ヒトだ。


 ヒトがいる。


 リヴァイアサンがヒトと呼ぶ生き物達は、身は小ぶりだが、味が濃厚で、他にはない味わいがあった。

 海水とはまた違った、どこか酸味の混じった塩気にほどよく柔らかく、噛み答えのある肉。

 ヒトはリヴァイアサンを畏怖し、彼が姿を現しやすい海域には、伝承のように警戒を続けているため、今では滅多に食すことができなくなっていた。


 そんな中で感じた、ヒトの気配。


 リヴァイアサンは喜びと共に、近づいた。

 ご馳走だ。

 美食の時間だ。

 恐怖に逃げ惑うヒトを海の中に引き摺り込み、抵抗を続ける中、衰弱するのを待った後は、ゆっくりと丁寧に時間をかけて食す。

 もし仮に、ヒトがその小さな身に似合わぬ力を持っていたとしても、ここは海中。

 本気でリヴァイアサンが回避に徹すれば、その脅威が身に及ぶことはない。

 海中というリヴァイアサンの棲家フィールドにおいて、彼の敗北はありえなかった。


【……コイツハ、ナンダ?】


 何度も、同じ疑問がループする。

 しかし、いざヒトの気配がする方に近づくと、これまでリヴァイアサンが見てきた者たちとは違い、なぜか自らと真っ直ぐ彼の方に、海に向かって駆けてきたヒトが一人。

 理解が、できなかった。

 自らに食されることを望んでいるのだろうか。

 当然のように呆気なく、リヴァイアサンの触腕に捕まり海に引き摺り込まれてしまう。

 海に引きずり込めた時点で、リヴァイアサンの勝利はほぼ確定したも同然だ。

 それにも関わらず、そのヒトからはどんな恐怖の感情も、混乱も感じ取れない。


 ミシリ、と掴む力を少し強くしてみる。

 ビキビキ、とヒトは身体の硬直を強くさせ、リヴァイアサンの力に耐えてみせる。

 ミシミシリ、また掴む力を一段階あげてみる。

 ビキビキビキ、と再びヒトは身体の強張りを上げ、リヴァイアサンの力に完全に耐えてみせる。


【ツブシキレナイ。ギリギリ、タエキル。ソウイウノウリョクカ?】


 それを何度か繰り返してみたが、そのヒトは頑丈だった。

 あと僅かに力を込めれば、握りつぶせそうな気がするが、力を込めれば込めた分だけ、ヒトの強度が増すのだ。

 ヒトの中には、リヴァイアサンには持ち得ない特異な力を持つ者が紛れていることは知っている。

 おそらく、リヴァイアサンの力に対応するだけの強度を持てるという能力なのだろうと、彼は予測した。

 もし、最初からリヴァイアサンの腕力に耐え切るだけの力を持っているのであれば、初めからその強度を発揮すればいい。

 あえて、段階的に上げる意味がない。

 無駄にダメージと負荷が増すだけで、ヒト側のメリットがないとリヴァイアサンには思えたからだ。


【ノウリョクモチハ、アジガイイ。タノシミダ】


 特別な能力を持つヒトは、他の普通の者達に比べて美味であるとリヴァイアサンは知っていたため、嬉々とやがて来るであろう美食の時間に期待した。

 どんなに頑丈でも、身動きは取れない。

 かろうじて拘束から抜け出したとしても、ここは海中。

 自らの八本の腕と黒墨スモークを駆使すれば、反撃を受けるとはなく、逃走も許さない。

 あとは、待つだけだ。

 ヒトが海中の中で息ができないことを、リヴァイアサンは知っている。



【——痛ッ!?!?】



 しかし、唐突にヒトを拘束していた自らの腕の一本に激痛が走り、リヴァイアサンは驚きに目を見開く。

 動きは封じた。

 逃げる気配もなかった。

 反撃の手はどこにもないはず。


 ——ムシャ、ムシャ、ムシャ。


 水を伝って、不快な響きが伝わってくる。

 連続的に続く、激痛。

 その痛みの理由に遅れて気づいたリヴァイアサンは、目から入ってくる情報を素直に受け取ることができない。


【コイツ、オレヲ、クッテルノカ?】


 ムシャムシャムシャムシャムシャ。

 断続的な咀嚼。

 白くて鋭い犬歯を覗かせるヒトが、満面の笑みを口元に浮かべながら、身体を拘束している触腕に喰らい付いている。

 飢えた獣のように一心不乱に喰らいつくヒトは、あまりにも醜く、不快に思える。

 咀嚼のたびに走る激痛と共に、リヴァイアサンの怒りに一気に火がつく。


【フザケルナ】


 リヴァイアサンは捕食者プレデターであり、餌ではない。

 ヒトを美食として喰らうことはあっても、自らが喰らわれることなどありえてはいけない。

 凄まじい勢いで触腕を喰らいつくそうとするヒトの二つの足にも触腕を伸ばし、引っ張り八つ裂きにしようとする。



「ウメェウメェウメェウメェウメェェェェェ!!!!!! これが噂のレベリングバイキングかあああああああああ!?!!?!?!? お得すぎるだろうゥゥゥンンンンンン!!!!?!?!?」



 水中にも関わらず、何か絶叫が聞こえた気がした。

 八つ裂きにしようとして、絡み取られた両足を、そのヒトは全く意に介さない。

 ムシャムシャムシャムシャムシャムシャ。

 咀嚼は止まらない。

 噛みついたそばから嚥下を繰り返し、このままではあっという間に腕が一本喰らい尽くされてしまう勢いだ。


【ナンダコイツハ? ナンダコイツハ!?】


 ここで初めて、リヴァイアサンに完全な動揺が広がり始める。

 何かが、決定的におかしい。

 そもそも、魔物を喰らうヒトなど聞いたことも見たこともない。

 根本的に、魔素は魔物以外にとって、毒である。

 魔素が満ちた自らの肉体を、どうして迷わず喰らえるのか。

 理解不能。

 ここで、やっとリヴァイアサンは気づく。


 そうか、は、ヒトではないのだと。


【コロス!】


 もはや衰弱を待つ手段は取れない。

 待っていれば、喰われる。

 明確な殺意。

 美食家ではなく、高位の魔物として、目の前の敵を潰す。

 まずは、引き剥がす。

 触腕を辿って、自らの頭部の方に近づいてきているが、それを止めなければならないと、本能的に理解できる。

 拘束を解くようにして、とにかく吹き飛ばそうと大きく触腕を振った。


「ダメだ」


 だが海中で大きく振り回したはずの触腕から、そのヒトではない怪物はまだ離れていない。

 なぜ。

 なぜだ。

 リヴァイアサンは狂ったように腕を振り回すが、全く離れる気配がない。

 

「まだ、食べ終わってないだろ。食事中に暴れるなよ、行儀が悪いぞ?」


 グズリ、とその怪物は触腕を手で掴むと、その手の甲の上から赤く錆びた剣先を突き刺して、離れないようにしている。

 刺しては、喰らい、刺しては、喰らい、刺しては喰らい続ける。

 全く落ちない咀嚼速度。

 異様な飢えに突き動かされるように、怪物はリヴァイアサンに迫る。


 ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ、グズリ、ムシャムシャムシャムシャムシャ。


 手の甲が、不揃いな貫通跡でぼろぼろになることを全く気にせず、海中に滲む真っ赤な自分の血を、まるで調味料かのようにリヴァイアサンの触腕につけながら齧り付く。 

 

【ナ、ナントオゾマシイ!】


 ひたすらに自らの触腕を喰らいながら、ついに目前にまで飢えの怪物が迫る。

 頭を何かで隠しているのか、瞳は見えない。

 影から不気味な赤い光が、ちらつくばかり。

 捻り潰すことができないのなら、喰らい返すしかない。

 リヴァイアサンは、期を伺う。

 自らの触腕を一本食べ尽くした、その瞬間の隙を。

 この怪物を退けられるならば、腕の一本程度、安いもの。

 彼は静かに、牙を潜ませる。


【——キタ!】


 そして、ついにその瞬間が来る。

 なぜか僅かに咀嚼のペースを最後に調整するかのように落とした怪物が、それでも触腕を一本食べ尽くし、海中に浮遊する一瞬のタイミング。

 ずっと赤く錆びた剣で串刺しにすることで、掴まえられ続けていた互いの身体が離れたのだ。

 リヴァイアサンは大顎をあけ、細かく鋭い歯が並ぶ口で一気に怪物を噛み砕こうとする——、



「ああ、来たな」



 ——グンッ、という強烈にリヴァイアサンと怪物の間に突如流れ込む凄まじいエネルギーの奔流。

 突発的な、潮の流れだ。

 全く予想していなかったところに、リヴァイアサンですら身体を持っていかれるほどの凄まじい海の流れ。

 目測は外れ、リヴァイアサンは怪物を見失う。


【ドコダ——ガア?】


 視界から消えた怪物。

 思考が鈍った刹那、頭が強制的にどろりと溶けて、何も考えられなくなってしまうような経験したことのない奇妙な感覚がした。



「これだよ、これがいいんだ。たまんないね」



 グチャリ、と物理的に思考が掻き混ぜられる。

 まだ開けたままの口の中。

 脳天に口内から赤く錆びた剣が突き刺され、弧を描くようにして素早く切り刻まれる。

 

 ボトボト、と自分の脳が、自分の口の中に零れ落ちていく。


 アア、ハラガヘッタナ。


 リヴァイアサンは、自分が死んだのだと気づく前に、空腹を思った。


 きっともう、この飢えが満たされることはない。


 美食の時間は、彼のためだけに存在するものではないと、最期に初めて知る。



「海洋系の魔物のいいところは、脳味噌まで美味しく食べれるところだよなあ」

 

  


 

 

 

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