空腹
タルタロス島行きの大型船舶トリアイナ号は、
乗客には望めば最低一室以上の個室が用意され、食事も船内レストラン以外でも簡単な食事なら個室への配送サービスも存在する。
設備としても簡単な運動ができるような道場や温水プールが併設されていた。
「はぁ〜、いいなぁ。うちもアスタちゃんみたいに、プール行きたいなぁ」
しかし、そんな船内の設備利用はおろか、まともにデッキスペースで潮風を浴びることすらせずに個室に閉じこもる渾神カイムはうんざりしたように声を上げる。
ぽむ、ぽむと胸に抱いたクッションを叩きながら、ずっと不満げに太い眉を顰めるばかりだった。
「ん? 行きたいなら、行けばいいだろ?」
「だから! 何度も言ってるじゃん! うちはここにいる人たち全員に顔バレしてんの! 顔見たなりいきなりぶち殺されちゃうかもしれないじゃん!」
「そのために、お前用の麻袋も用意しただろ。それを被ればいい」
「いやだから、あんなの被ったらまともに歩けないから。どこにも行けないんですけど」
不満げなカイムの横では、ネビが忙しなくローストチキンを両手に持って齧り付いている。
この船の目的地は
そのため基本的には乗客は選別試練を受けようとしている加護持ちとなっている。
つまりは、過去にカイムの試練をすでに突破している者たちということになり、身元が割れていることを彼女は恐れていたのだ。
元々ここはネビの個室で、乗船以降カイムが勝手に部屋に居座っているといった状態だった。
「だけど、なんかあれだね。もっと沢山の加護持ちがいるのかと思ったら、案外スカスカだったっぽいよね。年に一回しかないのに、もっと皆んな受けに来ないの?」
「年に一回といっても、そもそも
「へえ、そうなんだ。もうここに辿り着く時点で結構、上澄なんだね」
一度加護を失ってから一年足らずという短期間でネビは自らの加護数を29まで上げたが、これはあまりに異常な速度だった。
本来ならば早くて四、五年、十年かかっても遅いとは言われない。
神々の一柱であるが、そこまで加護持ちについて詳しくはないカイムには、そんなネビがどれほどの実力を今持っているのか計りきれなかった。
「というか、船に乗ってから、ずっとネビなんか食べてない? 成長期?」
「ん? いや、これは
「ふーん、よくわかんないけど、いっぱい食べるね」
先ほどまで両手に持っていたローストチキンはあっという間に骨だけになり、その骨すらボリボリと噛み砕きながらネビは飲み込んでいく。
ルームサービスで机に乗る限界まで注文した大量の料理はもうほとんどなくなりかけていて、その全てをネビが一人で食べ続けていたのだ。
「うちはなんか微妙に船酔いしてるから、全然食欲ないや」
「そうか」
ベッドの上でごろごろとするカイムは、今度は山盛りの麦パンのバケットに手を伸ばすネビを眺めながら大きな溜め息をつく。
海自体は穏やかで、大きく揺れるということはなかったが、元来酔い体質のため若干気分が悪かった。
「……なにか、来るな」
「え?」
しかし、一心不乱に咀嚼を続けていたネビが唐突に動きを止め、その赤い瞳を何の壁紙も貼られていない白い壁に向ける。
つられてカイムもネビの視線を追うが、簡素な壁がそこにはあるだけで、それ以上の情報は得られない。
「来るって、なにが——」
——どごん、とその瞬間、船に何か質量のあるものがぶつかったような衝撃が伝わり、部屋が大きく揺れる。
ベッドの上で仰向けになっていたカイムは、ぎゃっ、と小さな悲鳴を上げてベッドから転がり落ちる。
バケット一杯にあった麦パンをあっという間に平らげたネビは、ベロリと舌なめずりをしながら、再び麻袋を自らの頭に被せるのだった。
「どうやら、おかわりがやってきたみたいだな。いいね。まだまだ、腹が空いてたところだ」
————
トリアイナ号の一つの個室。
大きな赤縁の丸い眼鏡をかけた少女が、真剣な眼差しで万年筆を片手に唸っていた。
何冊もの本が床の上に積み重ねてあり、雑誌の切り抜きのようなものが机中に散らばっている。
「うぅ。どうしよ。全然まとまらない……」
彼女は手帳を埋め尽くすように羅列された文字を覗き込みながら、理性的な翠の瞳を何度も瞬きさせていた。
「おい、何一人で喘いでんだ、オトハ? オナってんのか?」
「きゃっ!? ち、違います! というかなんで全裸なんですかっ!?!? ふ、服を着てください!」
頭を悩ませていた彼女の背中に粗暴な声がかけられ振り返ってみれば、そこにはタオルを一枚手に持っただけで、一切の衣服を着ていない体格の良い男がいた。
ヴィンセント・バルサザール。
“
「あー! 私のベッドに裸のまんま座らないでくださいよ!」
「べつにいいだろ? 俺とお前の仲だ」
「なにもよくないです! 何度も言ってますけど、私とヴィンセントさんはあくまで雇用主と被雇用者の関係性しかありませんから!」
「そう大声出すなよ。お前のぴーぴー声は頭に響く。落ち着けって。乳、揉んでやろうか?」
「も、揉まなくていいです! というかなんで揉んだら落ち着くと思ってるんですか!」
「カハハ。むしろ興奮しちまうか? これまでおたくらの社員を何度も護衛してきたが、からかった時の反応はお前が一番おもしれぇ」
「最低です!」
顔を真っ赤にして、必死で視線を逸らす彼女見て、ヴィンセントはニヤニヤと笑っている。
彼女——オトハ・ゲティングスはヴィンセントを
オトハがタルタロス島に向かうのは選別試練を受けるためではなく、そもそも彼女は加護持ちですらない。
広報商社RCCの若手記者として、取材のためにこのトリアイナ号に乗船しているのだった。
「どれどれ、見せてみろよ。お前はおもしれぇからな、手伝ってやる」
「きゃあ!? だ、だから裸でこっち来ないでください!」
「嫌だね。おもしれぇから」
全裸のままヴィンセントは立ち上がると、無精髭の伸びた顔をオトハが取り纏めていた記事の原稿へ覗き込ませる。
“ついに開幕!
ついに今年も選別試練が始まります!
毎年恒例の選別試練特集は、今回は私こと、オトハ・ゲティングスが担当いたします! よろしくお願いいたします!
まずは、今年の選別試練の合格者予想ですが、最も前評判が高いのは“
一昨年と去年の選別試練の合格者である“
なんといっても、レオナルド・ベッキーは、その姓から分かるように神下六剣の一人、“剣王”アガリアレプト・ベッキーの実の息子です!
実力、才能、実績共に今回の選別試練の参加者の中では頭ひとつ抜ける存在といえるでしょう!
次に可能性があるのは、二年ぶり二回目の参加となる“
そこまで数秒で目を通すと、ヴィンセントは鼻で軽く笑うと、再びベッドの方に戻る。
「なんか、凡庸でつまんねぇ記事だな」
「うっ! ちょうど私が気にしていることを……やっぱり、なんか弱いですよね?」
「ありきたりすぎる。インパクトが弱すぎんな。目が滑る滑る。お前の自慢のデカ乳のバストサイズでも載せねぇと、そんな記事誰も読もうと思わねぇ」
「の、載せませんよそんなもの!」
手で何かを揉みしだくようなジェスチャーをしながら、ヴィンセントがいやらしい笑みを浮かべると、オトハは自らの胸を隠すように両腕で覆った。
選別試練の独占取材は、広報商社RCCの若手記者が通る一種の登竜門のようなものだ。
この記事で評判が良く、記者として名を売った者は皆出世していった。
しかし、逆にここで評判を落とした者は出世の道が絶たれ、今でも記事を書き続けている者はいない。
そのため、オトハもまた自らの
「やっぱり、“堕剣”、だろ。ネビ・セルべロスのこと、書かないのか?」
「……それは、まだ確定した情報じゃないので」
堕剣ネビ・セルべロス。
その名前が出た瞬間、オトハは悩むように口を一文字に結ぶ。
今回の選別試練に堕剣が紛れ込んでいるという噂はたしかに耳にしているが、それを自らの記事に入れ込むか彼女はまだ判断できていなかった。
「あの変な麻袋を被った男のことですよね?」
「ああ、そうだよ。どう考えても、あれ堕剣だろ」
「いやぁ、でも本当にそうですかね? さすがにあんな目立つような格好で選別試練に乗り込むとは思えないんですけど」
「なんだよ。直接見た俺の言葉を信じてないのか?」
「だって、ヴィンセントさんも結構胡散臭いし、私にデマネタ掴ませておもしろがろうとしてるんじゃないですか?」
「カハハッ! たしかに、それは一理あるな」
「ほら! やっぱり!」
「まあ、自分で確かめるまで信じないってのは、アリだな。自分以外は信じない。正しい心がけだ」
不敵に笑うヴィンセントはそこで、ふと動きを止めると、何かに耳を澄ませるような体勢を取る。
雰囲気の変化に、オトハは困惑する。
「どうしたんですか? ヴィンセントさん?」
「……そろそろ、服を着た方が良さそうだな」
次の瞬間、凄まじい衝撃が船を襲い、大きな揺れでオトハは椅子から体勢を崩して尻餅をつく。
「うへぇっ!? な、なんですか今の!?」
「さあ。なんだろうな。いいねぇ。興奮してきたぜ。おら! いくぞオトハ!」
「きゃっ!?」
脱ぎ散らかしてあった服を手早く着込むと、いまだに混乱が収まらない様子のオトハを無理やり立たせて、勢いよく扉の外に飛び出す。
びゅうびゅう、と吹き荒れる風。
どこまでも広がる水平線。
日は沈みかけていて、橙色に世界が染められている。
海水が混じったベタつく風の中、ヴィンセントとオトハはそんな中で、黒くて大きな影を見つける。
「あ、あれは、なんですか?」
「へえ? 珍しいな。今の時期にこの海路に
海面から伸びる、分厚く太った触手のようなもの。
夥しい数の吸盤がついたその触手というよりは、触腕と表現すべき大きな影は、おそらく魔物の身体の一部であろうが、本体は海中にあるようで全容は把握しきれない。
「な、なんか、大きくないですか?」
「こりゃ、何人か死ぬかもな」
「え!?」
ヴィンセントは冷静に状況を観察する。
本来、この十二月の時期は海流の変化によって、タルタロス島までの道のりに魔物が出現しないシーズンのはずだった。
一年にこの時期にだけ選別試練が行われるのは、この魔物が現れない時期が決まっているのも大きな理由だ。
だが、視界に映る大きな触腕は明らかに魔物のもの。
海上という制限もあり、圧倒的に巨大な魔物と戦うには不利だ。
先ほどの船体への衝撃から考えても、それなりの脅威がある上位の魔物に襲われているのは間違いない。
ヴィンセントは素早く、計算する。
戦うか、まだ静観を保つか。
だが、彼が計算結果を導き出す前に、狂気じみた絶叫が響き渡る。
「アハハハハハハハハッ!!!!!! ご馳走だッ! 食事と
何かが、跳んだ。
一切の迷いを見せずに、黒い外套を羽織った何者かが、船から全力で海に向かって跳んでいった。
「……は?」
ヴィンセントにしては珍しく、気の抜けた声が口から漏れる。
動体視力の高い彼の目だけが、捉えた一瞬の出来事。
頭に麻袋を被り、なぜか包帯をぐるぐる巻きにした剣を手に持った何者かが、海面から伸びる全長数十メートルはあろうかという触腕に向かって飛んだ。
——グルンッ、と大きな触腕は俊敏に反応し、謎の奇声を上げた何者かを掴み取ると、そのままあっという間に海の中に引き摺り込む。
途端に満ちる、静寂。
先ほどまでの触腕はもう戻ってこず、時々小さな波飛沫が船体にぶつかるだけ。
「あれ? 消えちゃいました?」
「……」
あまりにも一瞬の出来事で、何も把握しきれなかったのかオトハがきょろきょろと辺りを見渡すが、もう二度とその触腕が海から伸びてくることはなかった。
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