魔女狩り
ちゅるり、ちゅるり、と青と翠の縞模様をした小鳥が囀る朝。
机の上に散乱した書類の山から、一枚ずつ手に取り、大きな隈のついた目で中身に目を通す若い女性が一人。
彼女の名はアンジェラ・ギルバート少佐。
この中央都市ハイセントラルにある連合政府本庁舎の一室で、彼女は上層部から与えられたペーパーワークを黙々と一人でこなしているところだった。
(魔物の軍勢による要塞都市ハイゼンベルト襲撃、それに伴う中央都市ハイセントラル急襲に関する報告書。やっとだいたい形になってきた。昼までの提出には間に合いそう)
連日の徹夜のせいで首がこり、アンジェラは深い溜め息をつきながら自らの手で肩の付近を揉みほぐす。
机上に置いてあるとっくに冷め切った紅茶を啜ると、窓から覗くいつもと変わらない街並みを見て安堵する。
(一歩間違えば、ここも要塞都市と同じような、いや或いはそれ以上の惨劇に見舞われた可能性もあった。ここまで被害が抑えられたのは、奇跡に近い)
要塞都市ハイゼンベルトにアンデッド型の
しかし、兵士こそ何名か負傷したが民間人の死傷者数はゼロという、事態の大きさに比べれば驚くほど小さな被害規模で抑えることができた。
既知の情報によれば、かつて
(現れている魔物の質と量に比して、これほど被害が抑えられたのは奇跡を超えて、奇妙に近い。実際、私も報告書にはあげてないけれど、不思議なものを見ている)
アンジェラは、要塞都市から溢れ出たアンデッド型の魔物が自分に襲いかかってきた時のことを回想する。
彼女は最低限の体術、剣術は扱えるが、
低級の魔物一匹が相手ならなんとか対応できるが、二匹に挟まれてしまえば、その時点でほとんど死が確定するほどの実力差がある。
(……あの時、たしかに私は見た。勝手に魔物が死んでいくのを)
思い返すのは、あまりに奇妙で、現実離れした光景。
中央都市に侵入し、自らに襲いかかってきたアンデッド型の魔物。
その魔物がアンジェラに掴み掛かろうとしたその瞬間、突如首が刎ねられた。
周囲には誰もおらず、遠方から誰かが手助けをした様子もない。
一度ならば、何かの見間違いか何かだと、自分を納得させることもできた。
しかし、その不思議な現象は、数え切れないほど何度もアンジェラの瞳に映った。
街の中に足を踏み入れた魔物達が、一匹、二匹、と突如首を刎ね飛ばしていくのだ。
それはまるで、誰かの死を肩代わりしているのかのよう。
この説明不可能な現象を目にしたのは、アンジェラだけではなく他の兵士たちも同様で、何人もが目の当たりにしたという。
(結局あれはなんだったのでしょう。それに他にも説明が難しいことはいくつもある。本当に今回は謎の多い事態ですね)
アンジェラにとって最も不可解だったのは、その魔物の自然死だったが、他にも小さな謎は幾つも残っている。
自らが作成した報告書に、改めて彼女が目を通すと、本当にこれをそのまま上層部に提出していいものかと迷うほどだった。
——コン、コン、コン。
そんなふうに物思いに沈むアンジェラが、どこか聞き覚えのある間隔のノック音を耳にする。
このような朝早い時間帯に彼女を訪ねてくる人物は限られている。
休まず仕事を続けていたため、若干乱れた髪を手早く整えると、彼女は返事をする。
「どうぞ。鍵はあいています」
「早い時間帯にすいませんね。お邪魔させていただきますよ、中佐」
ぎこりと音を立てて部屋に入ってくるのは、神父服を着込んだ銀縁眼鏡の男——サウロ・ラッフィー。
唯一今回の事態が起きている最中、転移門が閉まる前に中央都市の方へ移動してきた
「もしかして寝ずにお仕事ですか? うら若き女性の肌に悪いんじゃないですか、中佐?」
「一応訂正しておきますが、私は少佐です」
「でも近々中佐に昇進するんでしょう? 知ってるくせに」
「内々の話は、私のような末端軍人には降りてきません」
「ははっ。さすがその若さで中佐にまで昇進した才女は、隙を見せませんね。ちなみに、今回の昇進、僕からの進言も考慮されてるんですかね?」
「……今言いましたように、私にはわかりかねることです」
「まあ、僕からの色がなくても、どっち道昇進してたかな」
首からかけた十字架を指で弾きながら、サウロは色艶の良い顔で窓の外を見つめる。
段々と街も目覚め始め、新聞売りの少年が走りながら朝刊を放り投げている。
「あ、もしかして、それ、報告書? 僕、見てもいいかな?」
「本来ならば政府関係者以外に見せることはできない書類ですが、サウロ殿の立場上、申請さえすればいつでも見れそうですね。構いません」
「さすがアンジェラさん。中佐とばして大佐にするよう、言っておくよ」
「パワハラです」
「おっと、それは失敬。今の発言は水に流してくれないかな。水の騎士だけに」
「……」
無視か、傷つくなぁ、とボヤくサウロはアンジェラの執筆した報告書を手に取ると、真剣な表情でその文字を目で追っていく。
速読の類を嗜めているのか、すぐに読み終わると、少し拗ねたような表情でサウロはアンジェラの方に青い瞳を送った。
「なんかこの報告書、僕の話薄くない? しかも中身、軽くディスってないですか?」
「“水の騎士”サウロ・ラッフィーに関する報告。転移系能力を持つ魔物を発見、また一時交戦。その後、標的の逃走を確認。何か間違いがありますか?」
「標的の逃走って、なんかもっと良い言い方ないの?」
「魔物に逃げられたとでも、平易に書き直しましょうか?」
「……意地悪な中佐ですね。やっぱり大佐に昇進させるように推薦状書こうかな」
「パワハラです」
「これに関しては、僕がパワハラ受けてる側じゃない?」
「私に
「もっとタチが悪いなあ」
サウロは苦笑しながらも、報告書を机の上に戻す。
要塞都市と中央都市をつなげた魔物に関しては、死亡が確認されていない。
最後にその姿を見たのはサウロだったが、剣姫タナキアと死王ラモルトの戦闘中に、その姿を見失ってしまったのだった。
「まあ、間違ってないですからね。いいですよ、このままで。あの魔物自体は、弱くはないけれど、強くもない。僕でも倒せる程度だった。そこまで警戒しなくてもいいでしょう。能力が特殊だからそこだけ厄介だけど、剣姫に深傷を与えられていたし、しばらくは大人しくしてるんじゃないかな」
「剣姫、ですか。そういえば、サウロ殿は直接その剣姫の戦いをご覧になったんですよね? どうでしたか?」
「どうって言われても。アンジェラさんが自分でそこに書いた通りだよ。問題なく、殲滅。あれは規格外だね。魔物を狩るという能力において、あそこまで際立った人間は見たことがない。それにあれでも、全力じゃない感じでしたね」
「さすがは神下六剣、ということですか」
「まあね。だから余計に気になるよ、彼女が倒せない相手がいるということがね」
「……“堕剣”、ですか」
「影はちらほら見えていたけれど、結局最後まで姿を見せなかったからね」
堕剣ネビ・セルべロス。
今回の事件の主犯として疑われている世紀の大罪人。
『堕剣ネビ・セルべロスの関連性は不明』
報告書には短く、そう書かれている。
しかし、要塞都市ハイゼンベルトのすぐ近くに堕剣が潜んでいたことは確かだ。
目撃情報は“将軍”リオン・バックホーン、“
「三名の
「そうだね。僕も剣姫やリオンさんに直接聞いたけど、よくわからなかったね。剣姫は堕剣に会ったことは確かみたいだけど、何を聞いても不機嫌そうに黙るだけだし、リオンさんは堕剣に助けてもらったらしいけど、そもそも自分たちを襲っていた魔物を堕剣が育てていたとか、筋の通らないことを言ってるからね。死にかけたショック体験で、記憶が混乱しているのかもしれない」
「はい。その話は聞きましたが、正直言って、支離滅裂かと。堕剣が魔物を育てているというのはありえる話ですが、その魔物に襲われているリオン・バックホーンを助けるというのはよくわかりません。もっとも、魔物を育てるのが可能なのかどうかすら検証が必要かと」
「それに、この報告書に書いてないけど、その堕剣が育てているらしい顔のない魔物の活躍も聞いてるでしょ?」
「……はい。それも一応、話は聞いています。“
「そうそう、それそれ。僕は実際その共闘を見てないけど、リオンさんやイリヤさんもその共闘については見たって言ってるからね。仲間割れか、魔物の中にも派閥の違いがあるのか謎だけど、とにかく共闘自体は本当らしい」
「それに、ノア・ヴィクトリアがその顔のない魔物と共に失踪したとも聞いています」
「あまりに謎が多すぎるね。剣姫がなぜ堕剣を見逃したのかもわからないまま、彼女はまたどっか行っちゃったし。堕剣の作戦は失敗したのか。それとも、はなから別の目的があったのか……」
そこまで言葉を呟くと、サウロは何かに気づいたかのように、はっと息を飲む。
不穏な気配を感じ取ったアンジェラは、静かにサウロの次の言葉を待つ。
「……もしかしたら、逆なのかもしれない」
「私にもわかるよう、説明願えますか?」
「今回、堕剣を目撃したのはリオンさん、ノアさん、剣姫タナキアの三人。そしてそれにあえて加えるなら、顔のない怪物」
「はい。そう聞いています」
「最初は削るために、行動を起こしたと思っていた。僕たち人類側から高いレベルの加護持ちを削るためだと」
「実際、今回も一歩間違えれば、何人もの優秀な加護持ちが失われていたと思いますが」
「でも、現実、誰も死んでないでしょう? しかも、たったの一人も、だ。堕剣は最低でも剣姫タナキアに出会っても逃げ切れるほどの実力は持っている。ノアさんを相手にした時どうかはわからないが、それこそ瀕死の状態だったリオンさんは確実に殺せたはず。それにも関わらず、むしろ助けられたとまで言わせている」
「はい。それが何か——いや、そんな。逆というのは、そういう意味ですか? まさか、それはさすがに考えすぎでは?」
「アンジェラさんも気づきましたか? 一つの可能性に」
首筋を冷たい汗が走る。
それは、あまりに恐ろしい可能性だった。
だが、その考えが真実だった場合、幾つかの疑問点に答えが出る。
「……堕剣ネビ・セルべロスは、加護持ちを削るのではなく、自らの手駒として増やそうとしている?」
「大いに可能性はある。実際、堕剣は顔のない魔物を自らの配下に置いているらしいし、その怪物と共にノアさんは失踪。剣姫タナキアも今は行方不明になった」
「そんな。裏切りということですか?」
「いや、裏切りとはまた違うと僕は思っている。どこまで強制力があるのかわからないけれど、堕剣ネビは何らかの能力によって、自分の命令を相手にきかせることができるんじゃないかな? 堕剣に会ったとき意識が朦朧としてたはずのリオンさんなんかは、自覚症状がないのかもしれない」
渾神カイムに始まり、今度は顔のない怪物。
たしかに神と魔物を同時に味方にするのは、いささか無理があるように思える。
しかし、それこそが堕剣ネビの能力ならば、辻褄があう。
「これまで何柱もの神々が、堕剣ネビに脅されて柱の加護を渡したというのも、その能力のせいですか?」
「そうだね。それも前から不思議に思っていたんだ。誇り高い神々が、どうしてそんな簡単に堕剣ネビに柱の加護を奪われてしまうんだろうってね。でも、それこそが堕剣の力なら説明がつく。それに気づいた初神バルバトスは、もしかしたら加護を奪われないように自死したのかもしれないね。バルバトスは他の神々に比べても、責任感が強そうだから」
「もし、それが事実なら、恐ろしいことです。黄金世代の一人と、信頼と実績の厚いベテラン加護持ちが一人、さらに神下六剣の一人が本人の意思関係なく、堕剣ネビの手先となっている可能性があるなんて」
「……まあ、あくまで推測にしかすぎない。ノアさんと剣姫タナキアはもう追えないから、しばらくはリオンさんの様子を監視するくらいしか、確認する術はないね」
「はあ、まだまだ忙しい日々が続きそうですね」
「でも、睡眠はちゃんと取らないとダメだよ? 寝てる間に、堕剣の手先になっているかもしれないけどね」
「笑えない冗談ですね」
せっかく報告書を書き上げて楽になった気持ちが、また深く沈む感覚にアンジェラは落胆する。
寝不足の日々が、また近い将来に訪れそうに思えた。
「そういえば、とっておきの紅茶、淹れてくれるんじゃありませんでしたっけ?」
「……よくこんなタイミングで言えますね、そんなことが」
「なんかアンジェラさん、暗い顔してるから」
「誰のせいですか誰の」
不吉な推理を語ったわりに、あまりに気にしていないような様子のサウロをアンジェラは睨みつける。
だがそれをさらりと躱わすサウロは、責任感のない微笑みを浮かべるばかり。
「堕剣ネビ・セルべロス、か。今回会えなかったのは、幸か不幸か、どっちだったんだろうね」
「私はもう、考えるのに疲れました。とっておきの紅茶を淹れて、全て忘れることにします」
「そうだね。今は、それがいい。今は、ね」
サウロの意味深な微笑を視界から外して、アンジェラはお気に入りの茶葉を取りに席を立つ。
窓から差し込む光は、暖かく、眩しい。
この平穏がどうか少しでも長く続くことを、彼女は祈るばかりだった。
——————
連合大国ゴエティアに属する中央都市ハイセントラルの裏路地。
洗練され、都会らしい美しい街並みを誇る街の片隅にひっそりと佇む薄暗い小道。
街灯の類もなく、日が沈めば暗闇に染まる人気のない空間。
掃き溜め、スラム街、闇市などと呼ばれる中央都市の暗黒面。
そんな腐臭漂う薄汚れた道の角で、一匹の魔物が息を潜めていた。
「……オロオロオロ。魔女様は殺され、ボクも全身ボロボロ、計画は全て失敗。惨めすぎて、泣いちゃった」
泥まみれになった燕尾服を着込み、一目につかないように縮こまる魔物は泣き顔を模した仮面の乾いた表面を、手の甲で擦り上げる。
神々の時代。
その神々の尖兵である、加護持ちと呼ばれる特別な力を持ったニンゲン。
彼にとって、それはあまりに強すぎた。
知恵も、策もある。
しかし、力が足りない。
あくまで彼は
成り上がるには、協力者が要る。
そして、その協力者はもう、亡き者となってしまった。
「あー! いたいた! コレだよコレ! コレが欲しかったんだ!」
膝を抱えて丸まる仮面の魔物——クセルクセスにかけられる、不自然なほどに明るい声。
顔を上げれば、そこには鮮やかなショッキングピンク色の癖毛をした少女がいた。
どこか超然とした雰囲気を持つ少女は、青、翠、赤、黄色と数秒毎に色を変える瞳を傷ついた魔物に向けている。
「汚ねぇな。こんなゴミ、本当に拾うのか? いらねぇだろ。殺そうぜ。べつにいいだろ? 殺しても」
「だめだよパイモン! コレは、うちが拾うって決めたのですますまる!」
その少女の後ろでは背の高い男が、冷酷な瞳でクセルクセスを見下している。
全身から漂う殺気。
黒い長髪に、感情のまるで浮かんでいない無機質な黒い瞳。
本能で理解できた。
この男に、逆らってはいけないと。
「役に立つのか? このゴミ」
「もっちろん。転移系の能力は珍しいからね。手札は多ければ多いだけいい」
「俺とお前がいれば、十分だと思うけどな。全員、殺せるだろ」
「パイモンはほんっとにいつも自信満々だね! そういうところ好き!」
「じゃあ、こいつ殺していいか?」
「だけどそれはダメなのですますまる!」
少女と男は、クセルクセスを無視したまま二人で話を進める。
おそらく、魔物ではない。
なぜなら、魔素を感じられないから。
たぶん、人間ではない。
もっと得体の知れないおぞましさを感じ取れるから。
「オロオロオロ。お二人はどちら様? 怯えすぎて、泣いちゃった」
「うん? うちら? そうだね。人の世界では、神って呼ばれるよ! 今この瞬間を持って、キミはうちのモノだから! よろしく! ごめんだけど拒否権ないよ!」
少女は無邪気に笑う。
その隣では男が、無言でクセルクセスを見下し続けている。
神。
ニンゲンがそう呼ぶ存在がいることは知っている。
だが、彼が思っていたような存在とは少し違うようだった。
「このゴミ本当に役に立つのか? デカラビアの時も結局、意味なかったじゃねぇか」
「まあ失敗は成功の味の素って言うからね! 仕方ないよ!」
「ネビ・セルべロス。そんなに気にする必要あるのか? さっさと殺そうぜ」
「だめだよパイモン! ネビにはまだ手を出しちゃ! 始まりの女神とそのお気に入りである剣聖ネビ・セルべロス。加護の剥奪なんて、中途半端だもんね! あえてルーシーはネビを殺さなかった! その理由は何か!? 本当に裏切ったのは女神か剣聖か、あるいは両方か! にゃははは! 異端者はどこにいる!? 魔女狩りが始まるよ! 楽しみだね!」
少女はどこまでも無邪気に笑う。
男はいつまでも冷たく見下す。
クセルクセスは、自らをモノ扱いする神々を見て、心が疼きだすのを感じた。
魔が、騒ぎだす。
悪意は、そこにある。
「これがニンゲンの神? オロオロオロ、邪悪すぎて、泣いちゃった」
仕えるに、値する。
泣き顔を模した仮面の下で、クセルクセスは牙を剥く。
時代は、変わりだしている。
魔物と神々。
本来は混ざり合わないはずの二つが、段々と混ざり合いだしている。
「なあ、セーレ。面倒くせぇから、どっちも殺そうぜ?」
「だめだよパイモン! もっと迷わないと!」
男——第三柱“
少女——第七柱“
七十二柱の神々の中でも、最序列と呼ばれる一桁を冠する神々。
この時代において、善も悪も、全ては彼らが決めることだった。
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