発情
この世界に生まれた時からずっと、彼女は王であった。
同時に、彼女は生を受けたその瞬間から、本能的に避けているものがあった。
それは、死だ。
死だけは、受け入れられない。
やがて“魔女”と呼ばれるようになった彼女は、長い時間の中で死を忘れつつあった。
しかし、彼女——メイガスは死を思い出す。
魔女に死を思い出させるのは、黒い髪に赤い瞳をした人間。
人間の世界では“剣聖”、そう呼ばれているらしい一人の男だった。
「感じる。感じるぞ。近い。近いな。お前の力が戻りつつある。
その人間は、道理のわからないことを一人勝手に呟き続けている。
ただ、的を得ている言葉もある。
力が、戻りつつある。
それは事実だ。
もう、あと何度か剣聖ネビによって切り裂かれてしまえば彼女の力が全て戻るだろう。
メイガスにとってそれは不愉快ではあるが、一種の安心でもあった。
“
魔女メイガスの唯一無二の能力。
彼女は自らの魂を分割し注ぎ込むことによって、死んだ生物を自らの兵士として従えることができる。
最大の武器であり、それは最大の防御。
死兵の人形を増やすたびに、メイガスの能力は低下してしまうが、その代わりに彼女本体へのダメージを全て死の人形が肩代わりする。
「まさか妾の人形全てを使い切るほどに、妾の身体に傷をつける者が現れる日がくるとはな」
「質は関係なく、回数で決まるんだろう? あと何回だ? あと何回で俺はお前に傷をつけられる?」
「……驕るなよ、ニンゲン。完全体になった妾の能力は、これまでとはわけが違う。後悔することになるだろう」
「後悔? しないさ。死線の先にしか、成長はないからな」
これまで緩やかに戻ってきていたメイガスの力だが、全ての魂が戻ればその力は大きく跳ね上がる。
魂の分割は、最初が最も負担が大きい。
ゆえに、最後に戻ってくる魂が最も大きいのだった。
「ついに、きたか」
ネビが、目を細める。
カチリ、と何かが嵌め込まれるような感覚。
それは、ネビの一撃より前に戻ってきた。
つまりは、どこかでメイガスの最後の死兵が何者かによって倒されたことを意味する。
屈辱だ。
彼女は、屈辱を感じていた。
「ハァ……久しぶりだ。妾が、妾の自身の力を感じるのは。そうか。妾はこれほど、強かったのか」
全身に満ちる全能感。
魔女メイガスは漲る魔素を肌で感じながら、いまだ目の前に立ち続ける黒髪の男を見やる。
赤く錆びた剣に、瞳孔の空いた赤い瞳。
酷く、弱そうだ。
魔女メイガスは、この程度の相手に、ほんの一瞬でも怯んだ自らを恥じる。
「やっと、始まりか——」
「いや、終わりだ、ニンゲン」
メイガスが、黒い爪を振り抜く。
技術も何もない、身体能力任せの一撃。
それはいとも簡単にネビを捉え、強烈に吹き飛ばす。
「妾は、強い」
三つある黄金の瞳が、地面を転がるネビを捉える。
黒いドレスを夜にはためかせ、メイガスが地面を蹴り飛ばす。
あっという間にネビの眼前に追いついた魔女は、自らの爪を捩るように伸ばしながら変形させ、黒い槍を創り出す。
「貴様より、な」
メイガスが黒槍を、凄まじい速度で突き出す。
先ほどの衝撃が残っているのか、ネビは無表情のまま、ほんの僅かに身をよじるだけ。
「言ったであろう。後悔するとな。貴様の身体は要らぬ。どれほど傷つけても、構わない」
黒槍がネビの半身を貫く。
グサリ、と一切の抵抗なく滑らかに刺さる黒槍。
あまりの手応えのなさに、メイガスが拍子抜けするほど。
ボタ、ボタ、と赤黒い血が、槍を伝って地面に落ちる。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
荒い息遣いと共に、ネビは身体を貫かれたまま、赤錆を振るう。
それをメイガスは、避けることはしない。
カツン、という響く硬質な音。
ネビの首筋を狙った一撃は、防御なく直撃したのにも関わらず、ほんの僅かなかすり傷を与えるだけ。
「妾の一撃で、貴様は瀕死。そして貴様の必死の一撃は、妾にとっては擦り傷。ふふっ。自らの手によって直接弱者を痛ぶるのがこれほど気分の良いものだと、久しく忘れていたぞ」
剣聖ネビの攻撃を自らの身に実際受けて理解できた。
その刃は、魔女の身を切り裂くにはあまりに鈍い。
急所である首筋すら、目を凝らせば僅かに血が滲む程度の傷しかつけられない。
死など、ほど遠い。
魔女メイガスは安堵する。
死を思い出したが、その匂いがいまだ遥か遠くにあることを。
「……はぁ、はぁ、はぁ。あー、これはやばいな。今のでどれだけ
だが、少し、違和感が残った。
目の前で、何かをブツブツと呟く人間の男。
魔女メイガスは、違和感の正体にすぐに気づく。
消えない。
匂いが、消えない。
死の匂いが、遠くはあるが、消えてくれない。
「《
空間が、歪む。
気づけば胸の横あたりを貫いていた黒槍は血が付着するばかりで、ネビの姿は遠くになっていた。
何かが、起きている。
何かしらの特殊能力をネビが発動させたということはすぐに理解できたが、別の、より不可解で、理解できない点が生まれていた。
「はぁ、はぁ、はぁ。内臓には大きな傷が入らないように微調整して傷は受けた。身体は問題ない。傷も小さいが、つくことは確認した。これならレベリングにも問題はない。おいおい、完璧すぎるだろ。こんなの、興奮が止まるわけがないだろ。はぁ、はぁ、はぁ———」
ネビの乱れた呼吸は、苦痛によるものではない。
先ほどまで無表情だった顔に浮かぶのは、恍惚。
欲望にギラつく赤い瞳が魔女メイガスを捉え、彼女は無意識の内に後退りをする。
「——はぁはぁはぁはぁはぁハァァアアアアアアアアアアアアアアアンンンンンンッッッッ!!!!!!! 来てる来てる来てるぞおおいいい!!!! ハハッ! やっとだ! やっとレベリングができるッ! しかも今アスタの固有技能を相手の空間位置のみ指定で発動できてたよなあ!?!?
「……ひっ」
唐突なネビの絶叫。
自然と魔女メイガスから小さな悲鳴が漏れる。
胸に穴をあけ、ボタボタと血を流しながら、剣聖と呼ばれた男は発情したかのように頬を赤らめて笑っている。
そう何度も言い聞かしても、なぜか先ほどまでの全能感が戻ってこない。
状況は何も変わっていない。
ネビは瀕死。
赤く錆びた刃は、自らに小さな傷しかつけられない。
死は遠い。
まだ、遠くにいる。
しかし、たしかに死は、そこにいた。
「さあ、濡れろ、赤錆。
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