劣情



 苦痛と共に、ノア・ヴィクトリアは眼を覚ます。

 口の中は渇ききっていて、僅かに不愉快な鉄の味が滲む。

 本能的に自らの剣想イデアである漂白を顕現させ、その手に握った。



「ほお? 迷わず剣想を握るか。なるほどな。ネビがお主を生かした理由が少しわかる気がするぞ」



 横柄な態度でノアに声をかけるのは、艶やかな銀髪を靡かせる少女。

 どこか超然とした雰囲気を持ち、興味深そうに彼女を見下ろしている。


「あ! 起きた! 君、ノアちゃんだよね!? ひっさしぶり! うちのこと覚えてる!? みんな大好き第六十一柱、渾神カイムだよ!」


 次にノアに声をかけるのは、頭の先から真っ赤な羽根をぴょこんと二本生やす明るい雰囲気の女。

 渾神カイム。

 かつてノアも試練を受けたことのある、今や世界の裏切り者とされる神だ。


「……渾神カイム。世界を裏切って堕剣についたっていうのは本当なんだ」


「ちょっとまてぇい!? 言っておくけど違うからね!? 味方とかまじしてないから! 完全に脅されてます! 不本意です! ノアちゃんうちを助けてください!」


「助けるもなにも、お主は勝手に私たちについてきているだけじゃろうが」


「いやいや! この状態でノコノコ戻っても絶対ぶちころでしょーが!」


 ぴよぴよと騒ぎ出すカイムと銀髪の少女を視界に捉えながら、ノアは周囲を見渡す。

 少し離れたところで、あの白い弛んだ肌をもつ魔物ダークが静かに仁王立ちしている。

 すぐ近くにあれほど巨大な気配を持つ魔物がいるというにも関わらず、全く気にしていないらしい。


(堕剣がいない。死んだ? いやそれはない。ノアは負けた。はっきりと覚えてる)


 ノアは自分の網膜に刻まれた最後に記憶を引っ張り出す。

 暴走した固有技能ユニークスキルに耐え切った堕剣ネビ。

 最後は多量出血と自分もまた固有技能の使いすぎで気を失ってしまったが、完全にとどめをさせる状態だったはずだ。


「どうしてノアは生きてるの?」


「ネビが生かすと決めたからじゃ。それ以上でもそれ以下でもない。私はお主の生死に興味はない」


「ごめんね、ノアちゃん。アスタちゃん、ネビに悪いように育てられてるから、ちょっとお口が悪いんだよ」


「誰が育てられてるじゃ! 失礼な! どちらかといえば私がネビの保護者じゃぞ!」


 アスタ。

 知らない名だ。

 どうやらそれが独特な雰囲気を持つ銀髪の少女の名前らしい。

 人間でもなく、加護持ちギフテッドでも、また普通の神とも違う感じたことのない気配。

 ノアがわかるのは堕剣ネビの陣営の一員ということだけだった。


「まったく。まあ、お主もせいぜい気をつけるのじゃな。ネビがお主のどこに価値を見出したのかはわからんが、どうせろくな理由じゃない。もしかしたら死んだ方がマシと思うかもしれんぞ」


「うわぁ。めっちゃ不吉なこと言うじゃんアスタちゃん。でも否定できないうちがいる」


 善意で生かされたわけではない。

 薄々理解していたが、どうやらアスタとカイムの認識もノアと同じようだ。

 堕剣ネビ・セルべロス。

 目の前の二人の反応から察するに、何かしらの目的があって彼女はあえて生かされているだけらしい。


(ノアを殺さない理由。そんなものは一つしかない)


 堕剣ネビが自らを殺さなかった理由を、ノアは一人で勝手に推測する。

 自らの力は及ばなかった。

 あの冷酷さからして、この先も自由にすることもないだろう。

 ノアは断定する。

 生きながらえることができた理由は、たった一つにしか思えなかった。



(……絶対ノアにエロいことするつもりだそれしか考えられない)



 ノアは偏見に溢れた思考から、結論を導き出す。

 普段から他者と接することが極端に少ない彼女は、やや偏った知識と感性を持っていた。


(ノアみたいな超絶可愛い女の子をあえて殺さないなんて性奴隷にしてどエロいことするつもりに決まってる)


 ノアは想像する。

 両手を縛られ、ほぼ全裸に近い姿にさせられた自分の目の前に立つ堕剣ネビを。

 なぜか上裸で、胸筋をリズミカルにピクピクと踊らせるネビが、感情のない冷たい瞳でノアを見下す。


『生かして欲しければ、わかるな?』


『くっ、殺して! こんな屈辱を受けるくらいならノアを早く殺してよ!』


『生意気な小娘だな? お前に選択肢はない。その生意気な口はこうしてやる』


『ア、アーッ!』


 昔からひとりで過ごすことが多かったため、ノアには空想癖があった。

 そこまで脳内で勝手に場面を進めると、少し興奮しすぎたのか鼻から血が一筋流れた。


「わ! 鼻血! ノアちゃん大丈夫!?」


「……問題ないそれで肝心の堕剣はどこ?」


 手の甲で鼻から垂れた血を拭うと、ノアは改めて周囲を見渡す。

 どこかに出ているのか、堕剣ネビの姿は先ほどから見つからない。

 もう一度完全に敗北しているため、もはや戦意はない。

 彼女は、賢い。

 今のままの自分では何百回挑んでも勝てないと理解していた。


「ネビならそこじゃ」


「ネビならそこにいるよ」


「……は?」


 そして自らを完全に打ち破った堕剣ネビの居場所をアスタとカイムに訊くと、その両者が同じ方向を指す。

 そこにいたのは、先ほどからずっと気味が悪いほど静かにしているあの顔のない怪物。


「いやだからネビ・セルべロスはどこ?」


「そこじゃと言っておろう」


「だからそこにいるんだって。たぶんそろそろ出てくるんじゃない?」


 言っている意味が、わからなかった。

 時々、ぶるりと身体を大きく震わせる魔物。

 そちらの方を間違いなく指しているが、そこに堕剣ネビの姿はない。

 

(そこって、あの気色悪い怪物しかいないけど——)


 ——ぴん、とその時、顔のない魔物が背筋よく硬直する。

 そして、先ほどまでとは違い、明らかに変調を窺わせるように全身を痙攣させ始める。


「え」


 ブチブチ、とやがて聞こえてくる力づくで皮膚と臓器が引きちぎられる音。

 弛んだ白い肌から、赤く錆びた刃が内部から突き出す。

 ゆっくりと切り開かれていく、怪物の腹部。


「gyaaaaaaooooo!!!!!!!」


 激痛に耐えきれないのか、これまで沈黙を保っていた怪物が絶叫する。

 グチャリと、臓器がこぼれ落ち、夥しい量の血が溢れ出す。


「うっわ。グロすぎでしょ。ちょっと見てられないんだけど。でもギャオちゃん、あれでも死なないなんて、なんか頼もしくなったね……」


「いやもうあれは死んだ方がマシじゃろ」


 切り捌かれた怪物の腹部から顔を出すのは、ボサボサの黒い髪をした痩身の男。

 ギョロギョロと真紅の瞳だけが輝き、魔物の胃酸のせいか全身のいたるところを爛れさせて、嬉しそうに白い歯を剥き出しにしている。


「プハァ! いいレベリングになったぞ! これで魔物に生きたまま丸呑みにされた場合の鍛錬ができた!」


「その鍛錬、いる?」


「いや絶対いらんじゃろ」


 全身をべっとりと血で濡らしたその男は、心底嬉しそうに声をあげる。

 堕剣ネビ・セルべロス。

 ノアに完全な敗北を教えた、元剣聖。


「……ああ、真摯な剣の女、眼を覚ましたのか」


「女じゃなくて、ノアちゃんだよ! あと、めっちゃ臭いから近づかないくれる?」


「ノア? それがお前の名か?」


 爛々と輝く紅い瞳が、ノアを貫く。

 その瞬間、ノアの中の何かが、壊れた。


(あ)


 不清潔な黒髪。

 瞳孔が開き切った赤の瞳。

 爛れた肌。

 鍛えられた一切の無駄な脂肪のない筋肉質な身体。

 魔物の死臭を全身に匂わし、濡れた赤錆を握っている。


「……ノア・ヴィクトリア」


「そうか、ノア。俺はネビ・セルべロス。お前に頼みがあるんだ」


 きゅるんと、下腹部が疼く。

 それはこれまで経験のない感覚。

 自分を道具としてか見ていない、無機質な瞳。

 その冷たさが、酷く心地よい。


「俺を強くしろ、ノア。お前は俺のレベリングになる」


「……好きにして」


 唇が、濡れる。

 劣情を、自覚する。

 ノアの全てを打ち砕いた強者である堕剣ネビが、彼女を求めている。

 その赤になら、染まってもいいと思えた。



(あ、やばい好きかもネビ様たまんない)


 


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