供物


 ギュルルクは泣いていた。

 瞳がないため、涙の代わりに大粒のよだれを流しながら、悲しみと絶望に打ちひしがれていた。


「gyao……gyao……」


 もう身体は動かない。

 抜き取られたカースドレイクの牙が、全身傷だらけのギュルルクの足を貫き、地面に突き刺さっているからだ。

 ギュルルクの種族名はアルビノバッツといい、この種族は瞳こそないが身体から超音波を発生させ、反響定位エコロケーションによって周囲を音で視ることができる。

 ゆえに、ギュルルクには理解できてしまう。

 彼女の唯一の主人の命が、風前の灯となってしまったのが、嫌でも感じ取れてしまった。

 

「ああ、なんだ、もう終わりか。宿している魔素の割には、脆いな。特性が耐久性の方面にはないのか」


 冷たい、ニンゲンの声がした。

 つい先ほどまでの興奮した面持ちが嘘のように鳴りを潜め、どこまでも無機質な音色に戻る。

 

「……バカ、な。いくらなんでも、強すぎる。本当に、ニンゲンか? なんなんだオマエは…?」


「俺か? 俺はネビ・セルべロス。今はもう、名もなき加護持ちギフテッドだよ」


 息絶え絶えな主人の声が内側に響き、ギュルルクは一層強く泣く。

 最初は、勝てると思った。

 感じ取れる気配は、そこまで隔絶したものではない。

 しかし、実際にその刃を向けられて、やっと気づいた。


 ソレは、関わってはいけない相手だった。


 そのニンゲンは、怖しいほどに強かった。

 何よりも怖しいのが、自分達のことを倒すべき敵とすら認識していないこと。

 嬲るように、或いは遊ぶように、翻弄を続ける。

 嬉々とした調子で、自らの傷さえ喜びと感じている様子で、赤く錆びた刃を振り回し続ける。

 純粋な実力だけなら、そこまで遠くは感じないのに、まるで勝てる気がしない。

 力の使い方が異常に、上手いのだ。

 それはもはや力そのもの。

 強さの質が、違いすぎた。


「オレをコロスのか、ニンゲン」


「ああ、殺すよ。これ以上死なないギリギリで傷つけても、レベルは上がらなそうだしな」


 あっさりと、異常な強さを持つニンゲンは終わりを告げる。

 ギュルルクは、ただ主人と一緒に暮らしたいだけだった。

 灰色の岩山の奥地で、静かに二人で過ごす。

 それだけでよかった。

 他には何もいらなかった。

 主人に敵意を向けるものは、これまで全てを取り払ってきた。

 だが、それも、終わる。

 ギュルルクは、ただ、泣き続けることしかできない。


「gyro! gyao! gyao!」


 瀕死の状態まで傷みつけられら身体を軋ませ、ギュルルクは叫ぶ。

 主人を守る。

 せめて、主人より先に死にたい。

 最後の悪あがきとばかりに、叫び続ける。


「終わりにするか。次のレベリングが俺を待ってる」


 片腕はひしゃげ、片足が切り飛ばされ仰向けに倒れる主人が、弱々しい動きで頭部だけギュルルクの方に向けるのが反響定位で読み取れる。

 黒山羊の真っ直ぐとした瞳が、優しく滲む。

 ドクン、ドクン、まだ主人の音は聞こえている。

 彼女は、まだ叫び続ける。

 決して届かない、最後の懇願に、彼の唯一の主人は笑って答えた。



「恨むなよ、ギュルルク」



 ——ザクリ、と柔らかなものが貫かれた音が聞こえた。

 代わりに消える、一つの音色。

 ギュルルクの泣き叫ぶ声は途絶えない。

 

「gya……o」


 もう、主人の音は聞こえない。


「……ンゥ、気持ち良すぎるだろ。これだからレベリングはやめられないんだ」 

 

 ギュルルクの主人の胸に赤く錆びた剣を突き刺したニンゲンは、それを抜き去ると恍惚とした顔で自分の唇を舐める。

 もうそこで、彼女は泣くのをやめた。

 涙は枯れきってしまった。

 無力感に全身を脱力させ、自らの終わりの時を待つ。


「なんか、ネビって本当容赦ないんだね。喋る魔物だと、ちょっとやりにくいとかないの?」


「ん? いや、特に他の魔物と変わらないな。知性ある上物の魔物はいいレベリングになる。それだけだ」


「まあ、うちも神の端くれだから、魔物相手にどうこう言うことはないけどさあ。なんか、こう、冷たくない?」


「俺がか? そうか? 自分では結構感情豊かな方だと思っているが」


「いやどこが!? この元剣聖、自己分析下手すぎん? たしかにたまにハイになってるけど、あれを感情豊かと表現して欲しくないんだけど。ね、ね、アスタちゃん、この人なんなの?」


「やめとけ、カイム。こやつに関して深く考えたら頭がおかしくなるぞ。ネビは本物じゃ。一生治らん」


「ただ魔物を狩ってるだけだろ。他の加護持ちと何も変わらないと思うけどな」


 感情の乗らない赤い瞳が、今度はギュルルクの方に向けられる。

 もう叫ぶこともしなくなった彼女は、静かにその時を待つ。

 主人は、死んだ。

 次は、自分の番だ。

 痛みすら麻痺した感覚の中、諦観に横たわり続ける。


「次はこっちか。こいつはよかったな。丈夫な魔物はいい。こいつはもう少しもつか?」


「ネビ、うちも疲れたから、今日は終わりにしよ? ね?」


「さすがに今日はこの辺にしたらどうじゃ?」


「そうか? 俺としてはまだまだ物足りないが……まあいいか。血もだいぶ流したし、少し休むか」

 

 ギュルルクの下に近づいてくる足音。

 その音に、ほんの少しだけ安堵する。

 主人を守れなかったという罪悪感も、死ねば消える。

 全身に幾千もつけられた傷よりも、その傷の方が痛んだ。


「……ん? 待てよ。これは……」


「どうしたのじゃ?」


 しかし、その異常な強さのニンゲンは、ギュルルクのすぐ傍までやってきても、中々赤く錆びた剣を突き立てない。

 倒れたまま動かないギュルルクの周囲を一周して、何か考え込むようにする。


「……こいつの傷、少し、減ってきてるな。再生能力持ちか」


「そうか? 私には同じに見えるんじゃが」


「たまにいるよね。再生能力に長けた魔物。なら、早くとどめ刺した方がいいんじゃない?」


「こいつほど高位の魔物で、再生能力持ちは珍しい。今の俺はそこまでまだレベルは高くないからな。これは幸運かもしれない」


「……おい。ネビ。まさかとは思うが……」


「え、うそ、でしょ? なんか超嫌な予感がするんですけど?」


 あまりにつけられた傷が多く、深すぎて、自覚できないが、ギュルルクのダメージは回復し始めているらしい。

 これまでこれほど痛めつけられことがなかったため、ギュルルク自身もその自らの能力を知らなかった。

 最期の時の前に、その自らの隠された能力を知らされた彼女はそこで、やっと気づく。

 なぜ、まだそのニンゲンが自らにとどめを刺さないのか。

 絶望の時間は、まだ、繰り返されるのだと。



「こいつの傷が癒えるのを待とう。傷が癒えたら、また瀕死にして、傷が癒えるのを待つ。しばらくはこいつと一緒に旅をする。構わないよな?」

 





————





 ハイゼングレイ山脈。

 連合大国ゴエティアから最も近い魔物ダークの生息域であるそこは、要塞都市ハイゼンベルトから少し離れた場所にある。

 荒涼とした火山地帯でもあるその一角で、一匹の魔物ダークが地面に転がる同輩の死骸を眺めていた。



「オロオロオロ。悲しすぎて、泣いちゃった。雷爵レオニダス。死んでしまうとは」



 人間が着るような燕尾服を纏い、顔には泣き顔を模した仮面をつけ、珍妙な格好をしている。

 大袈裟なジェスチャーでハンカチを使い、その乾いた仮面を擦りながら、足元で仰向けに横たわる遺体を思い切り蹴り飛ばした。


「……ウケる。ニンゲンどもを揺動して、レオニダスにぶつけようと思ったのに。アテが外れちゃったヨ。オロオロオロ。困りすぎて、泣いちゃった」


 黒山羊頭に足を乗せ、ギリギリと力を込めながら、泣き顔の仮面をつけた魔物は自らの顎に手を当てる。


「それにしても、レオニダスを倒せるニンゲンがいるのか。やるねぇ。領地はこれで手に入るけど、別の問題が生じちゃった。策を練り直さないと。オロオロオロ。面倒すぎて、泣いちゃった」


 ボキィ、とレオニダスの頭部の角を片方踏み砕くと、物を言わぬ屍となったその身体を背中にしょい込み、泣き顔の仮面を傾ける。


「ヨイショっと。とりあえずレオニダスは“魔女様”の供物として捧げよう。これでボクたち、だね。オロオロオロ。嬉しすぎて、泣いちゃった」


 レオニダスの遺体を背負いながらも、身軽なステップで、泣き顔の仮面をした魔物は暗闇に向かって歩き出す。

 どこか踊るような、浮ついた足取り。


 彼はあくまで貴族階級ハイソサエティ


 仕えるべき王族階級ロイヤルズを持つ、悪意を持った魔物ダーク



「死んでる暇はないよ、レオニダス。一緒にニンゲン、たくさん殺そうね。オロオロオロ。楽しみすぎて、泣いちゃった」



 彼——クセルクセスは、レオニダスの遺体を背負って、魔女の下に戻る。


 神も人間も魔物も、等しく彼にとっては供物でしかない。


 この世界を支配する新たな女王へと捧げる忠誠の証でしかなかった。


 


 


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