平穏



 真っ赤な舌を垂らす人間の男を眺めながら、彼は高い知性を持って状況を見極めていた。

 自らの縄張りに野犬が紛れ込んでいることは、数週間ほど前から気づいていた。

 彼が直々に動くことは多くない。

 魔物ダークにも位が存在する。

 最も数が多いのが、彼らの世界で労働階級プロレタリアと呼ばれる、知性のない本能のまま生きる種族だ。

 労働階級以上の魔物は自ら人の領地に赴くことはほとんどないため、彼がこうして直接人間を目にするのはずいぶんと久しぶりのことだった。

 

(変わった匂いのするニンゲンだな)


 今は神々の時代と呼ばれる、魔族が息を潜め隠れ忍ぶ時代だということは彼も理解している。

 神と人間。

 その二種類の大きな差を彼はまだ把握していないが、魔族の敵であるということはわかっていた。


(だが、こいつらの時代もそう長くは続かない。時代は、変わり始めている)


 しかし、彼は知っている。

 世界の流れが混沌の方向にうねり始めていることを。

 彼と同じ階級——貴族階級ハイソサエティと呼ばれる他の魔族たちが、人間の領地への侵略を進めていることも噂では聞いている。


(まったく、面倒なことだ。オレは平穏に暮らしたいだけなのに)


 ここ最近、彼の領地内の魔物が連続で殺されていた。

 そのため、彼はその原因を探るために自らの領地内を巡回をしていたのだった。

 赤く錆びた剣を持った人間を睥睨しながら、彼は隣の魔物に指示を出す。

 

「アノニンゲンどもをコロセ、ギュルルク」


「gyaaaaaiiii!!!!!」


 彼がギュルルクと呼ぶ労働階級の魔物は、彼の飼う奴隷ペットの中で最も暴力性が高い。

 瞳のない顔からボトボトよだれを垂らしながら大きく跳ぶ。

 分厚い脂肪に覆われた巨躯とは思えない身軽さと速度。

 相手は三人だが、問題はないだろう。

 彼の領地に迷い込んだ人間をこれまで、何百人と殺してきたギュルルクにとって障害にはなり得ない。


「お前が原因かは知らないが、トリエアズ死んどけ、ニンゲン」


 ギュルルクほどではないが、カースドレイクは彼の領地内の魔物の中でも強力な個体だ。

 人間は弱くない。

 ギュルルクが負けるとは思えないが、彼は慎重にまずはその赤い目の人間を観察することにした。


「アスタァ! カイムッ! 下がってろ! こいつは俺の獲物だ!」


「……いやべつにうちら、魔物とか興味ないし。誰もとらんから」


「……私の目当てはルーシーだけじゃ。他の有象無象はお主に任せるといつも言っておろう」


 どうやら戦士としての能力を持っているのは、黒髪の男だけらしい。

 ギュルルクの方に走り出すのは男だけで、残りの女たちは離れていく。


(剣士か。オレの領地の荒らし方からして、なんとなくあいつが原因じゃない気はするが、魔物の敵ということに変わり無い。まあいいか)


 彼は少し逡巡する。

 ここ最近の領地の荒らし方は、魔物が殺されていることもあるが、それ以上に山地が大きく破壊されていた。

 剣士にしては、派手すぎる。

 もちろん、殺された魔物の何割かは目の前の男が犯人の可能性が高いが、どうにもその全てではないような気がしていた。


(考えすぎても、意味がナイ。考えすぎるのはオレの悪い癖だ。オレの領地にいるやつは全員コロス、それだけでいい)


 本来彼は、戦いには興味がない。

 しかし、自らの平穏を乱す因子には、迷わず敵意を向ける。

 それが彼、誇り高き貴族階級の魔物——レオニダスの生き方だった。


「gyaaaaaaooooo!!!!!!」


「いいねぇっ!」


 ギュルルクの突進を赤く錆びた剣で受けた男は、思い切り吹き飛ばされるが、綺麗に着地すると、再び走り出す。

 地面に足を踏み込むたびに、下腹部からが血が滲むのが遠くから見て取れた。


(手負いの獣、というところか。オレのペットを無傷で倒すほどの実力ではないが、ギュルルクの一撃を受けられる程度には強い。残念ダ。あいつが魔物だったらオレの配下に加えてやるのに)


 叫びながらギュルルクが腕を振り回すが、それを器用な動きで回避する男は、何度も赤く錆びた一撃を繰り出す。

 だがその剣閃はどれも決定打にはならず、浅い擦り傷をギュルルクの身体に増やすばかり。

 

(満身創痍だろうに、よく動くニンゲンだ。速さだけはギュルルクより上か。思ったより長引くかもな)


 派手な傷を負っている男だが、その動きに鈍りはなくギュルルクの攻撃は全く当たらない。

 真紅の瞳を爛々と輝かせ、何度も、何度も威力の不十分な錆びた一撃を繰り返す。


「ハァハァハァッ! 鈍くて耐久性の高い魔物なんて最高だなッ! “耐久フィジックス”以外は満遍なく鍛えられそうだ!」


 黒山羊の顔をゴキゴキと鳴らしながら、だがレオニダスは男の動きに段々と違和感を覚え始めた。

 ほとんどダメージを負っていないギュルルクが一見押しているように見えるが、それにしても黒髪の男の動きに変化がなさすぎるのだ。


(なんだ、あのニンゲン? ギュルルクに攻撃が通っていないことは気づいているいるはずなのに、戦い方がずっと同じで、しかもそのことに喜んでいる感じだ。これじゃあ、時間稼ぎにしかならない……まさか、別手がいる?)


 男は、最初からギュルルクに勝つ気がないように思える。

 攻撃もずっと、頭部や関節などの急所は狙わず、腕や腹部など脂肪と筋肉で分厚く守られた最も攻撃が通りにくい箇所ばかりを切り付けている。

 時間稼ぎ。

 レオニダスは危険な気配を本能的に感じ取る。


(意図がある。男を見守る女のニンゲンたちのあの余裕。応援がいるのか、それとも何かの準備をしているのか。わからないが、今は、向こうのペースだ)


 長い間、自らの領地をニンゲンや、他の強欲な魔物たちから守り続けてきたこともあり、レオニダスは自分の危機管理能力に自信を持っていた。

 そんな彼の魔物としてセンサーが警報を鳴らしていた。

 その男は、危険だと。


(生き残るためなら、誇りは捨てよう。静観は止めだ。オレがコロス)


 自らの手を汚さないなどというプライドは、くだらないと捨て去り、レオニダスはギュルルクに加勢することを決意する。

 魔素を練り上げ、渇いた空気に火花を散らせ、ギュルルクと男を見据える。


「……へえ? こいつごとか。魔物の戦い方は潔くて嫌いじゃない」


「シネ、ニンゲン。ショーは長いとダレるからな」


 蒼白の光が、バチバチと激しい音を立てる。

 レオニダスを中心に稲妻が煌めき、焦げたような匂いが立ち上る。

 痩せ細った黒い腕を伸ばし、彼は魔素の塊を雷に変化させる。


「……gyao?」


「……恨むなよ、ギュルルク」


 凄まじい魔素の気配に、一瞬ギュルルクがレオニダスの方に顔を向ける。

 存在しない瞳が自らを見つめているような気がしたが、それでも練り上げた魔素を緩めることはない。

 彼は貴族階級。

 せめて苦しませずに逝かせることが、彼なりの慈悲だった。



「《山羊雷トゥルエノ》」



 刹那、閃光が炸裂する。

 圧倒的な熱量を持った雷撃が、光の速度で放たれる。

 不可避の稲妻。

 全てを焼き払う、レオニダスの切り札が真っ直ぐと男とギュルルクの下に向かう。



「たまには使うか……《編集エディット巻き戻しリワインド》」



 ——瞬間、青白い光が消え去る。

 空気を焼くオゾンの香りが消え去り、レオニダスは困惑に硬直する。


「遠距離攻撃は面倒だな。お前から先に潰すか」


「ア?」


 レオニダスが疑問を抱くより早く、血潮が噴き出す。

 これまでとは違い大きく振り抜かれた赤い錆は、いとも簡単にギュルルクを切り裂き、その大きな体が揺らぐ。


「アハハハハハハハッッッ!? キモチイイいいいいッッッ!!!! 今、レベル上がったろ完全にィ!? 筋力ストレングスが上がったッ! 快ッ感ッ!」


 ギュルルクが姿勢を崩し膝をついたと思えば、次の瞬間、邪悪な獣が目の前にいた。 

 慌てて臨戦体制を取ろうとするが、その瞬間腕を取られ、いとも簡単に関節が反対方向に折り曲げられる。


「ガアアアッ!?」


「……戸惑うなよ、魔物ダーク。お前の方がいい匂いがする。一発ちゃんと喰らわせるが、このくらいじゃ死なないよな? 頼むぞ、もっとお前で鍛錬レベリングしたいんだから」


 激しい動きに身体の傷口が再び開いたのか、下腹部がほとんど赤に染まっているが、その男は一切気にする素振りを見せない。

 血よりも赤い瞳を輝かせ、レオニダスに笑いかけるだけ。


 振り抜かれる、赤く錆びた剣閃。


 先ほどまでより何段階も上の速さで、切り刻まれるレオニダスの痩身。

 

 そして彼は知る。

 


 もう、彼の愛した平穏は二度と戻ってこないのだと。




 

 

 

 


 

 

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