失脚
また悪夢を見ていた。
第六十一柱、渾神カイムはふと目が覚めた時、まず安堵した。
もう何度も繰り返し見た悪夢だ。
人生で最も時間のかかった試練。
一生終わらないとさえ思えた、悪夢の記憶。
あの赤い錆は、今は見えない。
そのことだけに安堵して、カイムはやたらと重い体を起こす。
「やっと起きよったか。ずいぶんと手間をかけさせてくれたの、カイム」
知らない間に仰向けになっていた身体を半身上げると、そこには苦笑しながらカイムを見つめる銀髪の少女がいる。
第七十三柱、腐神アスタ。
おぼろげながらも、カイムは自らの意識が途切れる前の記憶を思い出す。
(そうだ。うち、変な魔物に寄生されて……)
自分の体内に魔物が入り込んだあの感覚は覚えている。
改めて自らの全身を眺めてみれば、傷だらけで倦怠感のようなものもかなり強い。
頭痛も感じ、口の中に血の味も滲んでいた。
「お久しぶりです、渾神カイム様。お元気そうで何よりです」
すると、今度は背後からも声が届く。
驚きに振り返ってみれば、そこには金髪碧眼のもう一人の少女がいる。
一瞬、始まりの女神ルーシーかと目を疑うが、よく見れば僅かに相違があった。
「えっと、君はたしか……ナベルちゃん、だっけ?」
「覚えていて下さったんですね。ありがとうございます」
ナベル・ハウンド。
ここ数年にカイムの試練を受けた中でも、指折りに優秀だった少女だ。
だが、その若き神童がなぜ自分の目の前にいるのか、カイムにはわからない。
「どうして、君がここに?」
「なにを呆けておる。お主が間抜けにも魔物に寄生されるから、そいつの手を借りなければならんくなったのじゃぞ」
「えぇ! そうなの!? 君がうちのこと助けてくれたってこと!?」
「いえいえ、神の加護を受けた子として、当然のことをしたまでですよ」
「うわー! ありがとー! アスタちゃんも心配かけてごめん!」
「ふんっ、べつに心配なんぞしとらんわ。さっさと見殺しにしてやろうと思っとったが、偶然近くにこいつがいたんでな」
「寄生型の魔物を倒すのにはコツがあるんです。だいたい体内のどこに潜んでいるかはパターンがありますので、宿主本体さえ弱らすことができればそんなに対処は大変ではありませんよ」
そっぽを向いて憎まれ口をきくアスタの横で、ナベル・ハウンドはにこにこと微笑んでいる。
寄生型の魔物の対処が大変ではないと言っているが、そんなわけはない。
人や神にさえも寄生する魔物など聞いたことがなかったため、そんな相手を一体どうやって対処したのかカイムには想像もつかなかった。
「ただカイム様は身体のダメージが残っていると思いますので、まだしばらくは動かない方がいいかと」
「うん。たしかにそうだね。めっちゃ全身痛いし、気分ゲロ悪いもん」
「本当に役に立たん奴じゃな、お主」
「ちょっとアスタちゃん!?」
「して腐神アスタ、これで私の方の“誓約”は守られました。次はあなたの番です」
「……わかっておる。“首”は差し出そう。それを切れるかは、お主次第じゃがな」
「ありがとうございます。心配なさらなくとも、綺麗に切ってあげますよ」
「ん? なんの話?」
「ネビじゃ。なんでもこの女、ネビを殺したいらしい」
「まあ、まだ生きてれば、の話ですが」
「ネビを? えー、やめておいた方がいいと思うけどなぁ」
どうやら、ナベルはネビを追いかけてここまでやってきたらしい。
それは、そこまで不自然なことではない。
ネビは今やもう世界の敵であり、懸賞首でもある。
だが、カイムからすれば、好き好んでネビを追い回すなど、正気の沙汰ではなかった。
「どうしてですか? カイム様から見て、私は堕剣より劣りますか?」
「いや、ナベルちゃんとネビのどっちが強いかとかはわからないけど、なんというか、あんま関わらない方がいいと思うけど……」
「……それでも、世界の脅威を見過ごすことはできませんので」
カイムがおずおずとネビとは接触しないことを勧めても、ナベルは意思を変えるつもりはなさそうだった。
強い、弱いの概念ではない。
だが、あの感覚を直接ネビと対峙したことのある人間以外に伝えるのは難しく思えた。
「それでこれからどうするのじゃ? お主、ここから出る方法は知っておるのか?」
「……一応ここから出る術は知っていますが、それより心配なのは上の状況がまったくわからないことですね。堕剣との接触があり次第、私に精神デカラビアから連絡がくる手筈になっていますが、それが全くありません」
「馬鹿カイムのせいで、ここで結構時間を食ってしまったからの。もうあのハゲはネビに喰われたんじゃないか?」
「それはどうですかね。言っていませんでしたが、上には私の知り合いが一人います。もし彼女に堕剣が出会っていたのなら、簡単には勝てませんよ。さらに精神もいるのなら、ますます堕剣の勝率は下がるでしょう。正直言って、私が手をだす前に堕剣が屈している可能性の方が高い。もっとも、それにしても連絡は来るはずですが」
ナベルがその美しい相貌を僅かに固くする。
しかし、アスタとカイムはその情報を聞いても特に表情を変えることなく、ナベルの方をどこか優しい目で見つめるだけだった。
「腐神アスタ、なんですか、その目は?」
「いやあ、お主は、あの狂犬のことをわかっておらんのじゃなと、思ってな」
「ナベルちゃん、やっぱり考え直したら? ネビとか、ほんと距離置いた方がいいって」
それを信頼と呼んでいいのか、ナベルは迷う。
どういうわけか、渾神カイムと腐神アスタは堕剣ネビの勝利を全く疑っていないらしい。
この二人が特別ネビを過大評価しているわけではなさそうだ。
カイムに至っては、ネビに対して苦手意識すら持っているようなそぶり。
「それほどまでに、強いんですか?」
「強いというよりは、異常なのじゃ」
あの一瞬の邂逅。
堕剣ネビが弱いとはナベルも思っていない。
しかし、そこまで圧倒的に強いとも感じなかった。
アスタに至っては、彼女の固有技能を完全に理解とまでしていないだろうが、垣間見ているはず。
それでも、誰もがナベルの勝利を想像していない。
彼女にとっては、それがたまらなく不愉快だった。
「……まあ、いいでしょう。誓約は誓約です。どうやら答え合わせの時間がきたみたいなので」
「どういうことじゃ? ……ああ、なるほどな」
「あぁっ! あそこ! なんかいる!」
ふと、広間の奥の闇から、質量を感じた。
覚えのある感覚に、ナベルは意識をそちらに向ける。
奥から姿を現す、筋骨隆々とした大男。
だが、記憶の姿とは一つ違う点がある。
「お疲れ様です、精神デカラビア。その様子だと、ずいぶんと派手に試練を与えたみたいですね」
隻腕。
右腕を失った状態のデカラビアは、彼にしては珍しく疲れ切った覇気のない雰囲気で、ナベル達の方に姿を見せる。
「それで堕剣は? オーレーンと交戦中ですか?」
闇の中から姿を現したのは精神デカラビアのみ。
堕剣ネビや、おそらく同行しているはずの“大食い”オーレーン・ゲイツマンの姿が見えず、それをナベルは疑問に思う。
「いえ、試練はもう終わったわ」
試練は終わった。
アスタと傷だらけのカイムをそれぞれ一度ずつみると、これまでの芝居がかった口調とは異なり、ずいぶんと大人しい口ぶりだった。
「オーレーンは敗北。アタシも柱の加護はすでにネビに譲渡済みよ」
「なっ!?」
そして告げられる衝撃的な内容。
オーレーンと精神デカラビアの敗北。
それは初神バルバトスの敗北と同等か、それ以上の衝撃だった。
「なんじゃ、やっぱりもう終わってしまったか」
「うち、デカラビアのこと苦手だけど、なんか今のこの弱り切った姿見てると、なにも言えないわ」
「……堕剣ネビは、今どこに?」
「さあ? まだ上にいるんじゃない? アタシはあなた達を解放しろって言われたから、ここに来ただけ。もう金輪際あいつと顔を合わすつもりはないから、あいつがどこに行こうと興味ないわ」
どこか投げやりな口調で、デカラビアは完全なる敗北を示す。
あの狡猾でプライドの高い精神デカラビアが、一方的にネビの言いなりになり、反撃や復讐の気配も全く見せていない。
心が、折れている。
命こそまだ保っているが、神としては、もうデカラビアは死んでいた。
「ここを行ったところに、隠し階段がある。扉はあけておいた。そっから早く出ていってちょうだい。ちんたらしてると、またあいつの機嫌を損ねるかもしれないから、急いで」
厄介者を追い出すように、デカラビアは手を払う。
ナベルに対しても特にもう何の興味も抱いていないようで、まるで視線すら合わない。
「デカラビア、あなたはこれからどこに?」
「ネビがいないところに行く。それだけよ」
地上へと続くらしい階段とは反対方向に歩き去ろうとするデカラビアの背中に声をかけると、振り向くことはせず返事が返される。
「……最後にデカラビア、あなたはどうして神々を裏切ったのですか? 魔物は神々の領域にいてはならないはず」
そこで、やっとデカラビアの足が止まる。
だがそれでも、第六十六柱が顔をナベルに向けることは結局最後までなかった。
「……同じ神でも、魔物を恐れるのではなく、支配する神もいるってことよ。アタシは貰っただけ。上には上がいる。それは神も人も同じ。あなたもいつか知ることになるわ、ヤングガール」
第六十六柱、“精神デカラビア”の失脚。
欲望の街、歓楽都市マリンファンナを支配する神は、自らその座を降りる。
そのまま、一度も振り返ることなく、精神デカラビアはまた別の闇の中に消えていった。
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