幼児



 神が、祈っていた。

 額には脂汗を浮かべ、両膝を自らの腕で抱き抱え、息を潜めて物陰に隠れている。

 現代は偉大なる始まりの女神ルーシーの統治下にある、“神々の時代”だ。

 神が恐れるものは、少ない。

 魔物ダークと呼ばれる、神にとって毒となる魔素を宿す天敵。

 その天敵に関しても、加護持ちギフテッドなる魔素を自らの力に変えられる特別な人の子たちの登場によって、大きな脅威とはならなくなった。

 人の子たちに試練を与え、感謝を受け取る。

 それだけで、平穏な日々を得られるはずだった。


(……あいつは、どこにいった?)


 そんな何も怖れるものなどない穏やかな時代で、しかし今、神は祈っていた。

 頭頂部からは真っ赤な羽根を二本生やし、目の周囲が黄色く化粧された、少女の姿をした彼女の名は、“第六十一柱”、渾神こんしんカイム。

 カイムは山奥に創り上げた、木造の自ら邸宅の天井裏の部屋の一角に隠れ、ひたすらに祈りを繰り返している。


(嫌だ嫌だ。死にたくない。私は神だもん。死んでたまるか)


 神にも、死は存在する。

 人や、動物や、魔物と、何ら変わりはない。

 首を切り落とされ、胸を貫かれ、頭蓋を踏み潰されれば、そこで意識は永久に途絶える。

 

 ——ギィ、ギィ、ギィ。


 身動ぎ一つせず、呼吸の音すら最小限にするカイムの鼓膜に、木の床が軋む音が届く。

 本能的な恐怖に、彼女は全身が硬直するのがわかった。

 渾神カイムは神々の中でも、友好的な気質を持つ。

 普段であれば、たとえ魔物を相手にした時でさえも、ここまで緊張した態度は取らない。

 だが、今回だけは例外だった。

 挨拶もなく自らの敷地内に侵入してきた“ソレ”を、彼女はよく知っている。


 交渉は不可能。

 慈悲はない。

 存在としては天災に近い。


 音が止み、張り詰めたような沈黙が広がる。

 たった一度だけ、ソレにカイムは遭遇したことがある。

 その記憶は今や、強制的に心の奥底に仕舞い込み、極力思い出さないように努めてきた。

 間違いなく、これまでの記憶の中で、最悪のものだったからだ。


 ——ギィ、ギィ、ギィ……。


 音は段々と遠のいていく。

 緊張のあまり、渾神カイムは気分が悪くなり始めていた。

 早く外に出て、新鮮な空気を吸いたい。


(もうむり。ほんとやだ。どっか行ったかな? 諦めた?)


 耳を澄ますが、もう遠くから小鳥の囀りが聞こえるばかり。

 獲物を探すように徘徊していた気配は、もう消えた。

 それでも念の為、数十分ほど待ってから、渾神カイムは自らが隠れていた空っぽのヴァイオリンケースをそっと開き、周囲を伺う。

 

(……助かった、かな?)


 頭頂部の赤い羽根をぴよぴよと動かしながら、ひょこっと顔を出す。

 天窓からは眩しい日の光が差し込み、舞い上がった埃が照らし出されている。

 左右を見渡しても、どこにも人影はない。

 安心した渾神カイムはそこでやっと一呼吸をつく。


「はぁ、よかった。まじ死ぬかと思った」


「死ぬかどうかは、お前次第だ」


「……え?」


 ひやりと、身体の芯まで凍えるような声。

 時が止まったかのような感覚。

 全身に鳥肌を立てながら、渾神カイムは前後左右をあらためて見回す。

 そこにはやはり細かい灰埃ばかりしかなく、誰の姿もみえない。

 軽い吐き気を催しながら、彼女は自らに言い聞かせるように独り言を重ねる。


「な、なんだ、気のせいか……」


「久しぶりだな、カイム」


「あ、あはは、うち、ビビりすぎて、幻聴が止まらなくなっちゃった。やばすぎうける」


「幻聴じゃない。上だ」


 急に呼吸の仕方を忘れてしまった渾神カイムは、酸欠の気配を感じつつ上を見やる。

 そこには天井部の梁に足を引っ掛けて、蝙蝠コウモリのようにぶら下がる赤い目の悪魔がいた。

 目と目が合い、そこで彼女は自らの死期を悟る。



「カイム。お前に頼みが——」


「ぎ、ぎぃやああああああああああ!!!!! で、でたああああああああああ!!!!!!!! ネビ・セルべロスだああああああああ!!!!!」



 ぷつん、とそこでカイムは自分の意識が飛ぶのがわかった。

 あまりの恐怖と、無意識のうちに呼吸をしていなかったことによる酸欠状態で、渾神カイムは失神してしまったのだった。






————


 



 腐神くされがみアスタは、ジトっとした目つきで横に立つネビのことを眺めていた。

 相変わらずの無愛想な表情で、彼女と出会ってから顕現させっぱなしの剣想イデアを愛おしそうに撫でている。

 そんな彼の前では、少女の姿をした神の一柱が全身をぶるぶると震えさせながら怯えた顔で、ちらちらとアスタの方を見ていた。


(ほんとにこいつ、人間なのか? 基本的には神々と人間は同盟関係にあるはずじゃろ。こいつ、私の加護を受け取る前から敵対関係にあったとしか思えんのじゃが)


 両手と両足を縛られ、涙目を浮かべている神の少女を見ていると、アスタはなんだか気の毒な気分になってくる。

 始まりの神ルーシーを討とうとしている以上、神々と敵対しているのは間違いないのだが、ここまで一方的、というか恐怖の対象にされると気が重い。


(というか今のところ、まともに立ち向かってきた神が一柱もいないのはおかしいじゃろ。弱いものいじめをしているようで気が乗らんぞ)


 これまで何柱かの神々と相対してきたが、今のところその反応は全て同じだった。

 ネビを一目見るだけで恐れ慄き、全力で逃走するか降伏するかの二択を取るのだ。

 それはどう考えても、神が人に見せる態度ではない。

 敵意は別として、能力的にいえば、そこまでネビに過剰に怯える必要はないのではとアスタからすれば思うが、どうしてかまるで亡霊に出会ったかのようにどの神も恐怖と忌避の反応を見せるのだ。


「ね、ねぇネビってば! この拘束外してよ! もううちの加護はあげたじゃん! 用ないでしょ!? お願い! お願いだから許してください!」


 第六十一柱、渾神カイム。

 この神もまた、これまでの神と同じようにネビから全力で逃げようとしている。

 カイムの社に宿りついたネビは、まずアスタを囮にして油断させ、隠れていた彼女を見つけ出した。

 すると、ネビ曰く、彼の顔を見た瞬間気絶してしまったのだという。


(神が顔を見ただけで気絶するて。過去になにしたらそうなるのじゃ)


 ネビは気を失ったカイムを拘束した後にアスタを呼んだ。

 目を覚ましたカイムは迷わずネビに柱の加護を明け渡し、そして今に至るというわけだった。


「ああ、本来ならば、もうお前に用はないんだがな。今回だけは順番の問題で、お前に手伝ってもらいたいことがあるんだ」


「え? い、いや、たぶんむり。うちじゃ力不足だって。絶対むりだよ。うん。ほんとごめん。まじ申し訳ないんだけどむりだと思う」


「……まだ頼み事の中身を言ってないだろ」


「いやいや、だってネビの頼みでしょ? 絶対やばい。死ぬよりやばいのは目に見えてる。もう聞かなくてもわかるし。ほんっとまじで許してよ。ね、ね、いいでしょ? 許して? ね?」


「おいネビ。こいつ泣いてるぞ。もう許してやったらどうじゃ?」


「……だからべつに、まだ何もしてないし、何も言ってないだろ」


 見た目が可愛らしい少女のせいもあってか、アスタは見ていられなくなってきてしまった。

 すでに加護は受け取っている。

 これまでは加護を手に入れた後は、すぐに怯えた神々を解放していたため、なぜ今回はいまだに拘束を解かないのか、アスタは理由を聞かされていなかった。


「柱の加護を手に入れるためには、順番を守る必要があるのは知ってるな。“第七十一柱”の加護を手に入れた後は、第七十柱から第六十一柱までの加護を揃えないと、それより上の加護が手に入らない」


「そ、それは知ってるけど……それがうちと何の関係があるの?」


「お前の加護で、俺は加護数レベル11になった。一つ、足りてないんだ」


「そ、そうなんだ。ちなみに誰のやつ?」


「……“第六十六柱”」


「うわ。さいあく。よりもよって“精神せいじん”のやつか。そっかあいつ逃げるのが能力みたいなもんだもんね……ってまさか!?」


 そこまで話が進んだところで、渾神カイムの表情がこれまでの恐怖とはまた別の嫌悪の表情に変わった。

 勢いよく首をブルンブルンと横に振り、激しい拒絶反応を示している。


「お前、六十六柱と仲が良かったよな?」


「いやいや、いやいやいやいや! 全然よくないから! あいつ女体ならなんでもいいだけじゃん! まじむり! ほんとむりだって! それはガチできつい!」


「俺に試練を与えるか、俺を第六十六柱のところまで案内するか、どちらか一つを選べ」


「このひとでなし!」


「案内するだけでいい。それ以上は求めない。その後は二度とお前の前に姿を現さないと誓おう」


「うぇーん! ほんとにやだ! もううち神やめる!」 


 いやだぁ! いやだぁ! と渾神カイムは両手両足を縛られたまま、駄々っ子のように床を転がり泣き喚く。

 それはあまりに無様で、見るに耐えない光景。

 本来崇められる対象である神の一柱が、ネビの前では幼児おさなごのようになってしまうらしかった。


 


 

 

 

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