駄犬



 想定していたよりは、面倒に思えた。

 黄金姫エルドラドナベル・ハウンドは、小柄な体をすっぽりと覆い隠すような黒のロングコートを纏ったアスタを観察する。

 本人の言葉を信用すれば、アスタは始まりの女神ルーシーや初神バルバトスと同じ。


(第七十三柱の神、ね。どこまで本当かわからないけど、神を名乗るだけの強さはありそう。私としたことが、読みが甘かった。十中八九堕剣ネビは個人行動だと思ったのに)


 ナベルが学園都市ロビンレッグに来たのは、もちろん郷愁のためではない。

 堕剣の知らせは、今では加護持ちギフテッドにとって最も大きなトピックだ。

 一つ空席となった神下六剣しんかろっけんの座を巡って、多くの加護持ちが血眼になってネビを探している。

 彼女がバルバトスの下を訪れたのも、事前に大金を払って神の一人からネビがこの街に訪れることを聞きつけたからだ。

 “第十二柱”指神ししんハンニが超常的な情報収集能力を持っていることは、ある程度上位の加護持ちにとっては有名な話だった。


(あの腹黒女神。向こうの要求額を全部飲んだのに、このアスタとかいう奴の情報はなかった。クソが)


 内心で表向きでは滅多に口にしないような悪態をつきながら、ついに発現した自らの剣想イデアの切っ先をアスタに向ける。

 ナベルの剣想である黄昏は、刀身の縁部が黄金に輝く、美しい両刃の剣だった。

 彼女は、敗北を知らない。

 その黄金の煌めきを前に、膝をつかなかった者はかつてただの一人もいなかった。

 

「それがお主の剣想か。綺麗じゃのう」


「お褒めの言葉ありがとうございます。私からすれば、貴女を斬る理由がないので、私の綺麗さに免じて、そこをどいてくれたりしませんか?」


「私が綺麗と言ったのは、お主の剣想のことじゃ」


「わかっていますよ? 剣想は私そのもの。認識の齟齬はないと思いますけど?」


「口の立つ女じゃ」


「それ以上褒めても、手加減はしませんよ?」


「ほざけ。加減するのは、私の方じゃ、人間」


 先に、アスタが動いた。

 ナベルからすれば、それは意外な挙動だった。

 向こうの狙いはあくまで時間稼ぎ。

 案外、挑発に乗りやすいタイプらしい。


(私からしても、この女とまともに戦うメリットはない。適当に巻いて、堕剣を追う?)


 身軽に踏み込んでくるアスタは、フェイントも無しに真っ直ぐ掌底を打ち込んでくる。

 速度は、早い。

 本気でやり合っても、無傷で切り抜けられるとは思えなかった。


「ほぉ? やるのぉ!」


「こう見えて私も、何度も神には打ち勝ってきてますので」


 柱の加護を手に入れるためには、基本的には神々との決闘に勝利する必要がある。

 中には決闘の勝利条件を手合わせ以外に設定する神もいるが、ほとんどの場合武力による手合わせの方式が取られる。

 もっとも通常であれば、“領域ルーム”と呼ばれる神々が生み出した特別な空間で決闘は行われるため、実際に命のやり取りを行うわけではない。

 そういう意味で、ある意味本気の神々との戦闘経験はナベルにもない。

 ゆえに、アスタの実力を彼女はまだ図りかねていた。


(さて、どうしようかな。いつもなら神々との決闘は事前に情報があるから、万全の対策をしてから挑む。でも今回は未知の神。しかもここは領域内じゃない。クソ面倒。バルバトス先生が負けるとは思えないけど、それはそれで先生に手柄を取られたら、私に神下六剣になる資格が与えられない可能性もある。やっぱり勝利は度外視で、突破することに注力するか)


 初神バルバトスは、強い。

 七十一柱ということもあって、駆け出しの加護持ちが戦う神ではあるが、バルバトスの設定した勝利条件は、十秒間畏れなく彼に立ち向かい続けること。

 ナベルの人生の中でも、あれほど長く感じた十秒はなかった。

 あれから五年が経ち、彼女は大きく成長したが、正面からバルバトスと戦って勝てるかどうかは怪しいところだ。


(でも、今回の堕剣の襲撃はあれとは全くの別。十秒なんて制限はないだろうし、領域も使うことはない。本気のバルバトス先生に、たった加護数レベル1の堕剣が相手になるわけはない。急がないと、あの男、死んじゃいそう)


 いったいネビがどういった勝算があってバルバトスの下に訪れたのかは不明だったが、まず堕剣の勝利はないように思えた。


「……逆に貴女は、堕剣ネビを助けに行かなくていいんですか?」


「どういう意味じゃ?」


「貴女がどこまで現状を理解しているのか知りませんが、初神バルバトスは強いですよ? かつての剣聖ネビならともかく、今の堕剣で勝てるとは到底思えない。死にますよ?」


「いや、その心配はいらない。あいつは、勝つと言った。あいつが勝つと言ったら、勝つのじゃ。まだ私はあいつとの付き合いは浅いが、それはわかっておる」


「ずいぶんと信頼してるんですね。何か策でも?」


「べつに信頼してるわけじゃない。あいつがそういう男だと、理解しているだけじゃ。策も知らん。あいつは勝手に勝つ」


 アスタの銀色の瞳に、揺らぎはない。

 単調な蹴りと拳を繰り返し、それをナベルは何なく回避する。

 不思議な関係性に思えた。

 堕剣ネビよりも、この第七十三柱を名乗る神の方が、厄介かもしれない。


(時間稼ぎを止める気はなさそうね。クソ邪魔。むりくり固有技能ユニークスキルでも使ってぶち抜く?)


 何度か剣閃を走らせてみても、軽快な動きでアスタは避けてみせる。

 向こうもあくまで時間稼ぎのため深追いをしてくることはなく、今一いまだに実力も見極められない。

 不毛だ。

 ナベルは淑然とした外見とは裏腹に、気が短い性格をしていた。

 表情には全く出ていないが、苛立ちが募り始めている。


(うん。クソうざい。考えるのやーめた。こいつがどれほど強かろうと関係ない。今、こいつはどうでもいい。全力でぶっ飛ばそ)


 ナベルは思考を変える。

 観察をやめ、呼吸を整える。

 出し惜しみはしない。

 それが黄金姫ナベル・ハウンドの戦闘傾向ハンティングスタイルだった。


「……なんじゃ? 気配が変わったか?」


「すいませんね。本当はもう少し遊んであげたいんですけど、今、急いでるので」


 ナベルの纏う空気が変わったのを敏感に感じ取ったのか、アスタが少し距離をとる。

 僅かに警戒を強めているが、あくまで迎撃の受け身の体勢だ。

 黄金姫は笑う。

 少しでも怯めば、もう彼女を止められはしない。


「憂うには、もう遅い。《金環日イクリプ––––」


 ––––しかし、ナベルの輝きを、削ぐものが、あった。

 それは、爛々とした、赤の光。

 彼女が向かおうとした通路の奥から、悠々と歩いてくる、一人の男。

 


「事は成した。行くぞ、アスタ」


「なんじゃ、思ったより、早かったな」



 ほとんど足音のしない、擦るような足取り。

 どこか不穏さを感じさせる、赤く錆びた剣。

 まだその男が、この場を去ってから数分しか経っていない。


「……堕剣ネビ? バルバトス先生の下に向かったんじゃなかったんですか?」


「バルバトスの加護はすでにもらった。もうここに用はない」


 ありえない。

 そう断定するより早く、堕剣ネビは大きく口元を開け、だらりと長い舌を垂らす。


 その舌に刻まれていたのは、“2”という黒の刻印タトゥー


 今や全人類の敵となった堕剣ネビに、大人しくバルバトスが加護を渡すとは到底思えない。


(まさか、バルバトス先生が負けた? しかも、こんな短時間で? ありえない。いったいこいつ、何をした?)


 その現実は、あまりにも危険だった。

 ただでさえ、実力未知数の自称神アスタがいることに加えて、初神バルバトスを無傷で倒す何かしらの術を持った堕剣ネビ。

 ナベルは逡巡する。

 あまりにも想定と違いすぎる。

 彼女は感情的ではあるが、愚かではない。

 退くか、挑むか。

 そして一瞬の迷いを、獣は見逃さない。



「アアアアアアアッッッ!!!!!」


「……っ!?」


「ぎゃあっ!?」



 突然の咆哮。

 鼓膜が痺れる。

 完全に虚をつかれたナベルが刹那の間硬直する。

 アスタすら驚愕に動きを止める中、その黒髪の男だけが加速する。


「飢えが、足りてないな」


 鋭い犬歯が気づけば、眼前にあった。

 数コンマ遅れて、ナベルは剣を振るおうとするが、ネビが空いている左手で彼女の手首を掴み離さない。

 


「……くっ!」


「アスタァ!」


「わ、わかっておる!」


 ほとんど密着状態と言っていい距離感と、レベル2とは思えない握力の強さによって一時的にナベルは身動きが取れなくなる。


(こいつ、上手い。力が入れづらい。解くのに時間がかかる)


 今度こそ固有技能を発動させ、力づくでネビの拘束から抜けようとする。

 だが今度は視界の隅から銀髪の少女が飛び出してくるのが見え、そこで意識が逸れる。


「よそ見をすれば、掠りとる」


 意識がアスタの方に向かったその瞬間、ナベルの腕にのしかかっていた力が消える。

 拳を振りかぶるネビ。

 まずは、距離をとる。

 ナベルはアスタにも注意を向けつつ、身体を捩り、大きく飛び退く。

 

「……ぐっ!」


 しかし、完全に避け切ることはできず、ネビの拳が顎を軽く打つ。

 グラリ、と脳が揺れた。

 そこまで大きな衝撃ではなかったが、当たりどころが悪かったのか、痛みは強くないが目眩が襲いかかってくる。


(クソが。堕ちても剣聖か。戦い方が上手い)


 集中がかき乱されたのを自覚したナベルはさらにもう一度大きく距離をとる。

 明滅する視界。

 数秒の間をおいて、やっと彼女は集中を取り戻す。



「……あのクソ犬」



 だが、その数秒の間を見逃すような相手ではない。

 畳み掛けられることを反射的に恐れて距離を取ったことも、向こうは織り込み済み。

 正常に戻った視界のどこにも、もうあの二人の姿はない。

 自らは敗北していないが、堕剣は目的を果たし、勝利を収めた。

 黄金姫のプライドに、これほどの傷跡が残されたのは、始めてだった。



「あー、完全にキレた。くせぇ顔近づけられたのも屈辱的すぎるし、神下六剣とか関係なく、あのは絶対に殺そ」

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


 

 

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