宣戦布告



 そこには、雪が降っていなかった。

 どこか懐かしい感慨を抱きながら、アスタは砂礫の地面を進む。

 相変わらず空気は零度を下回るほどの寒さで、頭上には分厚い雲が渦巻いている。

 全ての始まりの場所。

 彼女の孤独は、ここから始まった。


「ここが、女神の丘じゃ」


 丘というには、あまりに緑が少ない。

 草花の一切の生えない土は鼠色で、生き物の気配はどこにもなかった。

 ただ、あるのは、二つ。

 一つは、人が一人くぐるのがやっとの程度の、小さな門。

 その門は漆色の細い枝が絡み合うように形どられていて、一見すると通り抜けた先に何かがあるわけではなく、何もない丘が続いているように思えた。


「なるほどな。お前がここを出れない理由がわかった」


 アスタの隣にそっと立つネビは、静かに言葉を呟く。

 もう一つは、この世界で最も普遍的な偶像。

 腰の近くまで伸びる長髪。

 切長で二重の瞳。

 筋よく伸びた鼻梁に、薄い唇。

 誰もが見惚れる、絶世の美女。

 第一柱、始まりの女神ルーシー。

 門の横に建てられている、青銅製の神を模した像は、穏やかに笑ってた。


「“七十二の誓約サンクチュアリティ”、か。七十三柱のお前にも適用されるんだな」


「ふんっ。元々は、私が最初じゃ。私が一番最初に、あいつと誓約を結んだ」


 七十二の誓約サンクチュアリティ

 それはこの世界では有名な神々同士で行われた契約のことだ。

 神々の力は、大きい。

 あまりに強大すぎる力ゆえに、もし神同士が争えば、世界の均衡が崩れてしまう。

 故に、始まりの女神ルーシーは自らを含めた七十二の神に、契約による縛りを設けた。

 互いに対する絶対的な不干渉。

 神の力は、神には適用できない。

 世界に調和をもたらすために、神々は互いの繋がりを放棄したのだった。


「こいつに、第一柱の力が及んでいるということか」


「及んでいるというよりは、あやつの分身のようなものじゃな」


 アスタは不機嫌そうに舌打ちをすると、門の方にゆっくりと近づいていく。

 一歩、二歩、三歩。

 銀の艶髪を靡かせ、世界に忘れられた腐れ神は門のまであともう少しというとこまで歩み寄る。

 その時、ゴトッ、という重々しい音を立てて、銅像が動く。

 穏やかな微笑を貼り付けたまま、門の前に立ちはだかる美しい女性の像。

 見えない壁がそこで張られたかのように、アスタの足が止まる。

 そこから先は、不干渉。

 均衡を守るための誓約が、働いていた。


「これ以上、私は近づくことすらできない。力も使えない。何もできない。私は一人では、ここから先に、行けないのじゃ」


 世界とアスタを切り離すように遮る、女神の銅像。

 見下したようにも見える笑顔に、アスタは冷めた視線を注ぐことしかできない。

 たった一つの誓約、たった一柱の神。

 それが、全てを分断した。

 アスタと世界を、アスタという神そのものを喪失させたのだ。


「だが、今は俺がいる。そうだろう?」


 しかし、これ以上一歩も先に進めないアスタの隣から、一歩踏み出すものがいる。

 黒い髪に、赤い瞳。

 錆びついた剣を片手に、何にも縛られない自由な瞳を前にだけ向けている。


「……さっきも言ったように、こいつはあいつの分身のようなものじゃ。もし、こいつを斬れば、もう後戻りはできぬぞ。お主は正真正銘、女神の、世界の敵となる。それにお主が私の味方についたことも知られる。ここから先には、死よりも苦しい未来が待っているやもしれん」

 

「構わない。俺の世界に、後戻りは存在しない。お前が望むなら、斬ろう。始まりの女神を。俺はお前の剣だ。お前が望むもの、全てを斬り払う。そう、誓った」


 アスタの忠告を、ネビは迷わず切り捨てる。

 彼女は、笑う。

 それは呆れも含んでいたが、もっとも大きいのは嬉しさ。

 ずっと、待っていた。

 この先に行ける日を。

 ここより先へ、自らを連れて行ってくれる誰かが、現れるのを。



「はっ! 愚問じゃったな! 我が剣、ネビ・セルべロス! なら行こう! まずは宣戦布告じゃ! 私とお主! 二人で世界に切っ先を向けるぞっ!」


「ああ、待ち遠しいな。早く。早く。ああ、行こう。戦いだ。レベリングが俺たちを待っている」



 アスタの言葉に合わせて、ネビが強く足を踏み込む。

 深く、深く、深く。

 獰猛な牙をちらつかせ、爛々と真っ赤な瞳を輝かせ、堕ちた剣聖は刃を振り抜いた。










 彼女は、身を引き裂かれるのを、感じた。

 閉じていた瞳を開く。

 そこには、普段と変わらない、閉じた退屈な世界が広がっていた。


「お目覚めですか」


 眠れない彼女に、皮肉な言葉がかけられる。

 目が覚めるような蒼い部屋に、山羊髭の男が一人立っている。

 男はハンドジェスチャーで飲み物を薦めるが、彼女はそれを首を横に振って断る。


「アスタが、戻って来るわ」


「……ほお。あの方が、ですか」


 感情のない、声だった。

 高位の魔物である龍種の鱗で造られた椅子から腰をあげ、彼女はガラス張りの壁まで近づく。

 雲より僅かに低い程度の位置から見下ろす街並み。

 そこから見える景色は、全てが彼女のものだ。

 彼女が作った、世界だった。


「あの方が戻られるということは、協力者がいるということですか?」


「贈り物をしたから、それを正しく受け取ったみたい」


「贈り物、ですか」


「ええ、中古だけれどね」


 ふふっ、と小さく微笑し、官能的な指遣いで自らの唇を触る。

 彼女もまた、ずっと待っていた。

 この時が来るのを、一人、孤独に待ち望んでいた。



「行くわよ、ハーゲンティ。愚かな人の街に降りるわ。準備をしなさい」


「承知いたしました、我が女神」



 彼女––––第一柱“始まりの女神ルーシー”は薄絹のネグリジェを脱ぎ捨て、豊かな曲線美を露わにしながら奥の部屋へ消えていく。

 男––––第五柱“忠神ちゅうしんハーゲンティ”は、それに鷹揚に頷き、床に放り出された寝具を拾い上げると、丁寧に畳んだ。

 

 蒼い部屋には、甘い香りだけが漂っている。


 もう女神は、ここにはいない。


 


 

 

 


  

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