悪寒
凄まじいプレッシャーを放つ規格外の魔物と相対してなお、今だにレベル1にしか過ぎないはずのネビの様子が変わることはない。
赤く錆びた剣を真っ直ぐと持ち、冷や汗一つかかずに冷静な瞳でゆらゆらと長髪を揺らす怪物を見つめている。
(度胸だけは認めよう。じゃが、力の差は明らか。まともに戦う術はないと思うが、どうする?)
強者としての余裕か、
アスタは念の為に全身に気を張らせ、いつでも動けるよう準備する。
ネビにいったいどんな企みがあるのかは不明だが、どれも無傷に済むものではないだろう。
もっとも、擦り傷一つすら致命傷になり得る実力差なのは明らかだったが。
「……素晴らしいな。この緊張感。ただ、ここに生きて立っているだけで、俺の
次に、ネビはうっとりとした目で笑い出す。
愛おしそうに自らの
(……人間、きも)
横目でそんなネビを眺めていたアスタは、強力な魔物の前ということを一瞬忘れて、本気で気味悪がってしまった。
【Si】
そして、先に動いたのは怪物の方だった。
真っ白な細い指の先に、真っ赤に咲く炎の大輪。
雪の中で燃え盛る火球は、どこか美しく、凄まじい熱量を感じさせた。
「来るぞアスタ!」
「そのようじゃな。さて、ネビよ、どうする……っては?」
だが、その火焔が自分達に向けられた瞬間、アスタは信じられないものを見る。
それは迷わず自らの背後に隠れたネビの姿だった。
いつもと変わらない真剣な表情でアスタの小さな背中に隠れるように身を屈め、驚愕の表情で振り返った彼女に向かって親指を立てた。
「大丈夫だ。お前は強い。あれを真正面から受けても、死にはしない」
「な、ななななななぜお主が私の後ろに隠れているのじゃ!? お主が戦いたいと言ってここに来たのじゃろぉっ!?」
「よそ見をするな。焦げるぞ」
「ぎゃああああああ!?!?」
刹那、火焔が疾る。
アスタの身体より遥かに大きい火の弾が、凄まじい速度で打ち出された。
反射的に避けようとするが、そうすれば背後にいるネビに直撃し、ほぼ確実に即死してしまう。
(なにを考えているのじゃこいつは? 馬鹿か? 馬鹿なのか? わざわざ遥か格上の魔物の前にノコノコと現れて、やることが私の後ろに隠れること!? 意味がわからん!)
混乱に狼狽えるアスタだが、
一度思考を切り替え、アスタは神の力の一端を解放することにする。
「ちっ! とんだ駄犬を拾ってしまったようじゃのぉ!」
右腕に気を集中させ、フッと息を吐くの同時に深い雪に覆われた地面に思い切り掌底を叩き込む。
暴風を生み出しながら、一気に舞い上がる白雪。
地鳴りのように山が揺れ、強烈な衝撃波が駆ける火球に衝突する。
力と力はせめぎ合い、爆風と共に相殺される。
鼓膜を突き破るような高音が鳴り響き、余韻だけが残る。
【whoon?】
火の粉と雪が混じり合い、幻想的にも見える淡い光を放ちながら明滅していた。
アスタとネビの姿は爆音の背後にはもう見えず、燃える瞳で怪物はその姿を探す。
数秒の静寂。
破るのは奇妙な形で絡み合いながら、叫び声を上げる先ほどの雌雄だった。
「おいお主っ!? なぜ私に抱きついているっ!? 離れんか! この! おい! やめろ!? 剣士としての誇りはないのか!?」
「今、お前から離れたら、その瞬間、俺は死ぬ。当然だ。レベリングにリスクは付き物だからな」
「リスクを背負ってるのはさっきから私だけじゃろうが!」
大きな男が、小さな少女の背面にへばりつき、抱きつかれた少女は顔を真っ赤に染めて奇声をあげていた。
あまりにも、足りない。
死と隣り合わせだという自覚が、覚悟が、そして何より、自らに対する敬意が足りていない。
【liiik】
焚べよう。
魔物は、目の前の愚か者たちを、燃やすことにする。
火は敬われるべきものだ。
この凍える大地において、この緋色の光を尊ばない者に、未来はない。
「……ちぃっ! お主がふざけているせいで、面倒なことになっておるぞ!」
「べつにふざけているつもりはないんだがな」
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、その先はもう数え切れない。
アスタとネビを囲むように、数多の火球が荒々しい光を放ちながら宙に唐突に現れる。
先ほどより大きく、数は多く、退路はない。
それは死の抱擁に似ていて、深紅の髪を揺らす魔物は迷わず広げた腕を閉じた。
「これは防ぎ切れん! ネビ! お主は伏せていろ! 一度は拾ったその命、そう簡単に捨てるわけにはいかないのじゃっ! 私には、どうしてもやらねばならぬことがある! そのためにも、お主だけは失うわけにはいかんっ!」
「なるほどな。やっとわかった。掴んだぞ、お前のその
「ってな!? お主、私の話を聞いておるのかっ!?」
絶死の炎が揺らぎ、今まさに襲い掛かろうとするその瞬間、アスタの絶叫を遮るように、ネビが一歩前に踏み出す。
これまでのように隠れることなく、顔をあげ、微塵の怯懦もなく、剣を掲げる。
怪物は不思議だった。
どうして、この男は、畏れないのか。
すぐ目の前に、
「もう、十分だ。欲しいものは、知りたかったものは、すでに俺のものになった」
「おいネビっ! 来るぞっ! 早く伏せろ! 今度は本気で死––––」
縦横無尽。
上下左右に浮遊していた火球が、一斉にネビの下に殺到する。
怪物は聡明だ。
その人間と自らの力の差が決して策や知恵では埋められないほど開いていることは理解できている。
ゆえに、何も迷う必要はない。
弱く、愚かで、価値のない存在が、無礼にも自らの領域に入り込んだ。
灰となって雪に混じり消える運命は、避けられない。
俊然と襲い掛かる火焔の雨に、男は反応ひとつ叶わない。
「こんな、感じか? ……《
瞬間、何かが歪んだ。
これまで、感じたことのない感覚を、
氷の冷たさにも、豪雪の凍えにも、大いなる火を持って寒さを感じることのなかった怪物が、初めて覚える寒さ。
––––悪寒。
気づけば、星屑のように世界を埋め尽くしていた炎の光は、一つ残らず消えている。
無謀にも立ち尽くしていたはずのネビは、なぜかまたアスタの背中に抱きついた体勢に戻っている。
見覚えのある光景。
強烈な既視感。
理解が、及ばない。
どうして、自らが灯した火が消えているのか。
「……なっ、なぜ、お主がその
「お前がくれたんだろう。俺に加護を」
唯一動揺なく、この地にたどり着いた時と一切変わらない表情を保つ、赤く錆びた剣を持つ男は、再び一人で前に立つ。
剣を掲げ、燃えるような紅い瞳で、暴炎の魔物を正面から見つめる。
「さあ、濡れろ、赤錆。
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