歓迎



 凍えるような寒さの中、急峻な岩崖を登りながら、初めてこの地に訪れた時のことをアスタは思い返していた。

 先頭を歩くネビの背中に隠れるような形になっているため、頂上に近づけば近づくほど勢いを増す吹雪で息が詰まることはない。

 初めは、絶望しかなかった。

 勝手もわからない、根本的には敵である魔物しか住まない未踏の地。

 仲間はおらず、力は制限され、唯一外の世界と繋がる通路は彼女にとって不干渉の門番によって塞がれている。

 

 絶望の次に、彼女は探した。


 何か、自らの武器になり得るものを。

 どこかに、自らの味方になる可能性のある相手を。

 まず、武器は見つからなかった。

 そして、味方もどこにもいなかった。

 彼女の目算とは異なり、この地では自らの力が及ばぬ相手さえ存在した。

 ここにあるのは、彼女を待つのは、死だけだった。

 何事にも果てはある。

 ただ静かに、座して朽ちるのを待つだけだった彼女に、しかし今は数少ない希望がある。

 もっとも、その希望はどうやら、彼女の想像以上に脆く、危うく、制御の効かないものだったのだが。


「のお、ネビよ。考え直さぬか?」


「なにをだ?」


 間髪入れずに返事をするネビの声には、これまでもずっとそうだったように、迷いや怯懦の震えは含まれない。

 これから向かおうとしているのは、アスタをしても確実に勝てないと判断した、屈強な魔物が住むやしろだ。

 はっきりて言って、アスタからの加護を含めてもレベル1しかないネビでは手に余るとしか思えない。

 どうして、自ら死地へ向かおうとしているのか、アスタには全く理解できない。


「何度も言っておるが、これからお主が顔を合わせようとしているのは、私が知る限りこの地で最も隔絶した強さを持つ魔物じゃ。決してお主を侮っているわけでわないが、勝てる可能性はゼロじゃ。死ぬぞ?」


「成長は常にリスクと共にある。正しい成長の仕方をしなければ、正しく強くはなれない。“感覚センス”は特に上げにくい値の一つだからな。レベルの低い今のうちに上げれるだけ上げるのが鍵になる。それにこれはそこまで分の悪い賭けじゃない」


 言っている意味は全くわからなかったが、それはどこまでも自信に満ち溢れた言葉だった。

 まだネビと共に過ごすようになってから時間は浅いが、アスタから見た彼は決して愚か者ではなかった。

 むしろ、確固たる理念と理論に基づいて行動する、知恵者に属するように思える。

 それゆえに、アスタは不思議だったのだ。

 どうして賢いネビが迷わず敗北の道を真っ先に選ぶのか。


「常識的に考えて相性の良い、弱い魔物から倒して、実力を深めてから、段々と強い相手と戦っていくべきではないのか?」


「……そうだな。俺も最初はそう考えていた。だが、実際は違う。それでは正しく強くはなれない」


「どう違う? 私は奉仕精神でお主を助けたわけじゃない。無駄死にされては困るのじゃ。説明が欲しい」


「……そうだな。まず、前提として魔物を倒した時に吸収できる魔素は、常に一定ではない。それは理解しているか?」


「なに? そうなのか? 知識としてお主らの剣想イデアが魔素を吸収できることは知っていたが、その吸収率に差があることは知らぬぞ」


「そうだろうな。俺の友人ですら知らなかったからな。ほとんどの者は知らない、或いは気にしたことすらないのかもしれない」


「お主、友とかいたのじゃな」


「……」


 謎の沈黙。

 アスタはあえて深く追求しない。


「……たとえば、魔素の吸収率を10%としよう。今の俺はすでに10%の魔素を吸収しているという意味だ」


「吸収率か。面白い概念じゃな」


「あくまで例えだ。そして、この吸収率が100%になった時に、見えないレベルが一つ上がると考える」


 積もった雪に足をくるぶしまで埋めながらも、ネビは足を止めずに話し続ける。

 その手には今だに赤錆が握られていて、アスタが記憶する限り目を覚ましている間はほぼずっと、時には眠っている最中でさえ彼は剣想の発現を止めない癖があるらしい。


「その状態で50の魔素を手に入れられる魔物に会ったとしよう。俺が吸収率10%の状態でならば、素直にその50の魔素が手に入る。しかし、これがもし、俺の吸収率が90の状態でその魔物に会ったとしたらどうだ?」


「ふむ。そうじゃな。一度見えないレベルが一つ上がった後に、残りの40の魔素が次の吸収率に入るのではないのか?」


「俺も昔はそう思っていた。だが、違う。すでに試した。そうはならない。残りの40は吸収されず、無に帰すだけだ」


「なるほどな。そういうことか。しかし、それでは、弱い魔物を沢山倒す方が無駄なく見えないレベルを上げれるということか?」


「いや、それもまた違う。実際には見えないレベルは上がれば上がるほど、要求される魔素の量が変わってくる。途中からは弱い魔物からはほとんど魔素が得られない状態になるだろう」


「うむ? 難しいな。その理論で行けば、やはり強すぎる魔物と戦うのは下策になるではないか? 吸収率の良い低いレベルの状態で立ち向かえば、たしかに簡単にレベルは上げられるかもしれぬが、その分無駄にしてしまう魔素も多いじゃろう? 必要なのは実力が近い相手と、適切に戦うことではないのか?」


「ああ、それは前提を一つ大きく誤解している。それは得られる魔素が有限なものしかないと仮定していて、さらに吸収の秤が一種類だった場合だけだ」


 ふいに、ネビの足が止まる。

 気づけば、不自然に先ほどまであれほど荒れ狂っていた吹雪がぴたりと止んでいた。

 辺り一面が薄白い雲霧で覆われ、見通しの悪いひらけた空間に佇む、小さな祭壇。

 何十何百と重ねた年季が伺え、今にも崩れ落ちてしまいそうな灰色の石礫で築かれた社には、火の灯っていない暗い燈篭が立ち、強い存在感を放っている。


「魔素を吸収するのは、何も魔物を屠った時だけではない。たしかに、その心の臓を貫いた時が最も魔素を吸収するが、本来はもっと多種多様な形で魔素を俺たちは吸収している」


「な!? いや、待て、どうしてもう、ここに……?」


 ボォ、と小さな音を立てて、忽然と燈篭の火が灯る。

 幽玄な気配漂わす、青白い炎。

 ネビは今だに説明を続けるが、そんなことは最早どうでもいい。

 その火を見るのは、アスタにとっては二度目。

 一度目は、この地に彼女が来て、唯一死期を感じ取った時だった。



【Siii……】



 空気が、震えた音が聴こえた。

 記憶より、早い。

 アスタの目算では、もう少し先に、この場所があったはずだった。

 いつから、足を踏み入れてしまっていたのか。

 すでに、迷い込んでいたのだ。

 の領域に。


「……先に謝ろう、ネビよ。私が測り損ねた。お主を止める間も無く、踏み込んでしまったようじゃ」


「ん? ああ、いや、謝る必要はない。俺が望んだ。この地は空気にすら魔素が滲んでいる。これだけ魔素の濃い地域なら、こういったがいると思っていた。期待通りだ」


 風はないのに、雪屑が宙に舞っていた。

 数刻前まであれほど濃かった霧が晴れていき、社の前に一人の女が立っているのがわかる。

 前見た時は、人の女の姿ではなかった。

 だが一目で、その女が、アスタの知るソレであると分かる。


【ixixixixix……】


 それはどこか笑い声に似ていた。

 女の瞳の中に目はなく、代わりに緋色の炎が燃え盛っている。

 背中が剥き出しになったタイトなドレスを纏う女は、一見穏やかに微笑みながら、を広げる。

 


「講義の途中で悪いのじゃが、来るぞ、我が剣よ」


「構わない。ここから先は実践形式で、ここに俺が来た理由を説こう」



 魔物ダークには、人の国のように格式が存在する。

 

 家畜と平民がいれば、兵士がいて、将官が率い、王が統べる。

 

 そしてそこに立つ燃える瞳の女は、王が信仰する対象。



 “峻厳の不死鳥フェネクス”。


 

 欄外の最奥で、神すら干渉できない孤高の魔の頂点の一角は、初めての客に歓迎の手を広げた。 


 

 

 

 

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