妖刀



 それは異様な光景だった。

 腐神アスタは剣に飢えていた。

 ゆえに、自らの剣になり得るものであれば、それが傑出した業物ではなくとも、刃としての役目を果たせる程度のなまくらであれば許容できるつもりでいた。

 しかし、彼女が孤独な浜辺で拾った剣は、業物とも鈍ともまた異なった、一種のに近いものに思えた。


「なにをしているのじゃ、こやつは……」


 欄外の彼岸ロストビーチの海辺から少し離れ、森林部に移動してから、もう七度は日の光が落ちた。

 鬱蒼と茂る木々の奥には、時々、広々とした沼地が現れる。

 その湿地帯の中で、腰まで浸るほどの深さの沼を見つけた瞬間、彼女の剣––––堕ちた剣聖ネビ・セルべロスは、迷わずその沼に身体を浸らせたのだった。

 そして常に加護を剣の形に具現化した状態で、その沼地の中をぐるぐると歩き回る。


「なにをしているのじゃ?」


「レベリングだ」


 最初、アスタはネビに奇行の理由を尋ねた。

 返ってきた言葉は間違っていないが、それが行動に反映されていない。

 彼女の記憶では、まず最初にネビは魔物ダークを狩ると言った。

 その発想は、正しい。

 柱の加護をかけた試練を受ける条件として、魔物の討伐を掲げる神が多い。

 より序列が高い神ほど、多くの魔物、或いは強大な力を持つ魔物を討った証を要求する傾向がある。

 なぜなら、魔物を狩った量と質が、そのまま剣士としての力量に反映されるからだ。

 

「お主は気づいているのじゃろう? レベリングには、二種類あるということを」


「ああ、そうだ。だからまずは方の加護数レベルをあげる」


 レベリング。

 その言葉が指すのは、一般的に七十二柱の神々との試練に打ち勝ち、柱の加護を手に入れる作業のことだ。

 柱の加護はその一つ一つが、莫大な生命エネルギーを持ち、剣士の能力を飛躍的に上昇させる。

 柱の加護の数はそのまま剣士としての格式を表すだけでなく、単純に基礎的な能力の差を示している。

 そして柱の加護数は必ず身体のどこかに刻印タトゥーとして記され、一種の勲章として常に剣士は誇示することが許される。


「見えない方のレベルを上げるのなら、魔物ダークを討つべきじゃろ?」


「もちろん魔物は討つ。だがその前に最低限のレベルをあげる。最初に必要なのは“敏捷”と“耐久”だ。強くなるには全ての要素が必要だが、それでも順番はある」


 敏捷と耐久。

 アスタにはネビが口にした言葉の意図が掴めない。

 もう一つのレベリング。

 それは魔物狩りレベリングのことだ。

 剣の形をした加護、多くの場合“剣想イデア”と呼ばれるものが、魔素を吸収することは加護持ちギフテッドの中では常識となっている。

 魔素は魔物ダークの体内に濃集する特別な活力エネルギーのことであり、より強大な個体ほど大きな魔素を身に宿しているとされる。

 そして剣想は魔素を吸収するという特性を持ち、つまりは魔物を狩れば狩るほど剣想の刃は研ぎ澄まされ、刀身は強固に、剣速は早くなる。

 だがこの剣想の成長は目には見えず、また柱の加護ほど劇的な効果はないため、見えないレベルと呼ばれていたのだった。


「……さすがにそれを、魔物としてカウントしているわけではなかろう?」


「ああ、これはただの食材だ。だが、これもまたレベリングの一環ともいえる」


 時々、ネビは唐突に沼の底に手を突っ込むと、指ほどの大きさで泥まみれの甲殻類らしき生き物を取り出し、水洗い等をすることもなくそのまま齧り付く。

 ボリ、ボリ、と何度か咀嚼すると、味の感想もなく飲み込み、再び沼地を歩き回り出すのだ。

 一周、二周、三周、四周。

 十周、二十周、三十周、四十周。五十周。

 百周、二百周、三百周。

 もはや何周したのか、数え切れない。

 何度も、何度も、何度も、偶に歩きながら眠ってしまったのか、沼の中に頭から倒れ込んでも、また数十秒後には息と目を吹き返し、口の中に入ったのであろう泥土を咳き込みながら吐き出し、そしてまた歩き回り出す。


 それは、異様な光景だった。


 時間はある。

 特に誰の干渉もないこの地にいる限り、急ぐ旅ではない。

 ネビが赤錆と呼ぶ剣想は常に発現されたまま、彼は狂ったようにその作業を続ける。


(そりゃ剣想も錆びるわけじゃ)


 剣想の姿形が一体何に影響されるかは諸説あり、はっきりとした定説はないが、その剣士の考え方や哲学が映し出されるとよく言われていた。

 そういった点でも、ネビの剣想は非常に珍しい。

 赤く錆びた思想。

 いったいその中身がどんなものなのか、アスタにはまるで想像がつかない。


「……さすがに上がりが悪くなってきた。そろそろ、狩りにいく」


 雪降り積もる早朝。

 あまりの退屈さに眠りについていたアスタが目を覚ますと、目の前では赤い瞳を爛々と輝かせる痩せこけた男がいた。

 ネビ・セルべロス。

 この七日間、沼から一歩も足を出さなかった男が、何がそんなに楽しいのか、泥まみれの口角を上げていた。


「……なんじゃ? 狩り? また別の沼で泥蟹でも漁るのか?」


「いや、今度は魔物ダークを狩る。お前はこの地に詳しいだろう? 教えてほしい。魔物はどこだ?」


「魔物か。どんな魔物がいい? お主はまだレベルが低い。相性がいいやつを私が適当に見繕ってやる」


 果たしてこの奇行にどんな意味があったのか、結局わからずじまいだったが、ネビがいまだに戦うことに対する意欲を失っていないことにアスタは安堵する。

 アスタはこの欄外の彼岸ロストビーチ以外の地をほとんど知らず、また平均的な人の強さも知らないため、とりあえず一旦自らを基準にして、ネビにあてがう魔物を考え始める。

 とある制限によって、本来の力を発揮できないということを念頭におくと、アスタの見立てでは四種類の魔物に分類できる。

 今の自分で勝てない魔物、面倒だが辛うじて勝てる魔物、疲れるが余裕を持って勝てる魔物、鼻歌交じりで余裕で勝てる魔物。

 

(こやつの力量や強敵に対する精神面の強さも最初に知っておきたいところじゃ。面倒だがあえてメデューサあたりとやらせてみるか? それとも疲れるくらいにしてキマイラぐらいで様子見にするか。迷いどころじゃの)


 アスタは頭を悩ませる。

 レベルという概念はあくまで人にしか存在しないもののため、どれほどの基礎能力と成長曲線があるのか、いまいち彼女には実感できなかったからだ。

 せっかく手に入れた彼女にとっての希望ギフト

 そう簡単に失うわけにはいかない。

 ここで失えば、またどれほどの長い時間を待たなくてはいけないのかわからない。


「“敏捷”と“耐久”を最低限上げたら、次は“感覚”にいく。だから最初は飛び抜けた奴がいい」


「ん? どういう意味じゃ?」


 そんな悩めるアスタに、ネビはまた不可解な言葉をかける。

 ほとんど碌に寝ていないにも関わらず、瞳孔は開き続け、何に対する飢えなのか舌なめずりをして彼は涎を垂らす。


(人という生き物はなんとも、気味の悪い存在じゃの。あの女が気に入るのもよくわかる)


 理解のできない行動に、意味のわからない言葉。

 人を理解することは難しそうだと、第七十三柱の神は辟易した。



「感覚だけは最初に派手にレベルを上げる。一番強い奴だ。俺の存在など霞むほどの、圧倒的で、類のない、突出した強さの魔物に会わせてくれ」

 

 

 

 

 

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