赤錆
生まれた時から、その手には剣が握られていた。
それを振るうことに、躊躇いはなかった。
両足が地面に垂直に立つその前に、彼は剣を振るうことを覚えた。
その剣を、人は、世界は、“
しかし、彼はそれを失った。
奪われたのだ。
加護はもう、ない。
言い表せないような、喪失感。
光を失う前に最後に覚えた感覚は、今もその手に残っている。
「……ほお。疑問よりも先に、立ち上がるより前に、剣を持つとは。生粋じゃの。それがお主の
しかし、再び光が戻り、手に感覚が戻ったその時、彼は確かに感じ取った。
剣の、熱を、感触を。
失ったはずの、奪われたはずの、彼の存在理由とでもいえる剣が、まだその手には握られていたのだ。
「……“
「“赤錆”。それがお主の
片刃の細身の刀身に、薄らと滲む赤い汚れ。
それは確かに彼がこれまで何千何億と奮い続けてきた魂の結晶だった。
世界には、加護を剣の形にできる者がいる。
それは、最低限の資質だった。
神に選ばれるための、必要不可欠な才能。
形は人によって様々で、途中でその形が変わることは、あまり多くない。
彼はそんな剣の形をした自らの加護を、赤錆と呼んでいた。
「それで、私の頼みは聞いてくれるのか? 世界に見放された剣士よ」
再び手に収まった赤錆をゆっくりと握りしめた後、彼は鈍痛が続く下腹部を押さえながら立ち上がる。
そこは、白い世界だった。
雪が降り積もった地面は海に面しているようで、びゅうびゅうと吹き抜ける風には潮の香りが乗っている。
「……お前は?」
「それはこっちの台詞じゃ。私の方はもう名乗ったじゃろう?」
穏やかに波が打ち付ける浜辺で、自分の目の前には何やら楽しげに微笑を浮かべる銀髪の少女がいる。
段々とぼやけていた記憶が戻ってくる。
始まりの女神。
加護の喪失。
第七十三の神。
腐神アスタ。
終わりの加護。
頼み。
名前も、どうして自らの手に剣が戻ったのか。
理由はわからないが、答えはすでに手にしていた。
「……俺の名はネビ。ネビ・セルべロス。お前が、俺の命を救ったのか?」
「そうじゃ、ネビ、私がお主に加護を与えた。経緯は知らぬが、どうやらお主も始まりの女神に嫌われているらしい。あやつの下で生きてきたわけじゃ。きっとこれまで多くの苦難を超えてきただろうに。それにも関わらず、お主は用済みになればゴミ切れように捨てられた。どうじゃ? 私と組んで、共に世界を見返そうではないか」
それは甘い誘惑に思えた。
始まりの加護を奪われるというのは、もはや世界から見放されるのと同義だ。
見方によっては全人類の敵である
そんな彼を迷わず救ってみせた、謎の少女。
しかもその少女は、自らのことを第七十三の神と名乗った。
神は、七十二柱しか存在しない。
それは童子でも知っているような世界共通の常識だ。
第七十三柱、腐神アスタ。
聞いたことのない、存在しないはずの番外の神。
彼は暫し、逡巡する。
この契約の先に、彼の望むものがあるのかどうか、それだけが大切だった。
「……今の俺には柱の加護がない。あるのはお前の終わりの加護とやらだけ。それでも俺は、他の神々と戦い、再び
「もちろん。むしろ必須じゃろう。今のお主では到底始まりの女神には届かない。柱の加護を集める、というよりは狩ってもらう必要がある」
「なるほどな。俺はまた、強くなる必要があるわけだ」
「そうじゃ。私のために、第一柱を殺せるくらいには死んでもなってもらう。文字通り、死んでも、じゃ」
並びの良い白い歯を覗かせ、銀髪の少女––––アスタは笑う。
腐神の言葉を受け止め、彼––––ネビはその真っ赤な瞳の輝きを強くさせる。
「いいだろう。腐神アスタ。始まりの女神を、殺そう。俺にまた剣を振るう機会を与えてくれた、その恩は返す」
「フハハッ! それを言葉にできる者に出会えるこの日を、ずっと待っていたぞ。ネビ・セルべロス。さあ、私と一緒に、世界に復讐を––––」
「いや、そんなことより、レベリングをさせろ」
「––––え?」
「強くなる必要があるんだ。まずは手頃な
爛々と紅く血走った瞳を輝かせ、彼は舌なめずりをする。
それは、嬉々。
下腹部の鈍痛はすでにどこかに消え去った。
赤錆が呼んでいた。
血を、決闘を、成長を、彼に乞う。
「早く、早く、行こう。戦うぞ。レベリングが俺たちを待ってる」
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