最悪の結実

 この日は解散になった。帳場が立っても大丈夫なように服をたたんで紙袋へ入れる。妻が居たときには、ついぞ彼女の苦労を気にかけてやらなかったと後悔した。まして自分は仕事熱心が災いしたような、古いタイプの刑事でもなんでもない。警察官を隠れ蓑に、深く考えず気の向くことをしていた。そんな勤務態度では優秀になんてなる筈もなく。結局自分はヒーローにでもなった気にさせてもらっていただけだった。最近は特に有能な能勢を見ていると自分の無力を痛感して頭を掻きむしりたくなる。




 ……能勢。


 手が止まった。近藤は昼間のことが妙に気にかかった。現場の屋上を眺める能勢の一種恍惚に似た歪みが鮮明によみがえった。たまらず暗い街へ飛び出す。年末の喧騒が不快だった。石倉に電話をかけ強引に彼の住所を聞き出すも、留守だった。




 頭の中に能勢の皮肉な笑みが浮かぶ。それから別れた妻、最後に誰より鮮やかに浮かんだのは馬場の顔だった。途端、近藤は思案する。能勢を気にかけていない訳ではない。彼は可愛い後輩だ。それでも。もし馬場を手に入れんとするならば最も邪魔な相手だ。男は顔じゃないと言っても、実際にそうだろうか。あの顔は反則だと思う。おまけに上背もある。収入についてはまだ自分が勝っているだろうが、職が同じである以上なんとも言いがたい。それに、なんと言っても能勢は若い。あれを相手に自分が勝てるとは思えなかった。もし能勢が自分から居なくなってくれるとしたら有難い話ではないのか。だが、あれだけ有能な能勢が一年で配転になるだろうか。と、すれば。


 能勢がいなくなるというのは、死んでくれと願うということなのか。




 自分でも否定できなかった。


 近藤は頭から黒い願望を追い払おうとした。しかし。能勢が休み時間、トイレで吐いていることは知っている。昼の車内を思い出した。あれは、病気だ。


 さらに、屋上での様子を思い出した。存外、能勢は死にたがっているのではないか。ならば近藤が止めても無駄だろう。そもそも止める資格なんてものがあるのだろうか。そのほうがこちらにとっても都合がいい。




 いや、違う。近藤は乱雑に髪を掻きあげた。自分は先輩で、能勢は後輩。死なせていいはずがない。確かに能勢は異常だ。なにか不味い状態にあるのは間違いない。先輩ならばはやくこれを捕まえ引きずってでも医者へ連れて行く義務がある。そうだろう。近藤は大きく頷いた。もしかしたら能勢は昼の廃ビルに向かったのかもしれない。近藤は人波に逆行し走った。




 大通りをはずれ、セブンの角を曲がったところで馬場に出会った。


 途端に先ほどまでの決意は吹き飛んだ。何も能勢が今から自殺をするなんて誰が決めただろう。そう思い込んでいること自体が失礼ではないか。




「こんなところで。奇遇ですね」


「あら、近藤さん。丁度良かったわ。ねえ、能勢さん見なかった。電話もつながらないの」




 近藤は曖昧な笑みを浮かべた。またあいつかと舌打ちしたくなった。ポケットに手を突っ込みしどろもどろになりかける自分が情けない。ポケットの中にスマホがあることに気付いたが、いくら馬場のためでも能勢なんかに電話しようとは思えなかった。能勢を探していることも黙っていよう。能勢を見てはいないのだから知らないと言ったところで何も疚しいことはないはずだ。




「さあ。今日は俺のほうが先にあがったからなあ。まだ署に居るんじゃないか。そうでもなければ買い物にでも行ってるのかもしらん。一人暮らしだからな」




 それから何故能勢が家にいない前提で喋っているのかと焦って付け加えた。




「もう家は見てきたか。一人暮らしだとすることもなくてテレビを見たりするからな」




 すると、今度は喋りすぎている気がして落ち着かない。馬場のほうを確認すると彼女はあごに手を当てて静かに聴いていた。それから近藤が完全に黙るのを待ったのか、間をおいて居なかったと答えた。胸の奥にくさくさと刺さるものがある。馬場は能勢の家を知っているが、近藤の家は知らない。さらに。馬場は今自分と喋っているのに、目の前にはいない能勢のことを気にしている。




「急いでいるの。ごめんなさいね」




 近藤は慌てて馬場の手を掴んだ。




「何をそんなに。あいつだって大人なんだ」


「彼、自分のことを大切にしないの。本当はちゃんと休ませたほうがいいんだわ。それなのに私ちゃんと彼が受診するのを見届けなかった。嫌われたくなかったのね」




 馬場が、泣いている。可哀想なくらいに取り乱している。彼女をこんなに苦しめているのは能勢だ。腹が立った。




「俺も探そう。心配になってきたからな」


「ありがとう」




 近藤はちゃっかり馬場を抱き寄せた。いいにおいがする。馬場はびくっと身を硬くした。戸惑った顔まで美しい。馬場はもぞもぞと身体をひねっているが近藤の鍛え上げた筋肉の前では意味を成さないようだ。


 その時。後ろのセブンから能勢が出てきた。能勢はこちらに気付いていた。近藤は自分の中に罪悪感と同時に勝ち誇ったような喜びがふつふつと湧き上がるのを実感した。




「能勢さん」




 馬場が大きな声を出した。能勢は僅かに目を見開いたようだった。何も言わず立ち止まると、一度ゆっくりと目を閉じた。近藤は、かける言葉を探した。しかしこういう場合、中途半端に何か言えば墓穴を掘ることにならないか。


 近藤は馬場を抱きかかえたまま能勢を凝視する。彼は大きく息を吐き出すとのそのそと立ち去ってしまった。




「私の思いすごしかしら」




 馬場が震えた声で言った。酷く早口だ。近藤がふと力を抜いた瞬間、さりげなく近藤の腕を払っていた。




「そうだろう」




 近藤はもう一度抱きつきたいのを堪える。このまま引き下がりたくない。能勢の去ったほうへ馬場が行かないように分厚い身体で行く手をふさいだ。




「それよりこの後は何か用事はありますか」


「いいえ。でも今日はもう遅いわ」


「でしたら送らせてください。こうも人が多いと色々危険だ」


「気にしないで」


「まあ、遠慮せずに」




 しばらくの間をおいて、馬場は何も言わず足早に歩き出した。近藤はそっと半歩前を行く馬場の手を捕まえる。気にかかっていた能勢の生存確認もできたことだし、もう良さそうだ。安心した。一方で、少し残念とも思った。近藤は慌てて考えを追い払った。


 そんなことより。馬場を送っていくということは彼女の住居付近、運がよければ住居の前まで行けるということにならないか。一線を越えてはいけないし、住居を知ったからといってすぐさま何かあるわけでもないのだが妙に高鳴るものがある。近藤はネクタイを正した。






 十分ほど歩いたときだったか。近藤はふと足を止めた。あたりが騒がしい。先刻までの喧騒ともまた違った様子だった。近藤と馬場は申し合わせたように騒がしいほうへ歩き始めた。額に汗が出る。早まった鼓動が不快だった。




 街中を行くうちに、誰かが飛び降りたのだという話が聞こえてきた。頭にがんとした衝撃が走った。能勢だと直感する。瞬間、体中から冷えた汗が噴出した。死体を確認したわけではないと言い訳するも叶わなかった。


 近藤は震えながらも昼のビルへ向かう足を呪った。


 人だかりのあるビルは、確かに昼の現場だった。




 近藤は馬場の手を掴んだまま人混みを押しのけて前へ出た。現場でなれた鉄くさいにおいがする。失策に気付いたときにはもう遅かった。馬場が短く悲鳴を上げた。


 血溜りで宙を仰いでいるのは、確かに能勢だった。隣で震える馬場はどうやら能勢を下の名で呼んだらしかった。馬場の声を聞いたからなのか、能勢の首がずるりとこちらを向く。口許にはぞっとしない笑みが張り付いていた。




 近藤は今にも崩れ落ちそうな馬場を抱きかかえた。目の前で能勢は幾度か身体をぴくつかせ、終には動かなくなった。


 あの昏い瞳が無感動に二人を見つめていた。

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