終章 隠伏
罪の刻印
『えー、先日からお伝えしている現職警察官の話題ですが』
『別にね、警察官だからとか言うわけじゃないんですよ。でもねえ、人が殺害された現場で自殺するっていうのは、ね、やっぱりね、これ、ちょっとだめでしょう』
『ですが、彼は幼少期に辛い経験をしていたということで』
『ちょっと有り得ないでしょう。だからって死ぬってのはね、うーん』
近藤はテレビを消して、頭をかきむしった。寝間着を上半身だけ脱ぎ、洗面所へと侵入する。鏡のやつれた男の黒瞳に戦慄した。
「違うんだ……許してくれ……」
能勢の昏い死に顔が頭から離れなかった。結局近藤はひげを剃れず、座り込んで身震いする。己の鍛えぬいた身体が、こんなにも情けないだなんて。
近藤は洗濯籠の中からもう一度寝間着を引きずり出し頭からかぶると、寝床に戻った。署に体調不良で休むと伝える。三日連続だったが、反応は優しかった。
周りの人間が、大事な後輩に自殺されてしまい心を痛めている「親切な人」を慰めようとする。能勢の世話係を押し付けたことへの侘びと礼を口にする。休めと言うくせに、戻ってくる日を心待ちにするとも言う。
近藤は布団を頭からかぶって震えた。閉じた口から、情けない呻き声が漏れた。なんでもないことさえ恐ろしくて仕方がなかった。もういっそ辞めてしまおうかと考えても職を失う不安で行動を起こせず、結局能勢が自殺しそうと気付いていながら止めることを迷った卑怯に悩むくらいなら、最初から気付けないほど鈍感だったらよかったと自分を責めた。
テレビの世界では、能勢は精神疾患の患者という扱いでしかない。署内での陰湿な噂話というのは一切扱われず、公式に誰も彼の鬱状態には気付いていなかったとされた。そのうち弟を名乗る人物の証言から母親が原因というのがほぼ結論となる。
毒親、虐待、学校でのいじめ、友人の自殺。情報がどこまで正しいかは不明としても恵まれた人生とは言い難かった。離婚問題も暴力を振るわれていたのは能勢のほうで、その一因に能勢の不能があると知って近藤は蒼ざめた。
自分はあんまりにも能勢を知らなかった。知ろうともしていなかった。
好きなだけ能勢の私生活を暴き立てる姿勢に腹を立ててはみるも、最早虚ろでしかない。取調べでの、怨念にも似た女性への態度にも納得がいった気がした。
新しい事実が見つかるたびに自分を責め、怯えた。
テレビで言うような暴走した精神障害者なんかではない。能勢は苦痛に耐えようとしていたし、純粋で優秀な警察官だった。そう擁護しようとするも、能勢を病人だとみなしていた疚しさからは逃げ切れなかった。これ以上、能勢の苦しみを知りたくないと思う一方でニュースやワイドショーを見ずにはいられない自分がわからなかった。頭の端では、自分の所業が世間様に露見してしまうのが怖いだけじゃないかと思いはするも、認めきれない自分がいる。
頬を涙が伝う。これは自分のための涙か、能勢のための涙かと苦しくなった。
横になってもいられず起き上がり、もう一度テレビをつけてしまう。ツイッターで寄せられた意見の紹介が始まった。
『虐待生存者の気持ちをわかっていない、というご意見ですが』
『ほら、あれだ。そういう、なんての、そういう人でもちゃんと自分らしく生きてる人っていると思うんですよね。人間、これぽっちのことでね』
アナウンサーが露骨に顔を顰め、コメンテーターはますます胸を張った。画面下部の視聴者によるコメント欄がとんでもない勢いで入れ替わっていった。批判に次ぐ、批判。目的はただの世間批判にすり替わる。結局、世間の人間には退屈を紛らわす餌でしかないのだろう。近藤が断言するまでもなく、人々は能勢のことを忘れる。その時、近藤はどうなっているのだろう。忘れてはいけない罪の十字架と言い聞かせるも、心の奥底から早く忘れてしまいたいという感情が湧き出し止らなかった。
近藤は立ち上がり、ふらふらと流し台に頭を突っ込んだ。おえ、おえ、とやってみるも唾液が数滴落ちただけに留まり、能勢のようには吐けなかった。
一週間が過ぎた頃、さすがに休むのも苦痛になって近藤は出勤した。買い物以外の理由で外へ出たのは、能勢の葬式以来だった。
署の仲間はにこやかに近藤を迎えたが、妙に気を遣われている雰囲気は濃厚だ。誰も能勢のことには触れない。が、これに関してはただの無関心だろう。
近藤は自分の席に座った。他の誰かが片付けてくれたのか放置していた書類がなくなっている。ふと、誰かに見られている気がして隣を向いた。ごちゃついていた能勢のデスクはすっかり片付けられ、弔いの花さえ置いていなかった。
たまらず席を立つ。廊下に出ると視界の端に自販機がある。近藤はがっくりと肩を落とした。一度、外の空気を吸ったほうがいいかもしれない。
エントランスに着くと、丁度紙束を抱えた馬場に出くわした。どちらからでもなく一礼する。少し痩せた印象だったが、馬場は以前よりも美しく見えた。
近藤は茫然として去ってゆく彼女を見送った。声をかけられないばかりか、追う気にさえなれなかった。恐ろしい考えが頭を占拠する。自分が欲しかったのは「馬場本人」というより「能勢が欲している馬場」だったのではないか。明確な否定文句が浮かばないことを責めてはみたが、もはや罪悪感を沸かすほどの気力もなかった。
目を閉じると、葬式の日が甦る。参列者は警察関係者と親族の他に誰もなく。母親と思われる人物は柩に取りすがり大声で泣いていた。今では鬼母と評されている人物とは到底思えなかった。後にテレビで存在を知った弟というものも見ていない。
署の者たちの顔に涙はなかった。所々に見えるスマホの光、場違いな雑談話。吐きそうな時間は延々と続くようにさえ思われ、逃れるように近藤は柩の隣で立ち尽くしていた。
あの時たしか、馬場はしゃがみこみ柩の中を覗いていた。頬にかかった黒髪、わずかに潤んでなお涙を落とすことはなかった瞳。彼女が柩に手を差し入れたとき、確かに濃い花のにおいを嗅いだ。
柩の能勢をはっきりと覚えている。死化粧が施され目を閉じた彼は、近藤の知る能勢と全くの別人だった。生前よりもむしろ顔色はよく、あのぞっとしない微笑は残滓さえなかった。苦痛や疲労の色もなく、だが決して穏やかではない。せめて心の中で謝ろうと思っていた近藤は言葉を失った。
あの時は漠然と、終わった気がしていた。
頬から顎に沿って冷たいものが伝う。
突如、近藤の肩を叩くものがある。石倉が「事件だ」と口早に告げ、パトカーに乗るよう促す。近藤は振り返り言った。
「行くぞ」
すぐにはっとして口を噤んだ。たまらず視線を落とす。つま先から伸びる自分の影が、酷く矮小に思えてならなかった。
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