残酷な現実
「近藤さん。彼、どうしたの」
「倒れた。熱があるようだがよくわからん。まあ、意識はあるし緊急という様相でもなさそうだから俺が医者へ連れて行くことになった」
馬場は罪悪感を自覚した。酒を飲ませれば正解だったとは思わないが、飲ませなかったから能勢は倒れたのだろうか。また、近藤が医者に連れて行って能勢になにかしらの診断名がついた場合。近藤はどう行動するだろう。
馬場は「親切」といわれる近藤が嫌いだった。時々ぞっとするほど冷ややかな目で能勢を見ているから。午前中にたまたま聞いてしまった近藤が馬場を好いているという話も、なんだか不自然だった。自意識過剰かとも考えたけれど、どうにも近藤は馬場がいることを知っていて聞こえるように喋っていたと思えてならない。確証こそないが、近藤を信用できなかった。
何かの拍子で能勢の職場での飲酒未遂が知れるようなことがあったら、近藤は上に報告するだろう。きっと一警察官としてではなく、冷ややかな内心で。
「私が連れて行くわ」
「しかし」
「もし事件が起こったら近藤さんは必要な人材よ。でも事務員なら他にもいるし、少なくともあなたほど急な仕事に見舞われることはないわ」
近藤は嫌々という様子だったが、丁度石倉が近藤を呼びに来ることで能勢を馬場に預けていった。馬場は、果たして自分のしようとすることが本当に事務員の仕事なのか自問した。また、倒れたのが能勢ではなく石倉や近藤だったら自分は同じことをしただろうかと迷った。もしかしたら事務の同僚だった場合でさえ送らなかったかもしれない。
能勢は、軽かった。
「もう少しよ」
馬場は背中にぐったりとよりかかってくる能勢に声をかけた。官舎ではない一般アパートの二階。角部屋で、能勢の足が止まった。
「ここなの」
彼は頷くも、鍵を出そうとはしなかった。かわりに「もう、大丈夫です」と弱い言葉だけが返ってくる。馬場は思わず大きな声を出した。
「嘘。ちゃんと寝たところを確認しなきゃ安心できない」
能勢はしばらく黙っていたが、観念したようだった。玄関の戸が開く。すぐに能勢は馬場の側を離れトイレだと思われるドアの向こうへ消えた。馬場は、何故彼が戸を開けるのをためらったか理解した。
「大丈夫なの」
ドアに向かって声をかけつつ、洗濯物の山を乗り越えて彼のベッドへ向かった。横になる手伝いをしてやる以前の問題だった。ベッドの上はよれたスーツや本であふれかえり、下には珈琲やビールの空き缶がごろごろしている。頭を抱えたくなった。彼は普段どこで寝ているのだろう。せめて人が横になれるくらいにと本を端に寄せる。スーツをかけてやろうと思ったらハンガーがない。馬場はスーツも端に寄せることにした。無心で手を動かし続けるうちに丸かった掛け布団が姿を現す。一度手を止め、能勢の方を確認しようとした。
すると。入ってくるときには気付かなかった妙な缶が、冷蔵庫の上にあることに気付いた。馬場は、なんとなくそれが何だか解った気がした。見なかったことにしたいが、確かめずにいられなかった。
粉ミルクの缶だった。
馬場は悲鳴を上げないように口許を覆った。ゆっくりと台所に視線を移す。だめ押しのように哺乳瓶を見つけてしまった。吸い口の色は褪せている。寒気がした。能勢に子供がいるという話はきかない。いや、子供がいたとしてこんな部屋に置いておくだろうか。馬場の頭の中に恐ろしい仮説が浮かんだ。違うと思いたかったが、能勢に押し倒された日のことを思うと妙に納得がいってしまった。これを使用しているのは、彼本人だ。
優しい人なら誰でも良かったの。
思わず口にしそうになる。どうしても、この場にはいられなかった。
「ごめんなさい、そろそろ戻らないといけないみたい」
馬場は自分の身体を抱き、ふらふらと部屋を飛び出した。外へ出て、玄関の戸を閉めると急に力が入らなくなった。戸へ背中を預け、上腕を強く握る。痛みよりも寒気が勝ってしまって悲しかった。
どれくらい、そうしていただろうか。大学生くらいの男が階段を上がってきて馬場の隣で立ち止まった。
「あの、この部屋の人の彼女かなんかですか」
「ええ」
反射的に答え、馬場は少し後悔した。いつ自分が能勢の彼女になっただろう。それに初対面にこんなことを聞いてくる場合、続く言葉はきっと良いものではない。
「その、こういうの言ったらなんですけど。どうにかしてくれません。絶叫したり物音立てたりするの。夜中とか外うろうろしてることとかあって。怖いっていうか」
馬場は何も言えずに男の顔を眺めていることしかできなかった。まさか能勢がと思う。でもそれは馬場が能勢の暗い部分を見なかったことにしたいだけではないか。「とにかく近所迷惑なんで」それだけ言い残し、男はすっきりとした顔をして隣の部屋に引っ込んでいった。
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