共犯者

 馬場はため息をつき、無駄に明るいパソコンの画面を眺めていた。


 あれから能勢は目を合わせてくれなくなった。署内ではよそよそしく、そうかと思えば以前にも増して近くにいる。それでいて、話しかけようとした途端に逃げてしまうのだ。家へ来ることもなくなっていた。どうにも集中できない。




 いきなり押し倒してきた能勢のことを嫌うならまだしも、彼に話しかける機会を探しているなんて妙ではないか。もし、自分の友人が同じ状況だと聞かされたら「下心だけの男に違いないんだからよしたほうがいい」と言うだろう。それが、いざ自身に起こったこととして考えてみると、能勢のことを悪くは思えなかった。これが好きということか。もしかしたら自分は、普通じゃないのかもしれない。




「ね、噂聞いた」




 隣のデスクから同僚が身体を乗り出してきた。噂、というのは能勢のことなのだろう。馬場は、皆の言うことがどうにも信じられなかった。あの気弱が人に暴力を振るうなんてできるわけがない。でも。あの夜には急にあんなにも荒々しかったではないか。


 能勢には人より衝動性というものがあるのかもしれない。しかし彼の衝動性の肯定は噂の肯定にもなりはしないか。




「今大事なところなの。後にして」




 馬場は頭をかきむしった。




「いいじゃない。耳は暇でしょ。あの根暗がさ」


「ごめんなさい。本当に後にしてくれないかしら」


「じゃ、こっからは独り言。本当にスクープなのよ。あいつね、バツイチで」


「まさか」




 今度は馬場が身を乗り出した。同僚がにんまりとする。




「ほんとよお。なんでも奥さんに暴力振るってたんですって。かわいそうに。そりゃ刺されて離婚ってのも納得よねえ。一人じゃあんなによれたネクタイのくせに。ほら、女の人への取調べも横柄って聞くじゃない。そうそう、ソッチの方も暴力的なんですって。だからあんなにトイレ近いのよ。よからぬ病気を、拾ってきちゃったのね」




 げらげらと黄ばんだ歯をむきだしにして笑う同僚に、腹がたった。同時に食い入るように話を聞いていた自分を恥じた。顔が赤くなる感覚がある。馬場はおもわず立ち上がった。




「なに、トイレなの」


「そんなところ」


「ならもう一つ。近藤さん、きっとあなたのことが好きよ。やたらあなたのこと見てるもの。うらやましいわあ」




 今朝のことを思い出し、ますます気分が悪くなった。馬場は廊下へ出る。とはいえ、何かをする当てがある訳でもない。仕事を進めたいが、それでもあの同僚の隣に戻りたくなかった。気付いたときには刑事課の前を歩いている。馬場は急に悲しくなった。自分は何をやっているんだろう。少し早いが昼ごはんを買いに行って時間をつぶそう。弁当があるけれど、丁度今、足りない気分になったところだ。




 と。廊下の先に見覚えのある猫背がある。馬場はすぐさま後を追った。真後ろに移動し、声をかけようとする。が、何と言ったらいいかわからない。彼が振り返ることを期待したが、下を向きとぼとぼとした様子では望み薄か。ひとまず挨拶だけでもしてみようか。しかし、ぎくしゃくしてしまったらどうしていいのか解らない。これじゃあ立派なストーカーよ、と馬場は内心で毒を吐いた。成すすべなく能勢の背中を見つめる。




 ここで馬場はあっと声を上げそうになった。ジャケットの左わき下が不自然に盛り上がっている。能勢は男子トイレに入ったが、馬場は迷わず彼を追った。個室のドアを閉められる前に足を挟みこんで止める。




「上着の下に隠しているもの出して」




 能勢の肩が大きく跳ねた。微かではあるが、既に酒の臭いがした。能勢は、そろそろとビールを一本取り出す。馬場が正面から充血した目を見つめると、さらにもう一本。能勢の目はまだ細かく震えていた。馬場はそっと彼の右手を握り言う。




「本当にこれだけ」




 すると内ポケットから紙パックの日本酒が出てきた。馬場は身震いした。これは誰かに報告したほうがいいのか。さすがに個人の問題として黙認してしまうには無理がある。が、報告してしまった場合。最悪、能勢は退官することになるだろう。馬場は何も言えず能勢をみつめていた。能勢がゆっくりと口を開く。




「誰にも言わないでください。僕はまだ、辞めたくない」


「だめよ。自分で制御できてないじゃない。いけないって思わなかったの」


「わかってる。でも、これがないと具合が悪いんです。それに僕は休んではいけない。警察官でいなきゃいけない。もう僕一人の夢ではなくなってしまったんです」




 眩暈がする。馬場は、能勢が何を言おうとしているのか解らなかった。解らないまま、どうにか「あなたはもう戻って」とだけ言った。能勢の背中がふらふらと遠ざかっていく。


 馬場は自分が酒を抱えて男子トイレに立っていることを思い出した。誰かに見られる前に移動しなくては。この酒を、どう隠そう。また、ゆくゆく能勢に返すべきなのか。






 馬場は上着を気にしながらデスクに戻った。同僚の目を盗み、タオルをハンドバックに入れる。署の備品だが後日洗って返そう。タオルの中身は潰したビールの缶と平たくした日本酒のパックだ。中の酒は女子トイレに流した。洗剤もまいて窓を開けておいた。臭いが消えなくとも、持ち込んだのが能勢だと知れてしまいさえしなければ良い。




 能勢のため、なんて言ってみたところで、もう引き返せないことをしてしまった。馬場は、身震いする。それからあの後、能勢がどうしたのかが気になりだした。今は昼休み。酒を買いに行ってしまったとしたらどうしよう。とりあえずは椅子に座ってみたものの落ち着かない。その時。エレベーターのあたりが騒がしくなった。中から出てきた近藤が能勢を背負っている。馬場は立ち上がった。

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