奈落

 午前の仕事が終わる頃、隣のデスクからスマホの着信音がした。いつのまにか能勢がいる。意図せず画面を見てしまった。「おばさん」とある。しばらくの間があって、女の声がした。




『もしもし、えっと、諄琉。お正月なんだけど帰ってくるわよね。それと、』




 能勢はおそろしい形相で電源をおとした。また無糖の珈琲を飲んでいた。手が震えている。もしかして、能勢には親がいないのだろうか。見なかったことにしようとするも、秘密の暴露をした罪悪感が沈黙は不自然だと騒ぎ立てる。




「どうした。顔色がわるいぞ」




 近藤は今できる最大限の笑顔で、穏やかに言った。能勢はこちらを一瞥もせず返した




「いえ、何もありません」




 その後、署内で能勢の悪評が広まっていると知った。バツイチだけでなく尾びれ背びれで「妻に暴力を振るった末に捨てられただめ男」「離婚の原因は能勢の好色」という話がまとまってしまっていた。さらには「若くしての刑事課転属は石倉のコネ」という話まで出回っている。近藤は話の拡散速度に身震いをした。




 まさか、こんなことになるとは。いや。頭の片隅でこうなることを望んでいたのではないか。近藤は頭を押さえた。違う。「親切な人」である近藤がこんな発想をするわけがない。近藤は丁度通りかかった署員を捕まえて訊いた。




「能勢の。この噂出所は何処だ」


「知りゃしませんよ。あんたも先輩だからってさあんな下衆庇ってやる道理はないでしょうよ」




 真っ先に実感したのは、安堵だった。ふうと息を吐こうとした近藤の肩を触ったものがある。近藤は振り返り、固まった。




「近藤さん。私なんかを庇ってあなたまで損をすることはない」


「あ、いや、あの、お前事実無根なんだろ」


「一時の遊びですから。逆に私でも役に立っていることになりますね。皮肉です」




 近藤はぎくりと仰け反りかけた。凝視した能勢の目に、感情というものを見出すことは出来なかった。近藤は去っていく能勢を見送り、そっと視線を落とす。床にあったシミをただ眺めていた。


 今更になって近藤は能勢の若さが気になり始めた。あれほど有能ならと納得しかけていたものが、簡単に崩れ去った。まだ二十二歳の刑事。まして転属してきた当時は二十一歳だった。すると、能勢が何らかの「褒められたことではない手段」を取ったとしか思えなくなった。




 デスクに戻ると、近藤はサンドイッチをかじった。口に残ったのをお茶で胃に流し込み、横目で能勢を見た。


 能勢はパソコンに向かい仕事をしているように見える。しかし手は動いておらず、虚ろな黒瞳が何を見ているのかは検討もつかなかった。小声で昼休みだぞと言ってみたが彼は動かなかった。近藤はどうにも居心地が悪くなり席を立つ。廊下に出ると茂谷がまだ能勢の悪評をばら撒いていた。茂谷は目ざとく近藤を見つけると、その体型でよくもと思うほどの速度でにじりよってきた。




「ちーす。そういや、なんかアイツここへきたの石倉班長のコネらしいっすよ。図体も態度もでかいくせにやってること小っさてか。まじ草」


「なんだ草って」


「え、知らないんすか。ウケるって意味で」


「そうじゃない。その言い方はないだろうと言いたいんだ」




 近藤は茂谷を睨みそうになった。いや、もう睨んでいるかもしれない。茂谷が驚いたような顔で近藤を見て言った。




「え、だってまじのやつだったら言われて当然のやつっしょ。それにアイツの話始めたの近藤さんじゃないっすか。それともあれっすか。自分はキレイでいたいっすか。ああ、近藤さんって自分好きっすよね。意外とみんな、そういうの気付いてるっすからね」




 近藤は押し黙った。「お前だって能勢が来たことで期待の若手の座を奪われた腹いせがしたかっただけだろう」とは言い返せなかった。反射的に能勢がいないことを確認してしまっている自分に気付き、咳払いをする。


 茂谷は冷笑を浮かべ去って行った。




 近藤は意味もなく署内を歩き回った。何故だかじっとしていられなかった。午後の仕事が始まる寸前になってようやっと仕事場に戻るも気分がよくない。茂谷のことだから、もう近藤の噂も流しているだろう。先に噂話の餌食となった能勢がどんな目に遭ったかを思えば早退してしまいたかったが、帰ることで噂が真実であると認めたような体裁になるのではと考えると決心がつかなかった。


 刑事部屋は拍子抜けするほどいつもどおりだった。近藤は立ち尽くす。横を茂谷が「ちーす」と言って通り過ぎたが、そのほかに何かが起こりはしなかった。


 それでも立ち尽くしていると石倉が近藤の肩を掴んだ。




「どうしたんだい。顔色が良くないねえ」


「いえ、あ、その」




 近藤は口をもごもごと動かした。一度周囲を確認するとトイレにでも行ったのか茂谷の姿はない。今なら茂谷が余計な噂を流していないかが確認してみるのにいいかもしれないと考えた。慎重に言葉を選ぶ。




「あれです。署内で、あの、噂話なんてのが流行っているでしょう」


「ああ、能勢君のだね」


「それです、それです。なんというか好ましくはないと思いましてね。ほら、あの、ああいうのって。陰で他にも餌食になってる人だって居るかもしらんわけですし」


「君は本当に優しいんだねえ。僕もね、能勢君の件に関しては良いとは思わないんだ。けどねえ。僕も今回は当事者にされちゃってるしね。余計なこと言ってややこしくはしたくないんだよね」


「そうですか」




 石倉の性格なら、近藤に関する良くない噂があれば正直に教えてくれるはずだ。もともと口が軽く噂話に目がない茂谷のことだから、注意されたのが悔しくて言いがかりをつけただけか。そもそも茂谷に恨まれることをした覚えもない。近藤はひとまず自分に関する悪評が出回っていないことに安心した。すると再び能勢に対する不審と下世話な好奇心が首をもたげてきた。




「石倉班長、そういえば噂の件本当なんですか。その能勢と以前から知り合いというのは」


「まさか。それに皆だって本気でこんな小さな署の班長ごときのコネなんて思ないよ。そんなのは自分が警官やってりゃどれだけ現実的じゃない発想かくらい解ってるしね。面白くなりそうなら何だって良かったんじゃないかな」


「だとしても。恥ずかしい話、皆がそういう話をしてしまうのも解る気がするんです。能勢はあまりに若い。彼の親は警察のお偉いさんか何かですか」


「まさか。完全に努力の結果だよ。どっちみち、職質夜叉なんて物騒な二つ名があったくらいだし配転も時間の問題だったんじゃないかなあ」




 近藤は腐った。駅前交番の職質夜叉の話は聞いたことがある。しかし、それがあの能勢だったとは。




「あの能勢が自分から人に話しかけたというんですか」


「それが僕らの仕事じゃないか」




 石倉が嘘をついているようには見えない。安心した一方で何処か残念だと思っている自分に寒気がした。






 翌朝、近藤はいつもより早く家を出た。道場に顔を出そうとも思えなかったが、できれば能勢に出くわしたくはなかった。が。エントランスに入ってすぐ、エレベーターの前に不健康そうな猫背を見つけてしまった。ため息が出る。近藤は、自分の間の悪さを呪った。それから、何故こんなに早く出勤してきたんだと能勢に腹を立てた。


 さらに間の悪いことに、能勢が振り返る。近藤はしぶしぶ彼に声をかけることにした。




「おお、今日はやけに早いな」


「近藤さんも」




 これ以上会話を続けようにも、言葉がなかった。


 エレベーターを降り刑事部屋の前に着いてすぐ、丁度横を通りかかった者たちが、露骨にひそひそとやる。他部署の者まで混じっていた。話の内容は丸聞こえだ。あまりの胸糞悪さに近藤は前へ一歩踏み出す。しかし噂の始まりが自分とあってそれ以上のことはできなかった。その時、能勢がかなり大きな音で舌打ちをした。近藤が恐る恐る彼の顔を覗き込むと、口許だけでにぃと不敵な笑みを浮かべている。近藤は震えだしそうな膝を押さえ、すぐさま視線をそらした。それから、能勢の手が拳を握ったままがたがたと震えていることに気付いた。




 本当は驚くほど傷つきやすい人間が見栄を張っているだけなのか。そう思うと、今度は能勢が急に哀れに思えてきた。


 近藤は、もう一度能勢の顔を見た。


 能勢は急に無表情に戻ると踵を返し、自販機で珈琲を買って、去っていった。


 これで、勝者は近藤だ。よっぽどの物好きでなければ馬場も能勢を選ぶことはしないだろう。近藤は自販機の取り出し口を見つめていた。笑おうと思ったができなかった。自分は、どうかしていた。追いかけて謝ろうか。いや、そんなことはできない。




 埋め合わせといえば妙だが、せめて能勢にもっと優しくしよう。しかし。その埋め合わせは結局近藤の評判をあげるだけだ。近藤は、これ以上何も考えないようにした。

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