三人の子供
古都子はたまらず馬鹿馬鹿と叫びながら逃げ出した。しかしすぐに冷静になり階段脇に身を潜める。もし輝琉が警察を呼んだらどうしよう。古都子は部屋を覗き込んだ。
輝琉がスマホで何かしようとしている。古都子は叫びそうになって自分の口を覆った。それからやかましい鼓動が気になりだしてそろりそろりと胸まで手を下ろした。
もうおしまいだ。目を閉じる。それから自分の子が死んだというのに愛琉の時ほど悲しんでいない自分に気付き身震いした。悲しもうにも、長男との思い出が見当たらない。また辛うじて家族の記憶に長男を見つけても彼の表情が思い出せない。先刻の長男の憎悪に歪んだ顔を思い出す。今まで一緒にいた時間は全部嘘だったと言うのか。すると再び長男に腹が立ち始めた。あんな顔をして何故、やり返してこなかったのだろう。何故、笑ったまま首を絞められていたのだろう。不気味な子。
古都子は立ち上がった。死体だって構うものか、頭を蹴っ飛ばしてやる。
すると、部屋の中から輝琉の怒鳴り声がした。
「何だと。兄ちゃんは俺なんかと違って背が高い。何をやらせてもできる。顔も良きゃ頭もいいし女みたいな顔なんて言われもしないんだろ。今日だって母ちゃんは兄ちゃんのほうばっかみてた。俺は。何か買ってくれたって、殴られなかったって、それだってあんたみたいに期待されたことなんかない」
長男が、生きている。一瞬は安堵した。が、今度はとんでもない恐怖心が古都子を支配した。あの昏い目が脳裏にはっきりと浮かぶ。古都子はへなへなとその場に跪いた。開いたドアから見える室内を成す術もなく眺めていた。大人しいとばかり思っていた輝琉が長男をめためたに殴っている。古都子はまたショックを受けた。輝琉まで自分に不満があったのか。古都子は輝琉が解らなくなった。
彼は、長男にむかって怒鳴っていた。
「親父の一周忌もしないで帰るんかよ、この人でなし。あんたは葬式もちゃんと出なかった。いくら恵まれてたって人の気持ちもわかんないクズだ。自分カッコイイとか思ってんだろ。幸せ者はあんただ」
いつのまに起き上がったのか長男は壁を見つめていた。輝琉が、もう二、三蹴りつけている。輝琉が、輝琉じゃない。幼少の記憶がはっきりと迫ってきた。母と、母をなぐる父。幼い古都子は怯えてひたすらに気配を消していた。同じだ、と思った。今度は輝琉に腹を立てたが、責めることはできなかった。自分のほうが長男に酷いことをしていたことくらいは解っている。もしかしたら輝琉も被害者だったのか。それでも、古都子だって愛されたかった一人の子供だった。古都子だけが責められるとなると、やはり納得はいかない。また、長男を助けに入ろうにも気まずさが先に立ち、どうしたらいいのか解らなかった。長男も古都子の顔なんて見たくないと思っているに決まっている。
中から長男の冷えた声がした。
「お前は。あれほど嫌っていた父親に手を合わせてやる自分は寛大で正しいと言いたいのか」
「何だってんだよ。俺はフツーに」
「年子。愛琉。何のことか、お前の哀れなお母様に訊いてみるといい。所詮、おれらは替えが利く」
家族なんて幻想だったのか。あの気弱な夫でさえ子供に嫌われていた。完全に動くタイミングを逃してしまった古都子は二人に謝ることも立ち去ることも出来ず固まった。どうして長男は輝琉に愛琉の存在をばらした。そんなことをしたら輝琉に嫌われてしまうかもしれない。違う。いつから大切な愛琉は「バラしてはいけない」存在になったんだろう。愛琉も長男も輝琉も同じ我が子だったはずだ。古都子は迫り上がる違和感に声もなく涙を落とした。
今更「産み方は少しあれだったかもしれないけどあなたは愛琉のかわりじゃないのよ」なんて言ってもどうせ長男は信じてくれないだろう。
名前に「愛」か「琉」の字を残そうとしたのも代用品だと思っていたからではない。生きることがかなわなかった姉の名を二人の弟が継いで生きる。まだ若かった古都子はロマンチックだと思い、深く考えなかった。ロマンチックだと思うのが古都子の価値観なら、その名づけ方に違和感を覚える価値観も存在するということに気付いてもいなかった。
例え軽率と責められようと、親心と罪悪感が忘れない決意だけで済ましてしまうのを善しとさせてくれなかった。
何か生きた証を残してあげなければ愛琉は本当に遠くへ行って消えてしまう気がした。
薬も使った。確かに古都子は不妊ではない。他の女性より子宮が再び子を宿せる状態に戻るまで長い時間が掛かるのは本当だが、当初の家族計画通り二つ違いで出産するには問題のない身体だった。
それでも子を産むと言って休みを取った手前、死なれたとなると職場に戻り辛かった。嫌味を言われるのが目に見えていた。
愛琉が死んだのは医者のせいと産婦人科に抗議の電話をかける母親にも嫌気がさした。
自分さえ、もう一度妊娠してしまえば。すべて解決するにはこれしかないと思いこむほどには追い込まれていた。
欠片ほどではあるが、子を失った可哀想な母親として同情されるのは心地よかった。愛琉を失った悲しみや、自分が母だったばかりにこの子は死んだのではという苦しみを忘れさせるように皆が優しい言葉をくれるから。赤ん坊を抱いている同世代の女に対するどす黒い感情もその時だけは少し和らいだ気がした。
そんな時、ついに母の嫌がらせ的抗議に根負けした医者が薬を使うことを提案してきた。この誘いは疲弊しきった古都子の脳に甘く響いた。身体への負担なんてちっぽけな問題に思われた。
双子を授かり通院を重ねれば、何度も不妊治療を受けているらしい人を見た。その度に胸の奥にかすかな痛みが走ったが、膨らむ腹を撫でてはどうにか耐えた。
幾度ともなく罪悪感に駆られては、自分だって金は払っているのだと言い訳を試みた。むなしい抵抗だった。それでも、命は育っている。産むしかない。大事な我が子を、もう死なせるわけにはいかないのだ。
ところがいよいよ出産が近付いたころ、夫が急に海外出張することになったと言い出した。古都子は見捨てられたような気持になった。それでいて気弱な夫の事だから断りきれなかったんだと自分に言い聞かせた。こんな片田舎の小さな銀行が外国なんかに何の用事があるのか理解できなかったが、仕事ならば仕方がない。夫は英語がとても上手なのだから適任だと考えることにした。
夫不在の心細さも、まだ見ぬ我が子を思えば堪えられる。あのときの決意は、決して偽りなんかではない。
長男が言うように、愛琉が生きていたら息子二人は生まれなかっただろう。
だが、それは要らなかった子供ということではない。
産声を聞いたあの日、二人揃って男かとがっかりしなかったといえば嘘になる。でも長男と輝琉が生まれてきたときには本当にうれしかった。愛琉が死んでしまった生後三時間が過ぎて、一日経って、それでもちゃんと生きていてくれたのが嬉しかった。特に輝琉と違い発育が不十分で保育器へ入れられていた長男が戻ってきたときは、自分のいる場所が病院であることも忘れ歓喜のあまり叫んだ。
しかし。双子の子育てはとんでもなく大変だった。片方が泣けばもう片方も泣き出すし、授乳やオムツの交換も二人分。夫の母は協力的だけれど頼りにくく、自分の母に息子のことを言ったらおまけであの父が出入りするようになるかもしれない。古都子は聖女じゃない。いつまでも純粋な愛の夢にはいられなかった。
ふと、隣で何かが動く気配があった。長男がのっそりと部屋から出てきた。彼は、昏い目でちらりと古都子を見下ろしたが何も言わなかった。古都子は彼の赤くなってしまっている首を見た。それから視線を下ろし彼が失禁していたことに気付いたが、かけるべき言葉がわからなかった。
「あんさ」
気付くと輝琉が目の前に立っていた。古都子は身を固くする。自分も殴られるかもしれない。愛琉のことを聞かれるかもしれない。その場合、どう答えれば彼を傷つけずにすむのか。
輝琉はゆっくりと口を開く。
「警察も救急車も呼ぶなってさ。兄ちゃんが馬鹿で良かったな」
古都子は泣き崩れた。輝琉が立ち去った後も、その場を動くことはできなかった。
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