幼子の咆哮
「あんたは、おれに何をしたのか覚えてもいないのか」
覚えてる、と言いたくなかった。実際に忘れていたし、忘れてなんかいなかったと嘘を吐き通す自信もない。長男が、こちらを睨んでいた。今までの昏い眼なんて比にならない。悪鬼というにふさわしかった。古都子は思わず鬼、とつぶやいた。
「そうだ。あんたはおれに鬼の子は鬼ヶ島に帰れといった」
「嘘よ」
さすがに声が震えた。
「大事な子供にそんなこと言う母親が何処に居るというの」
「目の前さ」
言いがかりも甚だしい。少なくとも古都子にそんな記憶はない。暴力こそ振るっても、あれは古都子なりの愛だったし、そう言いたかった。わかりやすく顔面が熱くなる。頬がぴくぴくと引き攣った。それに芝居がかった口調にも腹が立つ。自分が正義で古都子は悪だと断罪してくるようではないか。
「あんたは無責任だ。あんたが読んでたの。『こどものおもちゃ』だったか。いじめられっ子がいじめっ子に言った台詞に酷似したのがあった。どういうつもりで吐いた」
「知らないわよ」
「…………」
「なに、あたしが悪いって言いたいの。昔のことでしょ。被害者ぶんなよ、女みたいに。あたしを怒らせたあんたが全部悪いんでしょうが」
「認めないか。覚えてないか」
「黙れ。あんたはいつもいつもいつもいつもいつも」
「あんたが黙るべきだ。それと。おれの首を絞め『あんたのような子が居ると神は改心させるために母親を早死にさせるからあんたのせいで死ぬ』とまくし立てたとき。気持ちよかったか」
「…………」
「おれの膝を噛んだとき。おれは自分でもげたおれの肉をゴミ箱へ捨てた。それでもひとかけ見つからなんだ。食ったのか」
「黙りなさい」
「まだだ。おれの名は諄の一字でイタルと読める。琉の文字を付けたのはなぜか聞いたことがあったな。あの時あんたは愛琉の琉だと言った。もしおれらが女だったら万理愛と愛凜にするつもりだったとも白状した」
「……忘れたわ」
「しかも家族計画には兄弟は二人、年にして二つ違いと言った。おれらと愛琉は年子だ。そのことを問うた時。期待の一子が死んで職場はいびりがあり辛かったが嫌いなセックスを頑張ったあたしは偉いとぬかした。不妊でもないのに薬を使ったとも」
「ああ、もう、うるさいわねえ。黙って聞いてりゃ。あたしだって人間よ。思ったら言いたいことを言うし忘れもするわ。何か文句あるかしら。あんたは抵抗しなかったし養ってだってやってた。何が不満なの」
長男は黙って古都子に背を向けた。
「あーはいはい、そうですよ。どうせ全部あたしが悪いんですよ。はいはい、ごめんなさいねえ」
長男は、何も言わなかった。
古都子は肩で息をしながら逃げる気と怒鳴った。あたしの親のほうが怖かったと叫んだ。しかし長男は振り返る気配もなく歩き出した。腹の虫がおさまらなかった。
古都子は部屋を出ようとした長男を追いかけた。長男は部屋の入り口にあった荷物を拾い上げた。帰る気だと理解した瞬間、耐え難い頭痛が襲い掛かる。こいつには、死んだ父親に対する恩義というのがないのか。
古都子は長男の巨躯に体当たりをかまし、素早く首を絞めた。途端に、長男の首許が赤く盛り上がり始める。蕁麻疹、と解るや否や明確な殺意が沸いた。
「ふざけんな。悪魔、あんたなんて産まなきゃ良かった。輝琉だけでよかったのよ。金返せ。あたしの城から出てけ」
長男の口許が静かに歪む。苦痛、ではない。微笑っている。古都子はさらに力を入れた。親指を動かして、しっかりと頚動脈を押さえつける。体力がないわけでもないくせに抵抗してこないのが不気味だった。
「ずんるいじゃん。この三歳児。脳手術でもしたら」
古都子は思いつく限りの罵倒文句を浴びせた。長男は無抵抗のままわずかに身体を震わせた。古都子の下で唾を吐き散らす。額に血管が浮いていた。まだ、あの忌まわしい微笑は張り付いている。見開かれてもなお昏い瞳が無感動に古都子を捉えていた。さらに、力をいれる。
「何やってんだよ」
突如、大きな声がして、古都子の身体は何者かにはじきとばされた。輝琉だ。今までに見たことのない顔をしている。古都子は「怒ってるの」と言おうとしたが、声がかすれて言葉にはならなかった。
はっとして長男のほうを見る。長男は仰向けのまま動かなかった。殺してしまった、と思うと背筋が冷える。慌てて輝琉のほうを確認する。彼は引き攣った顔で長男を見下ろしていた。この反応は、死んでいるやつだ。古都子の頭は真っ白になった。
死体を隠す。どうやって。これは私が悪いのか。今まで長男に注いできた金と時間はどうなる。これでも愛をもって育ててきた。それを壊したのは古都子かもしれないが、長男にも問題があったはずだ。掌を見れば汗がじっとりと浮き上がっている。
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