ひととき

「はい、どなた」




 馬場は部屋の戸を閂をかけたまま少し開き、外を見た。驚いた。能勢がいる。こんな夜遅くにどうしたのだろう。




「少し待ってて」




 馬場は一度戸を閉めると軽く服を正してから閂を外して能勢を中に招き入れようとした。




「あ、いえ。すぐ帰ります。その、昨日。僕が紛らわしいことしていたばっかりにごめんなさい」




 能勢がビニール袋を差し出した。中身はトマトと生卵だった。




「いえ、こちらこそごめんなさい。それに、これ。手提げを放り投げたのは私なのに。なんてお礼したらいいか」


「気にしないでください。では、これで」


「上がっていって。包帯かえるから」




 すると能勢が驚いたような顔をした。馬場は微笑する。




「傷口は清潔にしておいたほうがいいの」


「手馴れているんですね」


「ええ、まあ」




 弟も自分の癌がもう手術不可能と知ったとき似たようなことをしていたから、という言葉は飲み込んだ。ここで能勢に弟の話をする必要はないだろう。すれ違うとまた能勢は酒臭かった。




「またお酒を飲んでいたの」




 馬場はリビングにつながる戸をあけようとした。それからすぐ、昨日は気にもしなかった弟の遺影のことを思い出した。遺影、といってもフォトフレームにはいった写真にすぎず仏壇があるわけでもない。また、あまり顔の似た弟でもないから写真を見たら能勢は変な誤解をするかもしれない。




「あ、ちょっと待って」




 馬場は先に部屋に入って弟の写真を伏せた。それからこれでは余計に怪しいと考え、あわてて抽斗に突っ込んだ。本当ならばバスタオルを入れる場所だ。心の中でしっかりと弟に謝ってから馬場は言った。




「どうぞ」




 能勢をソファに座らせると救急箱を開いた。包帯を巻きなおしているとき、妙に冷静になる。本当に弟なのに隠す必要なんてあっただろうか。そもそも能勢が「変な誤解」をしたとして、すると何故自分が困ることになるのだろう。


 能勢がいきなり悲鳴をあげた。馬場ははっとする。




「ごめんなさい、きつかったかしら」




 馬場は大きく息を吸い、しっかりと考えることにした。自分が能勢に好意を持っているとして、その事実自体は理解できる。むしろ、これが好意でないとしたら他の何になるというのだろう。自分が能勢を好いていると断定しても嫌ではなかった。問題はいきさつのほうだった。


 もともと保育士を目指していたのに警察事務員になることを選んだのも、署で散々に言われていた能勢に声をかけてみたのも、警察官になるという夢を叶えることもないまま癌で亡くなってしまった弟の存在が大きい。




 弟は能勢と違い上背があるわけでもなく顔も十分人並みで、素直以外に目立った長所もなかったが仲は良かった。気弱で、どこか幼い。能勢を見たとき、直感的に似ていると思った。


 日々能勢と接しているうちに僅かな仕草にさえ類似点を探すようになっていたし、実際に似ていた。見つめたまま「ありがとう」と言えば目をそらしてしまうところ、部屋のすみっこが好きなところ、ほんの小さな物音にわりと敏感に反応するところ。あげればきりがない。


 しかも悪いことに、弟が生きていたならば能勢と同い年だ。




 能勢は包帯に包まれていく腕をじっと見つめていた。こんなところまで同じだなんて。


 馬場はさらに考え込んだ。


 仲が良かったのに、一緒に暮らしていたのに、自分は弟がもはや助からない命になるまで気付いてやれなかった。それでいて家族が希望を捨てないよう努力しているのに自暴自棄な態度をとる弟に腹を立てた。そうして突き放しているうちに弟は急変してあっけなく死んでしまった。本当は彼が一番悔しいのだとわかっていたのに姉として何もしてあげられなかった。




 要は贖罪だ。


 猛烈に申し訳ない気持ちになった。弟にも能勢にも悪いことをしている気になった。ミツルとイタル、そんなに似ているわけでもないと思っていた二人の名前でさえ似ている気がしてきた。


 踏み切りで能勢を見たとき、彼を決して離すまいと思った。それも一日が経ち冷静になってみれば、能勢をだったのか亡き弟に似た男をだったのか自分でも解らなかった。


 が。最初の理由がどうであれ今後もし能勢に嫌われるようなことがあったらと思うと耐えられない。




「どうしたんですか」




 能勢に言われて馬場は自分が泣いていたことに気付いた。




「いいえ、なんでもないわ」




 正直に弟のことを話したらきっと嫌われてしまう。馬場は曖昧な笑みを浮かべた。能勢は戸惑った気配こそあるものの何も言わないでいてくれた。


 手当てはもうすぐ終わってしまう。あとは能勢の怪我が自傷行為とは別のものに見えるように人差し指と中指を割り箸で固定し巻いてやれば完成だ。手を動かし辛くなることに関しては同意も得ている。




「どうもすみません。面倒をかけてしまって」


「いいえ」




 事が済むと、能勢は立ち上がった。玄関のほうへ行く様子はない。かといって時間も遅ければ引き止める用事もない。玄関に案内したほうがいいのかもしれないが「玄関はあちらです」などと言えば「帰れ」と言っているように聞こえる。それに、帰って欲しくない。


 五分ほど互いに何をするでもなく見つめあった。先に動いたのは能勢だ。




「ああ、もうこんなに遅い時間になるんですね。今日はありがとうございました」




 能勢は玄関のほうへ向かう。




「あの」




 馬場は後ろから呼び止めた。もしかしたら何らかの理由で能勢も帰りたくないのではないか。




「お酒。身体は大切にしてくださいね。特に肝臓と胃はだめにすると本当に辛いの」




 馬場はこんな言葉しかいえなかった自分の臆病を呪った。能勢は素直に頷くと腰から長身を折り曲げて一礼し出て行ってしまった。


 馬場はしばらく立ち尽くした後、慌てて玄関の戸をあけた。せめて見送りたかったが、暗闇に能勢の背中は見つからなかった。

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