不都合な事実

 近藤は、取調室で額の汗を拭った。当初の手助けという意識は消し飛んだ。能勢が今、取調べをしている。




「私じゃありません」




 女が叫んだ。まだ二十代と遊んでいたい年頃だろうに髪は黒く、声も優しい。どうにも子供を虐待死させた親には見えない。女は半泣きになりながら必死の弁明をしていた。が、能勢は態度悪く長い足を投げ出し、聞く耳持たずという様子だった。能勢が小さく、乾いた息を吐く。素人も熟練もすっ飛ばして異様だった。同席の女性警官が今にも掴みかかりそうな姿勢で能勢を睨んでいる。近藤は叶うものなら退席したかった。


 女がひとしきり話し終えぐったりとうなだれたとき、能勢がゆっくりと口を開いた。




「つまり、きみの子は殺されるために生まれた。今も殺され続ける訳だ」




 女が叫ぶと同時に、近藤も音を立てて立ち上がった。女性警官もだ。もう、我慢ならない。相手の尊厳を無視した態度だ。それに、女が故意にやったと決め付けている。




「お前、一度外せ」




 存外低い声が出た。机をがんと叩く能勢の首根っこを掴み、外へ放り捨てた。振り返った目は吸い込まれるように昏かった。少し酒のにおいがする。近藤は大きく息を吐き、振り上げかけた拳を辛うじてひっこめた。引き攣った顔のまま部屋に戻る。女性警官が、助けを求めるような眼でこちらを見ていた。近藤は笑おうと試みた。出来なかった。


 咳払いを一つ、女の前に座りなおす。女に、能勢が居なくなったことを告げると堰を切ったように泣き崩れた。どうにも申し訳ない。というのも能勢は今、隣室で待機しているはずだ。




「その、すみませんね若いのが」




 そういった自身も三十の半ば。だが、そんなことを気にしている場合ではない。女がくしゃくしゃの顔で近藤を見ている。近藤がぎこちなく笑いかけると、なんと自供を始めた。




「その、本当なんですか。やっていないことは正直にやっていないと言ってください」




 言ってから近藤は変な顔をした。女は首を横に振るばかりだ。図らずとも「怖い刑事と優しい刑事」を演じたことになる。もし能勢がいなかったら事故だと判断していただろう。


 被疑者の見た目で判断するという過ちを犯したのは、自身の未熟だ。解っていても、認めたくなかった。今回は偶然だ。能勢のような態度で取り調べに臨めば、いつか冤罪を生むかもしれない。


 近藤は額の汗を袖で拭いながら、隅の洗面台を見た。あれの小さな鏡はマジックミラーになっている。あの反対側で能勢がどんな顔をしているか。想像もしたくなかった。






 昼になった。午前のこともあってどう能勢に話しかけていいのかわからない。ここ数日の間に何かあったのか。




「あ、えっと、そのなんだ」




 それから以前にはなかった能勢の怪我に気付いた。左の手が袖口から甲にかけて包帯で覆われている。指にまで包帯は巻いてあるようだ。




「突き指でもしたのか」


「ええ」


「医者には行ったか」


「必要ありません」


「もう冷やしてなくていいのか」




 近藤は何の気なく能勢の左手に手を伸ばした。すると能勢は右の手で左手をかばい、ものすごい形相でこちらを睨んでくるではないか。




「なんだ、えっと、そんなに痛むのか。医者へ行ったほうがいいんじゃないか」




 心配して損をした気になった。それでも、自分より十以上年下相手にムキになっても仕方がない。何より「親切な人」である近藤が職場で大声を出すわけにはいかない。


 近藤は茶を一口だけ飲み、咳払いをした。


 能勢はしばらく近藤のほうを向いていた。が、近藤がこれ以上話しかけてはこないと判断したのか立ち上がった。




 弁当のようなものは持っていない。どこかで食べてくるつもりかもしれないが、昼休みもそう長くはない。なにより半年近く過ごす中で能勢が何かを食しているのを見たことはなかった。


 近藤は前もって用意していた空の缶ジュースを掴み、ゴミ捨ての体裁でさりげなく後を追った。以前から彼が昼に何をしているのか気になっていた。


 昼飯を抜いているのであれば無理にでも食わせた方がいい。身体が資本の仕事だ。それに、もし能勢が倒れでもしたら近藤が面倒を見ることになりかねない。




 更に、今日はとっつかまえて問いただしてやりたいことが山ほどあった。身体から酒の匂いをさせたまま出勤していいと思ったのか。その酒はいつ、どこで、どういう理由で飲んだものなのか。先刻の取調室での態度はどういうつもりか。


 が、いざ話しかけるとなると決心が付かない。あの凍てついた瞳がはっきりと頭に浮かぶ。つばを飲み込めば胃が痛んだ気さえした。




 自分で言えないのなら石倉班長なり係長なりに言えばいいのではないか。が、すると自分が密告者のようでありどうにも具合が悪い。能勢の立場もなくなるだろう。大切な、まだ刑事になって一年に満たない後輩の、たった一度の間違いではないか。今日まで大きな問題行動もなかった。自分が一言注意すれば、今回はそれでもいい。


 と、真横を馬場が通った。近藤は思わず眼で追った。ふと、自分がストッキングの足ばかり見つめていたことに気付き、少し反省する。やはり密告者のような真似はできない。そんなことをしたら馬場に合わせる顔がなくなる。




 が。そもそも変ではないか。何故、ここで馬場が出てくる。彼女は直接は関係ないはずではないか。もしや自分は馬場に何か特別な感情を持ち始めているのではないか。後輩が馬場に好意を寄せていると知っているのにも関わらずか。近藤は頭を掻きむしりたくなった。


 ふと顔を上げると、能勢は遥か前方でトイレに消えた。近藤は慌てて後を追う。それから、空き缶をにぎりしめトイレに駆け込む不自然に気付き強く手を握った。スチールの缶が少し凹んだ気がする。




 能勢の姿はなかった。かわりに一番奥の個室が閉まってる。近藤は足音を殺し、近付いた。聞き耳を立てている自分が馬鹿らしくなりかけたとき。嗚咽の声と共にびしゃびしゃという音を聞いた。


 思わず近藤は逃げ出した。自分の席について漸く自分を恥じた。能勢に何と言うべきか。酒をやめろ、医者へ行け、なにか悩みがあるなら聞く。どれも違う気がした。自分の行動が露見するのも怖い。何も個室を覗いて能勢を確認したわけでないと自分に言い聞かせるも叶わなかった。彼が昼食をとらないのも得心がいってしまった。


 隣でどすんと音がする。能勢が長い足を投げ出し、椅子に座っていた。




「先ほどの女についてですが」




 話しかけてくる。近藤は曖昧な笑みを浮かべた。能勢の顔をまっすぐには見られなかった。

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