ただ一つの意地
店に着いたとき、能勢はすでに到着していた。店の前で直立不動の姿勢をとっている。他の客たちが能勢を露骨に避けていた。ため息が出る。こういうときは先に店に入ればいいものを、あの馬鹿正直はそれができない。
能勢は愁士朗に気付くと、のそのそと近付いてきた。暖簾をくぐる。
「なあ、初めて俺が自分の名前言ったときのこと覚えてるか」
「ん。なんか愁怖かった」
「あんとき頭蹴ってごめんな」
「だっけ」
「なんだよ、覚えてねえじゃんか。笑うからお前、怖かったよ」
座敷席に通される。愁士朗が先に座った。
「俺よりチビがいるって思ったのににょきにょきデカくなりやがって」
「わざとじゃない」
「知ってる」
「愁いつも怪我手当てしてくれたからうれしかった」
「お前ぜったい詐欺とかひっかかるわ」
店員を呼びつけて日本酒とビールを頼む。能勢が「煮魚」と付け足した。ぼんやりと能勢の顔を見ていたら何故だか妙に腹が立ってきた。確か二人の夢が同じ警察官だと知ったとき能勢は「刑事ドラマがカッコイイから」と言っていた気がする。
愁士朗は能勢に気付かれないようにそっとため息を吐いた。頭の端では何かになりたい理由に重いも軽いもないことは解っている。
「愁は僕なんかより強い人。愁は、僕たちみたいに辛い目にあってる子供を助けたかったんだよね」
愁士朗は何かと間の悪い能勢を睨みつけた。
「助けたかった、てなんだよ。何で過去形なんだよ。俺はまだ諦めてなんか」
いないとは言えなかった。この後死ぬ予定とはもっと言えなかった。言ったらきっと能勢は止めようとする。すると決心が揺らぐ自分というのも理解している。が。今止めてしまったらいつ決心がつくのだろう。死んでも死ななくても、例えオスになれたって、この体調では望んだ未来など到底手に入らないというのに。卒業アルバムと称して同学年三百余名に女装写真をばらまかれた不名誉な過去だって消せはしない。「仕方がない」というのが正しいとは思いたくもなかった。
愁士朗は能勢の前に運ばれてきた煮魚を奪い取った。
「ごめん」
「うっせえ。ほんとは交番に拾った金届けたときカブトムシくれたのがうれしかっただけなんだよ。しかも一円玉だぜ。初めて俺が男だって気付いてくれた気がして」
「…………」
「んだよ。魚は返さねえからな。で、お前はどうすんの。来月帰るのか」
能勢は斜めに頷いた。
「どっちだよ」
「……帰る」
「大事なのはお前がどうしたいかじゃねえの」
「わかんない。僕は、どうしたらいい」
「俺が知るか。けど嫌だったんだろ暴力振るわれてさ。小さい頃とか女装させられてたんだろ。帰らなきゃだめってことはない。あんな馬鹿親」
「それは違う」
愁士朗は急に大きな声を出した能勢に驚き口を閉じた。励ましてやろうと思ったのにと腹が立った。一方で励ましてやらなくても能勢は自分の頭で考えることができる人間であるのは知っていたし、自分も感情に任せて大きな声を出していたかもしれない。
能勢の親も愁士朗の親も自分の感情を優先しがちな馬鹿親だ。少なくとも愁士朗はそう確信している。だからといって境遇が似ているというだけの理由で能勢の親まで馬鹿と言っていいと考えたとしたら、自分は親の傲慢となにが違うのだろう。愁士朗は謝ろうとした。が。
「ごめん」
先に能勢が戸惑ったような顔で言った。謝罪の機会を取られてしまった愁士朗は黙って次の言葉を待つしかなくなった。
「確かに僕はあの人たちを親だって思えないし思いたくない。でも。馬鹿なんて言ったらあの人たちが可哀想な気がして。あの人たちがしたことは親としては間違ってる。それでも多分おばさんも子供の頃は被害者だったんじゃないかな。よく自分の親のほうが怖かったって言うよ」
「……それでお前は許せるの」
「許せないから、許さないんだと思う。だけど姉さんの一件については僕も悪かったんだ。僕は姉さんにも女にもなれないし女装させられたら嫌だった。でも愛されたかったからって姉さんの分も頑張るって出来もしないこと言って気を引こうとした。あの人を増長させたのも、もしかしたら姉さんの代わりにするって選択肢を与えちゃったのも僕かもしれないんだ。多分姉さんにならないし弟みたいに女装が似合わないし、おばさんになつかないから可愛くないって暴力をふるったんだよ」
愁士朗は黙って煮魚を能勢の前に戻した。愁士朗はトランスゆえに自分は女じゃないと早いうちから姉になることを放棄できたのかもしれない。一方で能勢はトランスじゃなかったゆえに男に生まれた自分を責め続けた。おそらく、今も。
「お前、刑事向いてないかもな」
「ん。時々自分でもそう思う」
踏み切りに着いた頃には、すっかり酔いは醒めてしまっていた。九月にしては妙に温かく、珍しく空にはっきりと星が見えている。愁士朗には、それが憎かった。こんな人生なら最後まで三流映画のように雨で終わってくれれば良かったものを。
愁士朗はスマホを取り出した。つい今しがた別れたばかりの能勢に電話しようとしている自分に気付いてため息が出た。
今日死ぬことに意味がある。
今の愁士朗にとっては唯一つのささやかな復讐だった。
自分の生まれた意味を探し続けた。姉の代用品でない自分がいると信じた。トランスから初めて本当にオスになった男になると誓った日から道理なんて考えるのを止め、思いついたことには片っ端から手を出してきた。
それでも今日までメスに負け続けてきた。
それならもう、いい。もはや身体も保たない。ならばメスと心中してやる。たとえ世界の皆が死んだのは女と主張したとしても愁士朗は死をもって「自分は女に殺された」と主張し続ける。これこそが生まれた意味だ。能勢なんかに電話しても、仕方ない。だいたい、死の直前に電話を受けたとなれば能勢は酷い自責から抜けられなくなるに違いない。
目の前を電車が通り過ぎた。
終電までもう時間がない。愁士朗は震える足を引っ叩いた。
愁士朗が己の身体一つどうにもできない無力に打ちのめされている間にも能勢は遠くへ行ってしまう。目指したものは一緒だったのに。境遇だって似たり寄ったりだったのに。身体能力もオスとしての能力も頭の良さや見てくれも勝てなくて、今日は何か人として大事な部分までも負けていたと思い知った気がした。
また身体に夢を奪われる瞬間だって近付いてきている。
先刻と反対方向から列車の光が見えた。愁士朗は大きく息を吸うと目を瞑って走り出した。
憎かった。全てを奪ったメスも無責任に子を産み暴力を振るう馬鹿親も死んで逃げた姉も。憧れた職の、まだマイノリティや障がいのある者を受け入れない閉鎖した部分。なれない夢ばかり選んで、諦めてほかの道へすすむことさえもできない自分の性格が。どんどん自分より高みへ進んでゆく友人でさえ。
愁士朗は、慟哭した。
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