あの頃の二人
能勢と愁士朗が出会ったのは高校生のときだった。この頃愁士朗はトランスであることを隠していたし、当時は学校というシステムの下女装するしかなかった。愁士朗の名を誰かに教えていたことはなかった。呼んでもらえない名前に意味があるとは到底思えなかった。
せっかくつけた男の名も「トランス男性」や「キチガイ女」の名と認識されるだろう。どのみち愁士朗の名に足跡はなく、卒業証書に記載されることもない。いつか全てが済み男性として生きられたなら使う予定の名を、いたずらに晒したくはなかった。
何故、それを能勢に教える気になったのか。今になってはよく覚えていないのが可笑しかった。
初めて二人が会話したのはアウトドア部の部室だったかもしれない。それでも天気の話のような、強制的に居合わせた二人が気まずさを回避するために形式的に行う会話ごっこの意味合いが強かったと思う。当時の能勢は愁士朗より背が低く、長い前髪で目が見えなかった。夏でも長袖で、よく首や膝の後ろに怪我をしていた。どうやってこんな変な場所を怪我したのか気にはなったが、話しかけてロクでもない事情を掘り当てたくもない。だから同じ部活でも愁士朗は話しかけなかった。
それが、二人は文化祭のクラス展を作るにあたって同じ分担にされてしまったのだ。能勢が同じクラスに居るとは気付いてさえいなかった愁士朗が思わず表情を歪めたのは言うまでもない。
*
愁士朗の前をジャケットを脱いだ男子生徒たちが横切った。あのなかに自分とは逆で本当は女の子が居るかもしれないと思ったが、だからといって何かがある訳でもなかった。
「花岡さん、看板まだ」
「あ、ごめん。ちょっと待って」
愁士朗は絵の具のついた筆を掴んだまま、目の前の男のつむじを睨みつけた。確か同じ部活の能勢だ。床に座り「おばけ屋敷」の隣に白装束の女を描いている。
「だーから、なんで幽霊に足描くんだよ」
「亡霊には足あるよ。僕がそうだから」
「は」
これが、中二病をこじらせた奴の末路か。愁士朗は能勢から看板を奪い取り、幽霊の足を白い絵の具で塗りつぶした。ダンボール製の看板が少しくしゃっとした気がする。
「お前のせいだから」
能勢は何も言わずに愁士朗のほうを見た。長い前髪の間からのぞいた目はぞっとするほど黒かった。言葉に困って固まる愁士朗の隣を、運動部で他の者より早く準備から抜ける連中が丁度通りかかって言った。
「じゃあな。レズ岡。ちょっとカワイイからって調子乗んなよ貧乳」
愁士朗は女たちを睨みつけた。野郎にモテたって欠片も嬉しくない。
それにしても、いい気なものだ。クラスで浮いているものを一まとめにしようという安直な発想といい。途中離脱の件だって、あの女たちが部活に真面目に取り組んでいる姿なんて見たことがない。
翌朝、教室に入ると女たちが遠くから愁士朗を見てひそひそとやっていた。自分の席に向かうと、机の上に花が供えてある。盛り塩まであった。塩を床に落とすとマジックで書かれた文字が出てくる。
『花オカマき菜』
結局女扱いかよと腹が立った。ため息が漏れる。こんなつまらないことするために家から塩を持参する暇があるのなら、もっと別の楽しみを見つければ良いものを。
教室を見回す。目が合うと女たちは少し退き、なによと言った。
途中で能勢の机の上に汚いずぶ濡れの雑巾が置いてあるのにも気付いた。
「あれ、トイレに落としたやつでしょ」
「まじで」
「いや。プレゼント的な。ほら、あいつモテなさそじゃん。せめて女子トイレの水だけでも的な」
「ウケるー」
愁士朗はわざと聞こえるように舌打ちをした。自分をトランスたらしめている女性器も目の前の女たちも死んだ姉も不潔に思えて仕方なかった。やがて現れ雑巾を何も言わずに片付けだした能勢も、いじめに気付いて黙認どころか加担する教師もみんな歪で、自分なんかよりもよほど化け物のように思われた。もし今不審者が侵入して彼らを根絶やしにしたとしても涙の一滴も出ないだろう。なんなら自身が殺されたとしても一向に構わない。
放課後になって、今度はダンボールで墓石を作る作業に入った。
「ねえ」
能勢が話しかけてくる。愁士朗は露骨に嫌な顔をしてみた。自分に話しかけるメリットが能勢にあるとは思えなかった。
自分に関われば能勢もいじめられる。無視をしてやろうとした。が、よく考えたら能勢は既にいじめられている。
愁士朗は顔を少しだけ能勢のほうに向けた。
「どうして花岡君は黙ってるの。僕はね、怖いんだ。ずっと、ずっと。でもそろそろ限界で痛くて」
「お前なんかと一緒にすんなよ。だいたいあたしは女だ」
女と言った瞬間から不快だった。だが、トランスとばれればレズ扱いより酷い目にあう。学校でトイレに行けなくなるかもしれない。
「嘘だよ。女の子はスカートの下にトランクスなんか穿かない」
愁士朗は能勢の頭を蹴り飛ばした。能勢はもそもそと何か言い訳をしているようだったが無視した。スカートが盛り上がるから下にスパッツやズボンをはいてはいけないという謎の校則がこんなところで災いするとは。
床にどかっと胡坐をかく。正面からのぞき込んでやると、能勢は怯えた顔のままうっすらと笑っていた。
*
愁士朗は咳き込みながらもう一度身体を起こした。出会ったときから変わらず能勢は変なヤツだ。笑ったらわき腹が激しく痛んだ。そういえば頭を蹴り飛ばしたことについて、しっかり謝っていなかった。鼻水をかもうと思ったらティッシュはもうない。諦めてまた横になった。リュックを引きずって手元に寄せスマホを取り出す。
『もしもし』
「よお。今仕事か」
電話の向こうで能勢が動いた気配がある。
「頷いたって解んねえって」
『ごめん』
「で、仕事」
『ん』
「そっか。今夜飲まね。いつもの店」
『待って。愁、誕生日おめでとう』
「別にめでたかねえけど。ありがとな」
愁士朗は電話を切り、身体を起こすとテストステロンの錠剤と市販の鎮痛剤を飲み込んだ。
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