文披31題【滴る】

千石綾子

滴るものをなんとかしたい

 久々に僕は苛立っていた。

 手にはモップとバケツを持って、彼女の後ろをついて行く。


「四條! 僕は断固この住人の居住を拒否する!」


 すると四條は読んでいる本から顔を上げることもなく、ひと言で返した。


「却下」


 ここまでは想定内だ。このアパートは大家の四條の独裁制。そして四條は人間よりも「それ以外」のものに甘い傾向がある。

 だが、今回は「はいそうですか」とは言えない状況にある。


「四條、このアパートが湿気てもいいのか? どこもかしこもカビだらけになっても構わないのか?」


 僕はそう叫びながら彼女──濡れ女の後を追う。彼女はその名の通り全身がぐっしょりと濡れている。更に、下半身が蛇だ。一体どこから噴出しているのか分からないが、濡れ女の髪や着ているワンピースの裾からは常に水が滴っている。


 そうなると勿論床や畳が水浸しになる。僕がそれを追いかけてモップで拭きバケツに絞る。バスタオルを手渡しても、あっという間にバスタオルもぐっしょりと濡れる。バスタオルからも水が滴る始末だ。


「ああもう、なんとかしてくれ四條!」

「なんとかするのはお前の仕事だ近江」

 

 再び想定内の返事が返ってくる。僕は大きくため息をついて濡れ女を見た。

 濡れ女は話す事が出来ないらしい。恨めしそうに僕を見ると、しゅるしゅると音を立てて大人しく自分の部屋へと戻っていった。


 部屋と言ってもそこは台所の床下にある地下倉庫だ。床と四方をコンクリートで囲まれた、まるでプールのような、辛気臭い空間だ。

 電気もついていないため、中の様子をうかがい知ることはできない。しかし彼女が階段を降りると、ざばざばと水音がした。少なからず水が溜まってきているのは明らかだ。

 

 このまま放置していると、水かさはどんどん増えていく一方だ。そして最終的には僕の大事なこの台所が床上浸水してしまうではないか。

 既に僕の大切な乾物たちは湿気にあてられてしまい、今夜のおかずは刻み昆布と車麩と凍み豆腐の煮物というお彼岸のようなメニューに急遽変更になった。

 

 彼女に悪気がないのは分かっている。しかしこのアパートにやってくる人外の者たちは、大概こちらの世界を覗きに興味本位でやってくるのだ。そんな動機でこのアパート全体を湿気させる訳にはいかない。

 家のカビ取りがいかに大変なのか、彼女は知らないのだ。


「──ん? そうか。アパート全体……」


 僕はふと閃いた。濡れ女の部屋を覗き込み、優しく話しかける。


「なあ、四條が呼んでるぞ」


 濡れ女は穴倉からひょこっと顔を出した。割と可愛い顔立ちをしているな、などと思いながら、四條の部屋を指差して言った。


「今ちょうど書斎にいるから行ってみなよ」


 四條は彼らにとても人気がある。冷淡だが整った顔立ちのせいだろうか、凛としたその佇まいのためだろうか。重そうな蛇の下半身をうねうねと揺らして彼女はそそくさと四條の書斎に向かった。

 少し心配もあり、僕は彼女の後を追う。

 

 案の定、彼女はいつもの如く髪や服、その指先からも水を滴らせている。みるみる四條の書斎の床は濡れて、空気が湿気で重くなってきた。

 彼女はきょろきょろと書斎を見回し、僕の方を見ながら首をひねった。四條はどこだ、と言っているのだろう。


「申し訳ないけど、これしか方法がなかったんだ」


 僕は濡れ女に向けて手を合わせて謝罪した。そして──


「おい、四條! 書斎が大変だ!」


 大事な書斎の話だ。珍しく四條が駆けてくる足音が聞こえた。書斎のドアが開く。


「おい近江! 書斎には入れるなと言っただろう!」


 怒号と共にまばゆい光、そして雷の音がして、濡れ女の悲鳴が響く。四條は本が大好きだ。書斎や蔵書を溺愛している。その蔵書を湿気でダメにされかけた四條の怒りは激しい。

 気付けば濡れ女の姿はなかった。四條が放った落雷と共に「あちらの世界」に戻されてしまったのだろう。


 そして僕はと言えば、濡れ女を襲った電撃を浴びて書斎に倒れていた。床が濡れていたから感電したらしい。とんだとばっちりだ。痛みは一瞬で、意識はあるものの身体が動かない。


「文字通り雷が落ちた……」

「上手い事言ったと思うなよ。わざとここに連れてきたな」

「ばれたか」


 僕は書斎の床に寝転がったまま舌を出した。多少の被害は被ったが、あの厄介な濡れ女を「あちら」に戻すことができたのは上出来だ。


 四條は本棚からいくつか本を取り出してみて、ふやけたりしていないことを確認して安堵しているようだ。


「次やったらお前も「あちら」行きだからな」


 淡々と話す四條の言葉が冗談であることを願いながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。 


                

                   了






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