真っ白な五線譜の上で

宵町いつか

第1話

 センパイ、どうですか?

 やけに遠くから声が聞こえた気がした。

「ちょっとセンパイ? 聞いてました?」

 次はとても近くから。

「――え?」

 肩を小突かれたことで泉希みずきの意識は現実に引き戻された。

「やっぱり聞いてなかったじゃないですか。センパイが言ったんですよ? アンコンのレッスンしてあげるとか言ったのに……後輩はとても残念です」

 隣では上目遣いでこちらを見つめる小柄な後輩がいた。

「ごめんごめん。みどりちゃん」

 泉希は左手にトランペットを持ち替え、右手を胸の前まで持ってきて謝るポーズをとった。

「私はとても心が広いので許しますけど二回目は無いですからね?」

 そう言って碧は銀色のトランペットを構えた。

 ふっと息を吐き、楽器に息を吹き込む。

 吹き込むとほぼ同時にベルから音が転がった。



 全日本アンサンブルコンテスト。略してアンコン。

 夏に行われる全日本吹奏楽コンクールの大編成五十五人に対し、冬に行われるアンコンは三人から八人の人数制限がかけられているというのが大きな特徴だ。そのため個人の力量がより明確にわかってしまうというデメリットはある。音の大きさや音の形、表現までより細かいところまで気を使わければならない。

 人数制限以外は特に通常のコンクールと変わらず、地区大会、都道府県大会、支部大会、全国大会の順で進んでいく。

 泉希が入った南崎高校では毎年出場し、毎年地区大会でダメ金、次に大会に進むことはできなかった。

 しかし去年は違った。

 去年の南崎高校は初の都道府県大会に駒を進められたのだった。

 南崎高校は毎年三から六のアンサンブルチームが作られ、校内予選が行われる。

 校内予選では顧問の先生と外部の指導者、そして部員が審査員となる。

 校内予選はその時点での完成度が確認される。そしてその中から大会に出る程の実力が無いと判断されたチームは大会にエントリーされない、という仕組みになっている。とはいってもエントリーされないチームは年に一チーム出るかも怪しいくらいだ。

 去年のチームは金管八重奏、木管五重奏、混成八重奏だ。

 その金管八重奏のメンバーの中に一年生ながら泉希も入っていた。

 その時の担当はフリューゲルホルンという楽器。簡単に言うとトランペットの中低音版みたいなもの。

 いつもと楽器が変わったからと言っても特に変化はない。むしろトランペットのほうが吹きづらいと感じてしまうほどフリューゲルホルンは息が通りやすい。

 中学校の頃にも経験していたのでフリューゲルホルンに関しては上手い自信があった。

 先輩からも上手だねなんて褒められていて調子に乗っていた節があったのだろう。

 だから。

 泉希は本番でミスをした。

 都道府県大会。

 舞台裏にはコンクール前の独特な緊張が充満していた。

 舞台裏で聞こえる他校の演奏はなぜか上手に聞こえてしまう。変に意識してしまう。

 だから前の高校のフリューゲルホルンの音色が聞こえたとき自然と足が震えた。

 泉希はこんなにも上手く吹けるのだろうかと。

 そんなことを考えた瞬間、足元が真っ暗になった。頭の中が駄目な方で空っぽになった。

 手の中の楽器が一気に重くなったような気がして、肺に空気が入らなくなった。

 ほのかに気温が上がっている舞台の上で泉希のフリューゲルホルンはソロの部分になっても思ったように音を出さなくなった。

 それから泉希は距離を置くようになった。

 コンクールという大舞台から。



 目の前で楽器が下ろされた。

「どうでした?」

 碧は覗き込むようにして体を前屈みにした。

 泉希は一歩後ずさりながら頭のの中で言いたいことを整理する。

「えっとまず出だしのピッチが……」

 泉希の言葉を碧は真剣にうんうんと頷きながら聞いている。

 話し終わると碧は目を閉じた。

「やっぱりタンギングが強いんですかね?」

 そうつぶやき音を鳴らす。

 彼女の放つ基礎のしっかりとした少し優し目の音色があたりに満ちる。

 泉希は碧と同じように楽器を構え、肺を膨らませた。

 それは今年のアンコンの曲のワンフレーズ。

 それを聞いた碧も同じように吹きはじめる。

 泉希は碧とタイミングをあわせるために時々ベルを動かしながら二本のトランペットの音を交差させる。

「――ふぅー」

 吹き終わり、泉希は息を整える。

 その姿を見ながら碧が口を開いた。

「やっぱり先輩は出るべきですよ。アンコン」





 ひんやりとしたコピー用紙が目の前で踊る。

 手に持っていた譜面をファイルに挟み込み、落ちていく一枚のコピー用紙を拾った。

 いつでもいいからね、そう顧問から手渡された今年のアンコンの曲の譜面。

 それをコピーするわけでもなく顧問に返すわけもなくただ、持っているだけ。そんなあやふやな感情をずっと持っている。

 やりたいんだろうか。

「ちょっとファミレスでも寄ってかない? 泉希」

 いつの間にかやって来たトロンボーンパートの原篠雫が印刷室の扉にもたれれかかりながら言った

「うん……そうだね」

 泉希はファイルをバックに詰め、印刷室から出で雫の隣に並びゆっくりと歩き出す。

 校門を出て、人のいないバスに揺られる。

 ゆらゆらと体を揺らしていると雫が小さく笑った。

 バスが終着点である駅に着き、空気を出す。

 バスの中の暖かい空気と外の冷気が混ざる。

 そそくさと冷気の中を走り、ファミレスに入る。

 席につき、雫はドリアを泉希はポテトを頼んだ。

 ガヤガヤとした店内の中、コップに入れられた冷水を飲みながらおもむろに雫が話し始めた。

「アンコン、出ないの?」

 泉希は迷いなく答える。

「そだね」

 それに機嫌を悪くしたのか指でコップについた水滴を潰しながら言った。

「なんで? 中学の時とかめっちゃ出てたじゃん。一番楽器吹くのが楽しいみたいな顔して」

「昔は昔」

 また泉希が即答すると雫は少し悲しげな顔をして下を向く。

 静寂があたりを包み込み、それをかき消すようにして店員が貼り付けた笑顔でドリアとポテトを持ってきた。

 丁寧にチーズの平原を崩しながら雫は言う。

「まあもう強制は言わないからさ。ただ後悔だけはしないでほしいかな」

 私はポテトを一本口に放り込む。

 後悔しないなんて不可能なことを私は約束した。

「そうだねー。後悔しないよう頑張る」

 それから私達は部活のことは話さず、勉強のことや将来のことについて少し話した。

「進路どうしようかな」

 雫がポツリと漏らす。

「がんばった分だけ評価されるのは高校入試までだからね。大学入試とかはお勉強お勉強」

 泉希がそう言うと雫は少し寂しそうに笑い呟いた。

「頑張った先に何が待っているんだろうね」

 最後の一口を食べると雫は席を立った。

 泉希はそれに釣られるように立ち、会計をして出口に向かった。

 いつの間にか日は沈みかけていてきれいな橙色の世界を作っていた。




 いつものように音楽室の鍵を取りに職員室に向かうと顧問が泉希に「今日は一番じゃないですよ」と笑顔で言った。

 泉希は曖昧な返事をし、コーヒーの匂いが立ち込めた職員室の空気を吸って廊下に出た。

 家の近さも相まって泉希がいつもは一番だが、今日は一番の座を奪われたようだった。

 誰が一番なのだろうかと少しドキドキを持ちながら音楽室のドアに手をかけた。

「おはようございます。セ、ン、パ、イ」

 楽器にオイルを差しながら碧は座った状態でペコリと頭を下げた。

「早いね、碧ちゃん」

「もっと褒めてくれてもいいんですよ?」

「はいはい偉い偉い」

 泉希が腰に手を当てながら言う。すると頬を軽く膨らましながら碧は抗議をした。

「もっと後輩を大事にしてくださいよー」

 泉希はその声を笑ってかき消した。

 準備室からケースを持ってきて、楽器を取り出し碧の右側に座った。

 銀色の表面が反射している。泉希の情けない顔を。

「先輩」

 碧が凜とした声を出した。

 泉希は何も言わずに横目で小悪魔のような意地悪な性格の後輩を見る。

「アンコン、出てください」

 泉希はため息を付き、口を開いた。

「だから出ないって。私なんかが出たら負けるよ?」

 碧はしっかりとした眼差しを泉希に注ぐ。

「本格的に合わせるのは明々後日からです。まだ時間はあります。先輩なら……」

「私はそんなに上手くないよ?だから出ない」

 泉希が小さく欠伸をしながら言う。それをじっと碧は見つめ息を吸った。

「じゃあなんであの時、先輩は出なくてやらなくてもいいアンコンの曲を私と一緒に吹いてくれたんですか?本当は出たいからじゃないんですか?」

 少し苛立ったように1番ピストンを締める。

 碧は感情を押さえつけるように息を吐いた。

「質問を変えましょう。

 先輩はどうして楽器を吹いてるんですか?」

 泉希は少し考え、答えた。

「もうわかんないよ。そんなこと」

 そのつぶやきは地面に水滴に似た染みを作る。

「先輩、私はあなたの音が大好きです」

 碧が少し声を張る。

「だから私のために吹いてくださいよ。上手い下手関係なく。金賞とか銀賞とか考えずに」

「でも私は……」

 ――去年、負けたんだよ。こだわってこだわって、全部を捧げて。

「もう一度言います。私はあなたの音色が大大大大大好きです! だから出てください」

 泉希の制服を右手でつかみ、半ば叫ぶように碧が言う。

「そっか……」

 楽器を構え、音を鳴らす。

 それを見た碧はニコリと笑みをこぼした。


 



「次、金管八重奏。曲は水口縋作曲の……」

 白熱灯が視聴覚室を照らしている。

 泉希達8人は半円状に並び、楽器を構える。

 地面には細かいキズが所々ついていて、泉希はその傷を踏みしめる。

 前を向くと顧問の先生がじっと、真剣な眼差しでこっちを見ていた。

 次に発表するグループである碧も廊下で聞いてくれている。

 それだけで十分だった。

 リーダーであるトランペットパートの1stがベルを大きく上げる。

 それと同時に泉希達は息を吸う。

 出た音はどこまでも続くような真っ直ぐな音色だった。

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真っ白な五線譜の上で 宵町いつか @itsuka6012

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