般若のオーラ

 まずい。

 変なスイッチを押してしまった。



 後悔先に立たずというやつで、回想の世界に旅立った変態は止められない。



「天使の笑顔を振りまいてた時期も可愛くてよかったけど、やっぱり実は、このツンデレ感がいいんだよね。散々お預け食らった末のデレがぐっとくる。そしてデレた後に自分で恥ずかしがるところがもう~~―――」



「あああああもう!! だから、あんたにこんなこと言いたくなかったんだよ! ちくしょう!!」



 こんな奴に助けられたのかと思うと、情けないやら悔しいやら切ないやら。



「実がツンデレって……ツンはレイレンさん限定だよ。」



 ここ数日で耳にタコができるほど聞いてきたやり取りに、尚希が溜め息混じりにそう横槍を入れた。



「えっ、嘘!?」

「ほんとだって。ってか、レイレンさんの場合の実はツンじゃない。本気で嫌われても知らないぞ?」



 きっと尚希なりに、こちらを気遣ってくれての発言なのだろう。

 だが甘い。



 彼がその程度の言葉で引くわけがないのだ。



「そっか。キースたちの前では、実もまた違うのか……」



 そのまま考え込むように沈黙したレイレンは、ふと胸ポケットに手を伸ばす。

 そしてそこから取り出した携帯電話を、無言で尚希に手渡した。



「無言で渡すな! 何〝託したからね?〟みたいな雰囲気出してんだよ!! 撮らせないからな!?」



 即座に突っ込む実。

 彼が何を企んでいるかなんて、考えるまでもなく明らかだ。



「ええ~、だめ~?」



 案の定、レイレンは不服そうに唇を尖らせる。



「アホか!! つーか、今までのもこっそり撮ってたんじゃないだろうな!?」

「やだなぁ、写真撮ってる余裕なんてなかったよ。」



 レイレンは悪びれもなく、あっさりと告げる。



「今回は動画。」

「尚希さん。今すぐそれ、ぶっ壊してくれます?」



「あいよー」

「わあああ! だめええぇっ!!」



 すっと腕を振り上げた尚希から、レイレンが心底慌てた様子で携帯電話をひったくっていった。



「あっぶなー……何!? キース、実の味方なの!?」



「いや。この状況でどうしたら、レイレンさんの味方につくと思うわけ? ほどほどにしとかないと、オレじゃなくて拓也が、レイレンさんごとケータイをぶっ刺すんじゃないか?」



「あ…」



 尚希に言われ、レイレンと実がそれぞれ肩を震わせた。



 おそるおそる視線を移した先では、拓也が静かな怒りオーラをまとわせてレイレンを見据えている。



「尚希は優しいなぁ。」



 微かに口角を上げて微笑む拓也。

 だが、その目は全然笑っていない。



「おれだったらそんな忠告しないで、とりあえず刺してから色々と考えたのに。こいつ、どうせ言ったって分からないんだろ?」



 本気だ。

 拓也の背後に、般若はんにゃの姿が見える。



 というか、短い間にレイレンに対する態度が刺々しくなっているのは何故!?



「こ、怖っ。実、助けて!」

「自業自得のくせに、俺を盾にするな!」



 肩を掴んで背中に隠れてくるレイレンに、実はすかさずそう言い返す。



 当然それでレイレンが離れるはずもなく、むしろ肩を掴む手に力を込めた彼は、実の耳元にそっと口を寄せた。



「実ったら、こんな従順なワンコ、どこで拾ったの?」



「犬言うな! 拾ってないから! ってか、どうしてくれるんだよ! こうなった拓也になんて、俺でも勝てないんだけど!?」



 ひそひそとした話し声も、この距離ではなんの意味もない。



「………」



 とうとう拓也が無言になり、実は大いに焦る。



 まずい。

 拓也が無言になると、何が起こるか分からない。

 本気でレイレンの命の保証ができないかもしれない。



「拓也、とりあえず落ち着いて! 今〝フィルドーネ〟を殺したら、しわ寄せが全部尚希さんにいっちゃうから!」

「そんな……実、僕をかばって…?」

「違うわ! 黙ってろ!! 家を血の海に沈めてたまるか! もう帰れ!!」



 これ以上レイレンにしゃべらせたら、周囲が更地さらちになるのも時間の問題かもしれない。



 実が拓也をなだめようと、必死に頭を巡らせていると……



「ふふ、仲がいいわね。」



 神の助けかとも思えるタイミングで、別の声が入ってきた。



「か、母さん……」



 ほっとしたのもつかの間、その姿を見た実は、思わず息をつまらせてしまった。



「いつからここに…?」

「ずっと。最初からよ。」



 穏やかに微笑み、詩織はトレーに乗せていたマグカップを尚希とレイレンに渡した。

 拓也にもマグカップを渡した彼女は、最後に実の前に膝をつく。



「あの……」

「いいのよ。まずは、これでも飲んで落ち着きなさい。」



 渡されたマグカップの中には、温かな湯気をあげる紅茶が揺れている。



「ありがと……」



 うつむき、ゆっくりとマグカップに口をつける。



 火傷やけどをしないように注意深く飲み込んだ紅茶は、ほんの少し甘くて、疲弊した体と心を溶かしていくようだった。



 でも……



 実は目を伏せる。

 胸中は複雑だ。



 本当の意味で、彼女と向き合わなきゃならない。

 それが分かるから。



「やっぱり……そうなんだ……」



 胸を引き絞るような心地で、ずっと言わないでいた言葉を吐く。





「母さん……――― 人間じゃないよね?」





 意を決して顔を上げると、そこには何もかもを悟った詩織がいた。


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