顔を上げた彼は―――

 その一言が発せられた瞬間、周囲の全てが一切の音を失った。



「………―――っ!!」



 突然の沈黙で自分の失言に気付き、実は顔を青くして口を覆った。



「あ…」



 今のは言ってはいけない言葉だ。

 拓也と、拓也が耐えてきた苦しみの全てを否定する言葉。



 拓也は呆けたように、その場に立ち尽くしている。

 それを見た実は、泣きたくなる気持ちをぐっと抑えた。



 今の言葉には、さすがの拓也も傷ついただろう。

 こんな暴言を吐いてしまった自分に失望したに違いない。



 今度こそ、本当に見捨てられる。

 そう思った。



「……へぇ、それがお前の本音?」



 長い沈黙の末、ゆっくりとうつむいた拓也が静かに訊ねる。

 それに実が何も答えずにいると、拓也は拳を握り締めて顔を上げた。



 そして。





「上等。今のは、それなりに頭にきたぜ。」





 そう言って、何故か嬉しそうに笑ったのだ。



「!?」



 予想外の拓也の言葉と、その笑みに含まれた威圧感。

 実は思わず、その場から後ずさった。



 ――― だめだ。



 唐突に思い知る。

 今の拓也には、何を言っても引く気などさらさらないのだと。



「なるほどな。つまりお前は、自分が抱えてるものは、おれが抱えてたものとは比べ物にならないくらい重いって思ってるわけだ。」

「そ、そういう意味じゃ……」



「なんだよ。別にいいじゃん。それは事実だろ。」

「違う! 違うんだ!」



 どうしよう。

 拓也にこんなことを言わせるつもりなんて、少しもなかったのに。



 実は慌てて、拓也の言葉を否定する。

 そんな風に笑って、こちらの言葉なんて認めてほしくなかった。



 その人が抱えているものの重さなんて、他人が価値を決めていいものじゃないのだ。

 そうやってこちらの言葉を受け入れて、拓也自身が乗り越えたものと、その努力の価値を下げないでほしい。



 焦る実を前に、拓也は不思議そうな顔をして首を傾げた。



「何が違うんだ? おれは、お前の本音ならなんだって受け入れるよ。その覚悟を決めてここまで来たわけだし、そもそもここに来た目的は、お前の本音を聞くことだしな。」



「………っ」



 実は息を飲んで硬直する。



 考えなくては。

 拓也を言い負かすには、何をどう言い繕えばいい?

 自分の独壇場に引きずり込んで皆を黙らせるのは、得意だったじゃないか。



 なのにどうして――― 拓也に言うべき言葉の一つも出てこないの…?



「何も言えないってことは、やっぱさっきのは、お前の本音なんだな。」

「ちが……」

「じゃあ別に、それでいいよ。おれが勝手にそう思うことにするから。」



 拓也は実の否定を一蹴する。



「実際問題、お前が抱えてるもんが、おれが抱えてるもんよりも重いとしてさ。お前はそれを預けるには、おれが力不足だと思ってるわけか?」



「そんなこと……」



「それとも、おれに背負わせるには、あまりにも重すぎるって思ってるのか? 抱えてるもんを預けるのが、おれを不幸にするとか、そんなことを考えてるわけ?」



「………」



「……あっそ。よく分かった。」



 実の反応をじっと見つめていた拓也は、ふとそう言って息をついた。



「よーく分かったよ。お前がおれのことを、どれだけ馬鹿にしてるかってことが。」

「!?」



 実は、微かに喉を痙攣けいれんさせることしかできなかった。



 頭の中に浮かぶのは、〝違う〟の三文字。



 言いたいのに言えない。

 胸にくすぶるなんとも形容しがたいもやがせり上がってきて、声を出すことができないのだ。



 口を開いてしまったら、言いたいこととは別のことを言ってしまいそうで……



「この際はっきり言うぞ。お前のその筋違いな優しさが、おれは大っ嫌いだ。」



 胸の内で必死に衝動を押し殺す実に、拓也はそう言い放つ。



「馬鹿にするのも大概にしろ。勝手におれの限界を見限ってんじゃねぇよ! この二年以上、必死にお前に食らいついてきたおれのしぶとさを甘く見るな! 確かにお前が抱えてるもんは、尋常じゃないくらい重いだろうよ。他人より少し力が強い程度のおれに、どこまでお前の重荷を預かってやれるかなんて分からないさ。でもな!」



 瞳にこれまで以上の激情を込める拓也。

 拓也はつかつかと実に近寄り、完全に動けないでいた実の胸ぐらを掴むと、実をぐっと自分の方に引き寄せた。



「お前に、おれの道は決めさせない。背負うのか背負わないのかは、おれが自分で決める!! 前にも言ったよな。おれは自分の意志でここにいるんであって、お前の運命に巻き込まれたわけじゃないって。」



「―――っ!!」



 ぷつり、と。

 胸の奥で、何かの糸が切れたような気がした。



「なん……で……」



 震える唇から、勝手に言葉が零れる。



 意味が分からない。

 どうして拓也は、こんなにも……



「なんでって、今さらそんなくだらないこと訊くなよ。」



 拓也は呆れたように溜め息をついた。



「大事だから、じゃだめなのか? 友達のことを支えたいって思って何が悪い。おれがただ、そうしたいだけだよ。」



 大事だから?

 拓也の言葉が、脳裏に何度も響く。



『それなのにお前は、多くの人間に手を差し伸べてきた。それは何故だ? お前がそうしたかったからだろう? それだけのことができるほど、周りの者たちが大事だからだろう!?』



 拓也は、ノルンと同じようなことを言う。



『でも、そんな実が私は大好きよ。きっと、私だけじゃない。今実を助けようと頑張っている人たちみんなが、実のことを大切に思ってるの。優しい実も、不器用な実も……どんな実でも、すっごく大事なんだよ。』



 拓也は、ああ言った桜理と同じような目をしてこちらを見る。



 拓也も自分と同じ?

 相手が大切で、その想いだけで、どんな無茶でもできてしまうもの?



「………」



 押し込めていたはずの切ない気持ちが、あふれてくる。



 本当に、いいのだろうか。

 この厳しくも優しい友人の手にすがっても。





 ―――――― 自分のことも、信じられないくせに?





「―――っ!?」



 体が強張った。

 脳裏で映像が弾ける。



「あ……」



 心臓がばくばくと、激しく脈動する。



 自分が本当に怖かったのはなんだった?



 どんなに拒絶しても、拓也たちが自分から離れてくれないこと?

 そんな拓也たちを、傷つけてしまうかもしれないこと?

 それとも、拓也たちに裏切られるかもしれない未来?



 違う。

 そんな次元のことじゃない。



 本当に怖いのは、自分の心。



 嫌だ。

 こんな未来は嫌だ。



 そう思うのに、このままではこの未来が現実になってしまうような気がしてならない。



 だって……

 だって―――



「あ……ああ……」



 全身が、ざわざわと総毛立つ。



 桜理も、拓也や尚希もみんな大事だ。

 失いたくない。

 それは、確かな想いのはずなのに。



 ドクン、ドクン……



 心臓の音がうるさい。

 自分で自分を抑えられなくなりそうだ。



 ドクン、ドクン、ドクン……



 違う。

 違う、違う。

 本気でそんなことを望みたくない。





 ―――――――― 全部全部、消えてなくなってしまえばいい、なんて……




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