あんなに大事な人なのに……

「何、拓也君?」



 レイレンがくるりと、声がした方向を振り返る。

 その視線の先で仁王立ちになっていた拓也は、実をちらりと一瞥いちべつして口を開いた。



「性格悪いな。今の実にそんなことを訊いたら、なんて答えるか明らかじゃんかよ。」

「!!」



 拓也の言葉に、実は大袈裟なほど大きく肩を震わせた。



 自分が逃げようとしていること。

 いっそ、楽になってしまいたいと思っていること。



 拓也には、それが分かっているのだ。



「選ばせる前に、おれの用事を済まさせてくれないか? 預かった物をどうするか決めなきゃいけないし。一応あれも、エリオス様のお願いには入るだろ?」



「ああ、そっか。うーん……」



 拓也の指摘を受けたレイレンの表情に、命が戻った。



「オッケー。でも、制限時間は僕があの子を眠らせておける限界までだよ。」

「了解。」



 拓也が頷くと、レイレンはあっさりと実の前から身を引いた。



「拓也……」



 拓也と対峙し、実は小さくその名を呼ぶ。



 拓也の瞳に宿るのは、波が立たない湖面のように、どこまでも静謐せいひつな光。

 自分が一番苦手な目だ。



「実。一つ、訊きたいことがある。」



 拓也の視線が痛い。



 嫌だと言って耳を塞げたら、どんなに楽だろう。

 だが現実がそう甘くあるはずもなく、拓也は少しの間を置いて、また口を開いた。



「お前、ノルンの奴に何を言われた?」

「―――っ!!」



 拓也の問いかけは、鈍器のように重たい衝撃となって実を襲った。



「な、なんで……」



 声が上ずる。

 動揺を押し込めることもできず、かといって拓也から視線を逸らすこともできず、実は体を震わせることしかできなかった。



「あの日から、お前の様子が明らかにおかしくなった。まさか、気付いてないとでも思ってたのか?」

「―――っ! や、やだ……」



 実はわずかに首を振った。



「やだ。言いたくない……言えない……」



 胸がざわめく。

 いきなり核心に触れられて、感情が全力で拒絶を始める。



「そうか……」



 拓也は軽く息を吐く。

 いつもなら自分が本気で嫌がることからは身を引いてくれる拓也だったが、この時ばかりは、それを聞き入れてくれる素振りはなかった。



 拓也は険しい目をして、こちらを睨んでくる。



「お前の意思は聞いてない。いいから、全部ここでぶちまけろ。」

「………っ」



 有無を言わさない圧力に、実は思わず身をすくませて怯んでしまう。



「いい加減、受け入れてもいい頃だろ。」



 無理に聞き出そうとするのにも、ちゃんとした理由があるのだと。

 拓也の双眸が、痛いほどにそれを語る。



「もう、何もかも一人で抱え込むには限界がきてるんだろ? いつも立ってる理由にしてた桜理のことだって考えられないくらい、今は自分がしんどくてたまらないんだろうが。」



「―――っ!?」



 桜理の名前を出されて、一気に全身が冷えた気分だった。



 そうだ。

 自分は生きなくちゃいけない。

 桜理の命を繋ぐために、どうしても立ってなければならなかったはず。



 それなのに……思い出せない。



 いつから桜理に会っていない?

 いつから彼女のことを考えていなかった?



 あんなに、大事な人なのに……



「ほら見ろ。忘れてただろ。」



 拓也の指摘は鋭利な刃物となって、自分の心に突き刺さった。



 自分はここで、何をしているのだろう。

 一刻も早く戻って、桜理に会いにいかなければ。

 彼女に会って、自分は大丈夫だからと安心させてやらなければ。



 大事な人のことを思い出した理性が、必死にそう訴えてくる。

 それでも、体が動かない。



 帰ると一言告げればいいだけなのに、何かが喉につまっていて、その選択を口にすることを許さないのだ。



「思い出させても、お前はまだ、帰るかどうか悩むんだな。」



 静かに言葉を重ねる拓也。



「分かるか? それがお前の限界なんだよ。桜理のことすら、今のお前の心には入らないんだ。それくらいお前の心は、おれたちに言いたくないことでパンパンなんだろう?」



「………や、だ……」



「受け入れろよ。もう無理なんだって。お前はもう、それ以上溜め込めないんだ。」



 拓也の言葉は止まらない。



「だけどな、別におれは、それ自体が弱いことだとは思ってない。お前の弱いところは、そうやって自分の限界に来ても、おれらからも自分からも目を逸らそうとするところだ。」



「もうやめて……」

「ちゃんと聞け。」



 拓也は頑として引かない。



「お前は極端だ。おれや尚希を助けた時は、もう打つ手なんてないって状況になっても、無理にでも立ち直れる未来を持ってきたじゃんか。なんで、自分の時はそうしない。とことん自分を無視して、それでそうやって諦めて、本当にそれでいいのかよ。なんで自分のためには、自分の命を懸けられないんだよ。自分を守れなきゃ、他人も守れないんだ。お前がそうやって自分をないがしろにしてることが、結局一番みんなを追い込んで傷つけてんだぞ? それを分かってんのか?」



「………っ」



「諦めるなら、その前に全部ぶちまけていけ。一回自分の中を空っぽにして、それからこの先のことを考えてみろ。それで諦めるなら、納得してやる。」



「そんなこと……」



「まだ意地張るか? 別にいいけどさ、それでお前は桜理のことを殺すのか?」



「―――っ!?」



「実際、お前が選ぼうとしてるのはそういう未来だろ。本当にそれでいいんだな? 桜理はお前にとって、所詮それだけの―――」



「言うな!!」



 その瞬間、実は頭を抱えて叫んでいた。



「いくらなんでも……その責め方はずるいよ……」



 嫌だ。

 これ以上、聞きたくない。



 その一心で、実は泣きそうな声で訴えた。



 拓也の言葉は正しい。

 確かに自分は、楽になりたいからと桜理を道連れにしようとしている。



 突きつけられた現実はあまりにもつらくて、それを受け止めるには、今の自分はあまりにも弱すぎた。

 息が苦しくて、頭が痛くて、どうにかなってしまいそうだ。



「……そうだな。おれも、卑怯だってことは十分理解してるさ。でも……仕方ないだろ。いくら考えても、分かんないんだからさ…っ」



 ずっと冷静を保っていた拓也の表情が、ここで崩れた。


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