恐れていた光景

「!!」



 目を開いてすぐに感じたのは、右半身が動かない違和感と、全身の痛みだった。



「実、大丈夫?」



 頭上から降ってくる、聞き覚えのある声。

 それで、自分の目の前に誰かが立っていることに気付く。



 顔を上げた実は、大きく息を飲んだ。



「レイレン……それ……」



 心臓が止まるかと思った。



 こちらを見て、安堵したように表情をやわらげるレイレン。



 彼のこめかみから、血が流れている。

 慌ててレイレンの全身を見れば、彼はこめかみ以外にも、至る所に傷を負っていた。



 レイレンの他にも人の気配を感じたので、実は彼の向こうに視線を向ける。



 そこには、拓也と尚希の姿が。

 彼らもレイレンと同様に傷を負っていて、服の所々に血が滲んでいる。



 そしてそれはレイレンたちに限ったことではなく、自分も同じことだった。



「え……なに、これ……」



 実は自分の手を見下ろす。



 怪我をしているレイレンたち。

 血にまみれた自分の手。



「嘘だ……」



 心臓が、途端に暴れ出す。



 何故皆がここにいるのだろう。

 どうして皆が、あんなにも怪我をしているのだ。



 まさか―――



「これ……俺がやったの…?」



 情けないほどに声が震える。



 そんな。

 これだけはけたかったのに。



 脳裏が真っ赤に染まる。

 いつも自分を急かしていた映像が鮮明にひらめいて、深い絶望を運んでくる。



 最悪だ。

 ずっとこうなるのが怖くて、だから一生懸命、自分の心を抑え込めてきたのに。



 こんなことになってしまったら、自分は―――



「実、落ち着いて。」



 肩に手を置かれ、実はハッと我に返る。



「大丈夫。これは、実がやったんじゃない。」

「……ほんと、に?」



 小さく訊ねる実。

 恐怖にくじけそうな心が、レイレンの言葉に必死にしがみつこうとする。



 レイレンは、深く頷いてくれた。



「本当だよ。だから心を落ち着けて、僕の言うことをよく聞いて。」



 ぐっと。

 肩に置かれた手に、力を込められる。



「今の自分がどんなことになってるのか、実なら分かるよね? この世界は実のものであって、決してあの子のものではないんだ。それを思い出して。帰るよ、実。」



「………」



 レイレンの言葉にすぐ頷くことができず、実は眉を下げた。



 彼が言いたいことの意味は分かる。



 自分は一度、完全に彼女に自分の心を明け渡した。

 ずっと一緒にいてほしいという彼女の願いに、自分から応えてしまったのだ。



 本当ならもう後戻りなんてできないし、このまま彼女に支配され尽くすのを待つしかなかっただろう。



 でも、今ならまだ戻れる。

 〝フィルドーネ〟であるレイレンが助けに来てくれて、自分が意識を保てている今なら。



 戻らなければならない。

 理性はそう判断しているのに。



「………っ」



 唇が震えて、声が出ない。



 もしかして、自分が皆を傷つけてしまったのだろうか。

 さっき感じた恐怖が喉に絡んで、気道を圧迫していた。



 今回は誤解だったが、現実に戻った後に同じことが起こってしまったらどうする?



 またこの恐怖を味わうことになるのか?

 誤解だった今でさえ、こんなにも怖かったのに?



 今は思い過ごしでも、今度はそれで済む可能性なんてないのに。



「………」



 レイレンはこちらの答えを待っているのか、何も言わずにこちらを見下ろすだけ。



 沈黙がじわじわと精神を追い詰めてくる。

 これ以上レイレンの顔を見ていられなくて、思わず視線を下げた。

 その時。





「……じゃあ、選ばせてあげる。」





 どこかうつろな声が、耳朶じだを打った。



「実が望むなら、今すぐ楽にしてあげるよ?」



 レイレンは、にっこりと笑う。



「どうしても立てないっていうなら、あの子に飲まれるんじゃなくて、自分からそう望んでよ。そうすれば僕はエリオスに言われたとおり、今ここで実を殺してあげるから。」



 ……ああ、やっぱり彼は異常者だ。



 レイレンの表情を見て理解する。



 彼は父に関すること以外については、自分の感情など一切伴わせないのだ。



 きっと今の自分の状況は、父がレイレンに頼んだことの範囲外の領域にあるのだろう。

 故に今、彼はこんなにも空っぽな顔をする。



 好意も悪意もない、鏡のように無機質な瞳が自分を映す。



「さあ、選んで。僕たちと一緒に帰るか、ここで壊れて僕に殺されるか。」



 レイレンが告げた二択。

 きっとそれが、父の言葉からレイレンが選べる行動なのだ。

 自分がどちらかの道を選択すれば、その刹那にレイレンの表情と感情は命を得る。



 盲目的と表現するには、あまりにも異常な姿だ。



「………っ」



 実はごくりと唾を飲み込んだ。



 彼は自分のためを思って、選択を迫っているわけではない。

 だからこそ彼が提示した選択肢は甘く、本当に甘く響いて……



「ちょっと待った。」



 実がほとんど無意識に息を大きく吸った瞬間、別の声がそれを遮った。


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