第3章 ウチガワ

非常事態

 拓也の体が、ゆっくりと前に傾ぐ。

 その瞬間。



「キース! 実と拓也君を、しっかり支えててよ!」

「へ!?」



 レイレンが叫んだ。



 事態を飲み込めない尚希は、素っ頓狂な声をあげる。

 レイレンはそんなことには気も留めずに、床から手を離した。



 すぐにその場から床を蹴り、顔を青くして立ちすくんでいる詩織を、なんの断りもなく抱き上げる。

 そして、また流れるような動きで尚希の傍に駆け寄り、詩織を下ろすや否や、腕をひらめかせて最小限の大きさの結界を張る。



 それに遅れること数秒。

 フローリングの割れ目から勢いよく伸びた木の根と枝が、レイレンたちに襲いかかった。



 驚くような密量で迫った木々はレイレンの結界に弾かれるが、すぐにその動きを変えて結界を飲み込む。



 あっという間に、視界は木の色だけに染まってしまった。



「つっ…」



 レイレンが苦しげにうめいた。



「だ、大丈夫か!?」

「なんとか、ね…。実と拓也君両方の魔力を取り込まれたから、正直いつまで持つか分からないけど。」



 レイレンが言う間にも、木々は結界を壊そうとするようにうごめく。



 みしみしと、結界がきしむ音。

 レイレンが唇を噛んだ。



「―――っ! このままじゃ……みんな仲良く、あの子の餌だね。どうしたもんか。」

「レイレン君。」



 そこで口を開いたのは詩織だ。



「代わるわ。」



 詩織の申し出に、レイレンは戸惑いを見せる。



「でも……」



「大丈夫。この状況なら、さすがにエリオスも何も言わないわ。それにどうせ、この後実たちを連れ戻しに行くんでしょう? それと同時に結界の維持なんて無理だわ。私なら大丈夫だから。」



 レイレンの瞳を真正面から見つめ、詩織は力強く頷いた。



「……分かりました。」



 レイレンは致し方ないというように頷く。

 そして。



「お願いします、詩織さん。」



 囁くように告げた。

 それを聞いた詩織は優しく微笑み、祈るように両手を組んで、そこに唇をつける。



 すると、彼女の体からとんでもない量の魔力が噴き出し、レイレンの結界を包み込んだ。



「もういいわ。」



 詩織の言葉に頷き、レイレンが全身から力を抜く。

 それでレイレンの結界は解かれたが、代わりに張られた詩織の結界は、レイレンのものとは比べ物にならないほど強固だった。



 外側の木がどんなに締めつけてきても、結界はびくともしない。

 これだけ結界に攻撃を加えられているのに、詩織の顔に苦しそうな色は微塵もなかった。



「あなたは……」



 尚希は茫然と詩織を見つめた。



 実の母親として地球にいる彼女は、ただ者ではない。

 桜理の件で実が倒れた時に彼女には会ったことがあるので、自分もそれは感じてはいた。



 しかし、まさかここまでの力を隠し持っていた人だったとは。

 この力は、実以上だ。



「キース。」



 懐疑的な視線を詩織に向ける尚希に、レイレンがその先の詮索を遮るように、その名を呼んだ。



「今は、説明してる時間はないよ。」



 尚希に支えられて目を閉じる実と拓也を見下ろすレイレン。



「このままじゃ、二人とも精神と魔力を食い尽くされて、完全にあの子と一つになっちゃう。そしたら、いくら詩織さんでも僕らを守りきることができない。僕たちも一緒に心中コースだ。」



「もしそうなったら……」



「見てのとおりだよ。多分、骨も肉も残らない。文字通り、大地の一部になるだけさ。」



 それを聞いた瞬間、背筋を這い上がった寒気。

 尚希はそれに、肩を痙攣けいれんさせた。



 もちもん、自分が死ぬかもしれないという恐怖は多少なりある。

 でもそれ以前に、地の精霊が持つ束縛力の強さを目の当たりにして、無条件に体がすくんでしまったのだ。



 これをレイレンは人知れず、たった一人で、誰にも被害が出ないように食い止めてきたというのか。



 重すぎる。

 人一人が背負うには、あまりにも。



 たとえ任期が短いとしても、その短い間に狂ってしまう〝フィルドーネ〟は、過去にたくさんいただろう。



「とにかく、どうにかして実たちを引き戻さないとね。」



 レイレンは実の傍に近寄り、険しく眉を寄せた。



「さっきもそんな話してたけど、何か方法があるのか?」



 訊ねると、レイレンは険しい表情のまま、微かに頭を縦に振った。



「実を連れ去ったのは、地の精霊だからね。それなら、〝フィルドーネ〟の力で無理やり道を開ける。……結構、危険な綱渡りの連続だけど。」



 レイレンは固唾かたずを飲み込み、躊躇ためらいがちな仕草で実の手を両手で握った。



 瞬く間にレイレンの手を伝って、実の体にあざが広がっていく。

 それを見て、尚希は声をあげずにはいられなかった。



「レイレンさん! それはやばいって言ってなかった!?」

「そう。これが最初の綱渡りであり、ある意味最後の関門にもなるかな。」



 尚希の言葉を肯定するレイレン。



「今あの精霊はね、実の心の中に隠れてる状態なんだ。そこに行くためには、実に〝フィルドーネ〟の力を流し込むしかない。事が済んだ後に、実から完全に大地の呪いを取り去れるかどうかは……正直、時の運だね。僕も一応、頑張りはするけどさ。」



 そこまで言い、レイレンは不安げな表情をする尚希に笑いかけた。



「大丈夫だよ。僕だって自分の命がかかってるし、ちゃんと実を連れて帰ってくるから。……君は、もしかしたら巻き込まれるかもしれないから、ちょっと詩織さんのところに行っててもらってもいいかな?」



 拓也の首筋にしがみついて涙目になっていた精霊に、レイレンは優しく語りかける。

 拓也のことが気になるのか、彼女は始め首を横に振ったが、レイレンに「大丈夫だから。」と諭され、しゅんとうなだれながらもそこを離れた。



 精霊が詩織の元に辿り着いたことを確認し、レイレンは目を閉じる。



「さて、と。大地の呪いを伝って実の中に行こうとする精霊に紛れて、僕も自分の精神を送り込む。詩織さん、僕らが戻るまでここはお願いしますね。」



「大丈夫よ。安心していってらっしゃい。」



 慈しむように精霊の頭をなでていた詩織は、穏やかな表情で彼を送り出す。



「レイレンさん、待って。」



 魔法に集中しようとしたレイレンを、ふと尚希が呼び止めた。


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