渚から

小此木センウ

渚から(1話完結)

 私の村は大潮を嫌う。特に満月と重なる日は、海がせり上がって陸との境目を乗り越え、それで境界が曖昧になって良くないものが入ってくるのだという。


 私は信じているわけではないけれど、それでも両親が戸を閉てて外に出られなくしてしまうから、仕方なく一緒に家にこもる。窓から抜け出すのは簡単だが、なんだか裏切るようで嫌な感じだし、外に出たからといって友達も皆閉じこもっているからやることもないし、わざわざタブーを侵す必要を感じなかった。


 そういうわけで、私は満月の大潮に出歩いたためしがなかった。昨日までは。


 昨日までと断ったのは、もちろん今日、私は初めて禁忌を破ったのだ。なぜかといえば噂があった。私は確かめたくなった。

 噂の中身はたわいもない。満月の、大潮の晩、海辺に人魚が現れるというのだ。

 本当に、笑ってしまう。魚は魚、人は人だ。それぞれ分を守って暮らしている。そんな珍妙な生物がいるはずがない。

 いるはずない、と頭でわかっているのに、ついその噂に引っかかった。私は十七だ。不安もないが希望もない、のんべんだらりと続くこの薄暗い生活が耐えられなくなってきたのかもしれない。それで今、渚にいる。


 乾いた白い砂は肌にまとわりついてうっとうしいから、私は波打ち際の水に触れる場所をちゃぷちゃぷ音を立てて進み、かつて護岸か何かだったとおぼしき黒ずんだコンクリート塊の端に腰を下ろした。それで周りを見て感嘆の息をついた。

 満月の照らす海原は、まるで白く輝く砂丘でも見ているような錯覚を起こさせる。反対に、鬱蒼と暗いオヒルギの森に覆われた陸地は光の届かない深海である。二つ一緒に眺めれば、私自身が海と陸両方を手のひらに乗せているみたいで気分が良い。

 気持ちいいと言えば腰かけているコンクリートも、昼の暖かさがまだ残っていて、背中がじんわりと暖かい。普段あまり接することのない、けれど昔から知っているような心持ちで、頭がぼうっとなって少しうとうとした。


 だからそれがいつ来たのかはわからない。


 気がつくと月はすっかり天頂に昇っていた。潮は満ちて、海水は押すでも引くでもなくたゆたっている。その中で一つ、ぼちゃんと水音が立った。

 私ははっとした。村の者は来ないはずだ。ならば今のは何か――と思った時、再び、今度はもっと近くで、もっとはっきりと音がした。

 波打ち際に何かが立ち上がった。背後から月が照らしているせいでシルエットしかわからないが、人だろうか。コンクリートの陰に入っている私には気づいていない。

 その何かは、人にしてはえらく不器用に二つの足を動かしながら、砂浜に向かって歩いてくる。私は息を殺して様子をうかがう。


 波が引いて足元が露わになった。


 私は目を疑った。二本の足先にそれぞれ、ひれがついていたのだ。

 人魚だ。私は思わず叫びそうになり、慌てて押しとどめて口だけぱくぱくさせ、でもよく考えると隠れている理由もないのでままよと声をかけた。

「ねえ、あなた何してるの」

 危険な輩だったらこのまま海に飛びこんで逃げればいい。向こうには足ひれがあるけれど泳ぎなら負けない。

 相手はぎくりと足を止め、こちらに向き直った。金色の月光で見えなかった表情が明らかになる。

 私と同じくらいの歳の、黒髪の少年だった。

「ここで何をしてるの」

 さっきと同じことを聞きながら、私もコンクリートの陰から進み出て砂浜に座った。


 少年は最初警戒しているようだったが、私が一人でいることを確かめると表情を緩めた。

「こんばんは。僕は海の様子を見に来たんだ。こんな日じゃないと、君のお仲間がいて近寄れないからね」

 そこまで喋ると、私の顔をのぞき込む。

「君はどうしてここにいるの。君たちは、大潮の時は来ないって聞いたけど」

「あ、そ、それは……なんとなくたまにはいいかなって」

 人魚を探しに来たなんてちょっと言えない、と思ったところで、一番の疑問に気がついた。

「あなた、人魚なの」

「えっ」

 相手は驚いた風だ。

「だってその足」

 私は足元の黒いひれを指差した。

「ああ、これか」

 少年はちょっと笑って、

「これは単なるゴム」

 足元に手をやると、あっさりひれを取ってしまった。つまり、人だ。

「でも僕らから見れば、君たちこそ人魚だよ」

 そう言いながら、少年は私の尾びれを見つめた。

「失礼ね。私は魚よ」

「上半身は僕らと変わらないのに」

「魚ってそういうものでしょ」

 なんだか話が通じてない。

 海に住む魚と陸に住む人。二つの種族は相互に関わらずに生きてきた。だからお互いの考え方も通じづらくなっているのかもしれない。なんで知らないふりをし合うんだろう。


「こうやって話すことができるのに、あえて避け合うなんておかしいと思わない」

 黙って考えていると、少年はその思考を見透かしたかのように聞いてきた。

「そう……かな。でも、うん、そうかも」

 私は閉鎖的な自分の村のことを考えながら答えた。

 少年は優しそうな顔つきをしているが、その眼差しにはしっかりした芯があり、私はそういうのは好きだ。それでなのか、つい軽口が出た。

「だけど、私とあなたの子供ができたら本当の人魚になるかもね」

 少年は答えず、その代わり月の光でもわかるくらいに真っ赤になった。

「ちょっと、本気にしないでよ。大体子供なんてできるわけないでしょ。別の生き物なんだから」

 それを見たらなぜか私のほうが慌ててしまい、急いで言いつくろった。ところが、

「それは違うよ。僕たちは、もともとは一つなんだ」

 冷静さを取り戻した声で、少年が言う。


「ずっと昔、地上の大半が焼け野原になるほどの災厄があった。たくさんの人が死んだ上に、少数の生き残りを全て養う余裕すら、その時の大地にはなかった」

 初めて聞く話だ。ずっと昔ってどれくらいだろう。そんな過去のことは忘れてしまったと言わんばかりの、こんもりと生い茂ったオヒルギの森を私は見る。

「そこで、君たちのご先祖は、自らの身体を改造して、地上を捨て海で暮らす道を選んだ」

 簡単には信じがたい話だが、けれども少年の言葉には不思議に真実味があった。それに、そういえば誰からも、私たちの種族がどうして生まれたのか教わった覚えがない。

「地上に留まった僕らの先祖と海を選んだ君たちの先祖。最初から意見が違ったせいなのか、助け合うということをせず、関わり合いにならずに生きてきた」

 少年はまっすぐに私を見つめて、今度は私のほうが赤くなってしまった。

「だけど、手を取り合ったっていいんじゃないかと思う。僕と一緒に行かないか」

 その言葉と一緒に、少年は本当に手を差し出してきた。無意識にこっちの手も出そうになったのを私はすんでで止めた。

「む、無理よ。だって私は水の中にしか住めないし、あなたは陸でしか――」

 少年は首を振った。

「海と陸の交わる、この渚があるよ。二人で進んでいったら、もしかすると二つの種族が共存している場所があるかもしれない。なかったら、波打ち際に家を建てて二人で暮らせばいいよ」

 私はぷっと吹き出してしまった。思慮深そうな顔をしておいて、なんて無茶で無鉄砲で無計画なんだ、この子は。


 だけどそれが気に入った。


「いいよ。行こうか」

 一瞬家族や友達の顔が浮かんだが、それこそ海底の泡ぶくのように行き過ぎて、後は目の前に出された手しか残らない。私はそれを握りしめる。さっき座っていたコンクリートよりもずっと暖かい。

 私たちは手を繋いで渚を進む。月に照らされた砂浜は、どこまでも続く真っ白い一本道になって私たちを導いている。

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