9話 - Ⅴ

 プレクトンエコールの五階には、美術室と音楽室の二部屋があるだけで、それ以外は、生徒たちが自習するためのフリースペース、もとい展望台になっている。

 修業期間中は、特にお昼休みになると大勢の生徒でごった返すその場所も、春休み中は閑古鳥が鳴いていた。


 シエナさんが倉庫部屋を去ってからすぐに、僕はそこを訪れていた。

 時刻は、ちょうど5時だったと記憶している。

 なんで断言できるかというと、ちょうどその時、僕は飲み物を買うために自動販売機の前に立っていて、自販機の液晶パネルに表示されていた時刻を確認したからだ。


「ほとんど売り切れになってる。まあ、時期が時期だし。しょうがないか」


 20年ほど前は、『現金決済』という手段が辛うじて残っていたらしいけど、今となっては過去の遺物でしかなく、それを採用している店は、最早『観光名物』じみた扱いになっている。


 今の主流は『暗号通貨』だ。

 何かを購入する際、利用者はただ個人認証パネルに手を置くだけでいい。

 あとは機械が勝手に魔紋認証を行い、国や住んでいる地域ごとに登録されている個人情報のデータベースに照合をかけ、本人確認が承認されると、自分の登録している口座から自動引き落としされる寸法だ。


 なんでも、税金逃れを防止するために組み込まれた経済インフラだそうなんだけど、僕はよく知らない。御上の考えっていうのは、いつも庶民が露程も気にしない場所で進められていくから。


 そうそう。認証パネルは決済時に『ピピッ』て音が鳴るから、ピピットパネル、なんて風にも呼ばれたりもするらしいんだけど、僕は言ったためしがない。


 結局、僕はどの銘柄にしようか悩んだ末、ほぼ強制的な消去法でホットのブラックコーヒーのボタンを押すことにした。

 決済完了画面が表示されると、残り残高が液晶画面に表示されてしまい、僕は途端に目を逸らしたくなる衝動に襲われた。


(298ラッカル……)


 機械は僕の気持ちなんて知らない。注文通りに商品を吐き出すだけだ。

 横たわる缶を見つめてから数秒、僕は温かいコーヒーを握りしめ、フリースペースの窓際に位置する椅子に座った。


 アイツの金で買ったコーヒーは、ほとんど味がしなかった。


「いつまで続くんだよ、こんなこと。僕もいっそ、ここを辞めてしまえたら」


 そういえば、なんで退学という選択肢を思い浮かべなかったんだろう。

 いや、なにも退学ではなく、どこか別の学校に編入すればいいだけなのに。

 

(親……か)


 周知の事実である通り、プレクトンエコールは魔機工学系のラトリオンへの進学率が高い。そして、今現在最も稼ぎがいいと言われている職種は、どれもこれも魔力兵器や魔源機器関連の仕事ばかりだ。


 安定を望む親にしてみれば、確かに、この学園はベターな選択だったのかもしれない。

 だけど、僕にとってその選択は、ベストではなかった。


 でも今さら後悔したって、もう遅い。

 来月になれば、僕らは最高学年になってしまう。

 あと一年。たった一年耐え忍べばいいだけじゃないか。

 それにこんな中途半端な時期に辞めてしまったら、後々尾を引きそうで怖い――こわい?


 それは、何に対する恐怖なんだろう。


 考えても、空を掴むような感覚で分からない。

 なのに、その茫洋たる空の果てに、確かな恐怖があるのは理解できてしまう。

 

 一体、何なんだよ。

 

 不意に、『将来を棒に振る』という単語が、僕の脳裏をよぎった。

 それが怖くて、僕は一歩踏み出せずにいるのだろうか。

 心象風景を埋め尽くさんとする茫洋とした空の海を、僕の心は眺めていた。


 しかしそれは、本当に見えないのだろうか?


 これは単に、僕自身が明確に自分の未来を想像しようとしないから、陽炎のように景色将来が揺らいでいるだけじゃないのか?


 分からない。――なんていうのは嘘。本当は思考を拒絶したいだけ。


 考えると、辛くて息苦しくて、酷く落ち込んで、しんどくなってしまうから。

 だから、自分が選び、進んだ先で待ち受けているであろう困難に蓋をして、自分にとっての〝ベスト〟から自分で遠ざかっている。おまけに現在進行形で。


 行間を読む、という言葉があるなら、これは『言葉を裏返す』って感じだろうか。

 分からない。の裏にへばりついていた感情を翻訳すれば、多分、さっきの解釈が僕にとっての正解だと思う。


 でも、現実はお遊びのメンコとは違うんだ。

 そう簡単に、人の生き方はひっくり返らない。

 仮にそうなったとしても、そう易々と言葉の裏通りを突き進めるはずがない。

 普通は、みんなだってそうだろ!?

 表通りベターを歩いていくじゃないか……。


「ちくしょう」


 飲酒できない年齢の僕が、やけ酒のようにコーヒーを一気飲みした直後のことだった。

 どこか遠くの方で、ローファーの靴音が響いているような気がした。

 最初は空耳だと思った。

 精神的にまいっているせいで、ありもしない幻聴を聞いているだけなのだと。


 でも違った。次第にその音は、現実のものだと理解させるほどの勢いで響くようなり、気のせいじゃないと分かった瞬間、なぜか訳もない不安を覚えた。


 弾けるように椅子から立ち上がって、吹き抜けの方に駆け出した僕は、手摺から身を乗り出すような姿勢で階下を覗いた。


 豆粒のような人影が三つ。魔機の力も借りずに、人力で階段を駆け登っていた。


 人影は段々と膨れ上がっていき、その人相が形相なのだと視認できるくらいの距離になると、三人のうち一人はシエナさんだと判明し――刹那、得体の知れない不安の元凶を目撃してしまった僕は、乗り出した身体を慌てて引っ込めて、身を隠すようにしながら屈み込んだ。


(な、なんで、ソーマと、ディビットが、学校にいるんだ……)


 特にサークル活動も何もしていない彼らが、春休み期間中に学校へ来る必要なんて皆無だし、彼らが自発的にここへ来るような気質の持ち主とも考えられない。


 僕は怯えながらも思考を継続させようと努力した。が、不意に悲鳴が間断なく響き渡ったため、僕の背筋は一気に硬直してしまった。


 それは、間違いなくシエナさんの叫び声だった。

 ひっきりなしに聞こえてくる――「来ないで! 」「助けて!」「誰か!」

 聞いているのに、僕は無意識に『他の誰か』を頼っていた。

 五階には僕しかいないことを知っていたのに。


 絶叫は、絶え間なく僕の道徳に訴え続けた。


〝良心〟の呵責が、ぎゅっ、と心臓を握り潰すような感覚に苛まれ、しかし、しっぺ返しの恐怖も知っている〝保心〟は、その場に留まれと猛抗議し、感情の板挟みにされた葛藤の摩擦によって、僕の視界は生暖かい雫で溢れた。


(ちくしょう。ちくしょう!)


 僕は勇気と保身の間にある妥協点を探った末、のろのろと手摺から顔を覗かせた。


 シエナさんは、全力疾走で屋上に出るための階段に向かっていて、ソーマとディビットは死に物狂いでそれを追走していた。


 三人とも明らかに常軌を逸した表情だったから、瞬間的に僕は『いつものいじめの雰囲気』との差異を感じた。


 全然自慢にはならないけど、いじめの光景に見慣れてしまっていた僕には、その違いがはっきりと判別できてしまったんだ。


 助けに行くか?――しかし僕は躊躇った。


 助けたいとは思う。でも、それこそさっきシエナさんと交わした会話じゃないけど、僕には何もできないんだ。彼女だってそれを知っているんだから、僕が助けなくたって、きっと彼女は僕を責めたりなんてしないっ!……だからっ!


「いやゃぁあああああああっ!!」


 遮蔽物越しに伝わるくぐもった悲鳴。

 再三にわたって刺激された道徳が、とうとう心を突き抜けて全身に激震を与えるほどの衝撃になると、僕はもう傍観者ではいられなくなった。


 その時の僕の位置は、絵で表現するなら『回』という形の左上隅周辺で、屋上に出るための階段はちょうど対角線上にあった。笑う膝に鞭を打って立ち上がり、僕は手摺を支えにしながら走った。


 屋上への階段は魔機式ではなく、完全にアナログな段差だ。つんのめりそうになる身体を何とか御し、一段、また一段と上った。踊り場付近に着くと、屋上扉から差し込む西日がちょうど目に入り、僕は反射的に目を細めた。


「なんでお前はボクの言う通りにならないんだよっ!」


 ソーマの声だった。相も変わらず、聞いただけで支配されてしまいそうな不思議な声色だったが、その時の僕は、なぜか普段よりもソーマの声を遠くに感じることができた。


 僕はまず、気付かれぬようにそっと息を殺し、屋上扉に付けられている窓ガラスから外の様子を窺うことにした。無策のまま突っ込めるほどの蛮勇さが、僕にはなかったんだ。


 窓枠から少しだけ顔をずらし、僕は片目だけで屋上の様子を探った。


 まず真っ先に視界に飛び込んできたのは、地面に横倒しになったシエナさんの上に跨ったソーマが、彼女に殴打を繰り返している光景だった。が、怖気づいて身を引くような真似はしなかった。常習的にこういう絵面を見ていたからだろう。


 つくづく心が麻痺していると思わされた一方で、傍らでたたずむディビットに視線を移すと、彼はやや困惑した様子で狼狽えていた。そして意外なことに、彼が時折ソーマを制止するような動きを見せたものだから、僕はむしろ、こっちの方に面食らってしまった。


「お前だけじゃない。フレットもそうだ。何でお前らは、いちいちいちいちいちいちいちいち、ボクの命令に背くんだっ!! なんで言う通りに、思い通りにならないんだよ! 今まで誰もかれもが全員ボクの言いなりだったんだ! なのに、なんで、よりにもよってお前らだけがぁああああっ!!!」


 激昂したソーマの怒気は、肌を刺す勢いで僕にまで迫った。


 際限なく求める支配欲のうねりが声となり、その圧倒的すぎる拒絶と服従の意思は、確実に僕の耳を侵していった。でも、正直その感情には共感しかねた。というより理解できなかった。


「うがぁっあああぁああああぁ!!!!」


 それはもう人間というよりは、獣の類が発するような雄叫びに近い獰猛さがあった。


 次の瞬間、ソーマは懐からペンライトのような物を取り出して、大きく腕を振り上げると、傍目にも渾身の力を込めたと理解できる速度で、シエナさんの首筋にペンライトの先端を突き立てた。直後、痛みを吐き出すようにシエナさんが金切り声を上げて、両足をばたつかせながら必死になって抵抗していたが、騎乗するソーマは肢体を束縛する力を一層強めて、ペンライトをさらに刺し込もうとしていた。


 助けるなら今しかない。そう思って、僕は一気にドアノブに手を掛け――

 そして彼女の瞳が、とうとう僕の片目に気付き、それを射抜いてしまったんだ。


 〝た、すけて〟


 あの瞬間、まるで世界の流れが止まったかのようで、僕の中の何もかもが停止していた。

 身動きの取れないシエナさんは、それでも辛うじて自由の利く左腕を懸命に伸ばしていて、それに気付いた僕は、ようやく我に返ることができた。


 助けないとまずいって、本気でそう思った。

 だから、ドアノブはすぐに回した。

 本当だ。僕は回したんだっ! 回したんだよっ!


 〝ガチャッ!〟


 その音を聞くのと同時だった。


 伸びきったシエナさんの細い手が、空を掴む仕草を見せた直後、それは生気を失った花のようにしおれて、そして生物の気配を一切なくした、単なる物体のように落下していった。


 僅かに開いた扉の隙間から風が吹き込み、そしてソーマの笑い声まで運んできた。

 両手で頭を抱えて哄笑するほど、本当に嬉しそうな狂った幸せを発散していたけど、そんな彼の狂気なんて、もうどうでもよかった。


 横たわるシエナさんの首は、ずっと僕の方に向いたままで、しかしその目に宿っていたはずの〝魂〟は、とっくに抜け落ちている気がした。


(……死んでる? あれが、人が死ぬってこと?)


『人間の死』は、かくもあっさりしているものだと、僕は初めて知った。


 一切のドラマもなければ感慨も湧かない。ただ無慈悲に〝死〟という風が過ぎ去っていくような、そんな自然災害にも似た圧倒的な理不尽さは、むしろそこまで昇華したなら、虚無という表現しか浮かばなくて、同時に、彼女の死をあっさりと受け入れてしまった自分の心に対し、僕は今まで培ってきた〝友情〟の正体が何だったのか一気に分からなくなってしまい、誠実なんてものが全く信じられなくなった。


 〝カチャ〟


 二度目の音は、とても静かだった。



     ◇



 居心地の悪い感覚が、まるで鉛を背負っているかの如く、全身にのしかかる。

 全てが生温かった。飲み込む唾液も、吐き出す吐息も、大気の熱も。


 ここが仮に裁判所であるのなら、ずっと直立不動で項垂れたままのロットは被告人で、いつの間にか彼を取り囲むような陣形になっていた自分たちは、傍聴席に座る関係者なのか、それとも、彼を見定めるために招かれた裁判員なのだろうか。いずれにせよ、この場に彼を裁ける権限を持った人間などいない。


 確かに、ロットはシエナ・マクアダムスを見殺しにしたと言われても文句は言えないだろう。そのことで彼が自責の念に捕らわれ、罪咎ざいきゅうを求めているのは分かる。だが、『力なき者が誰かを見殺しにする』という行為が真に悪行であるならば、この世の傍観者には等しく制裁を加えるべきだ。しかし、綺麗事や保身抜きで生きていけるほど人間社会は甘くない。特にこの、世間ずれ養成機関である学校などという場所で生きていくのであれば、『切り捨てゴメン』のスキルは、ある意味どの必須科目よりも、必須になってくるのだろう――


と、ひたすらに長く感じられる重苦しさの中に漂いながら、石杖黒斗は、そう胸中でひとりごちた。


「ぼくは、ぼくはあぁっ、っく! にげたんですっ! あのどきにうごいていればああっ、だすけ、られたのにぃぃっ!っあああ!」


 涙で顔がぐちゃぐちゃ、という表現すら生温かった。

 人の死を、ましてや友人の死を目撃してしまったロットの心は、とうの昔に崩壊していたのだ。


 それを必死に取り繕うために『仮面』を被って日々をこなし、それが剥がれ落ちそうになれば、逃避行という形で『舞台袖非現実』に捌ける。きっと彼は、そうやって自分を騙しながら、終わりのない当たり前エチュードの日常を演じ続けてきたのだろう。


 しかしロットの着けていた仮面は、もう、跡形もなく消失していた。

 幕は、ようやく下りたのだ。


「泣かないで。ロット君」


 その時、泣き崩れそうなロットを自らの懐に寄せ、強く抱擁する者がいた。


「もういい、もういいのよ。あなたがこれ以上自分を責める必要なんて、もうないの」


 抱きしめたのは、レイチェル・グレイだった。

 教師としてではなく、一人の人間として発した彼女の言葉には、女性にしかない母性と優しさが溢れていて、まさしく〝愛〟を体現するレイチェルに包まれながら、ロットはただひたすらに、涙を流し続けた。

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セ・ラヴィ ~C'est la vie~ 篝帆桜 @Kagari_Horoh

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