9話 - Ⅳ

 プレクトンエコールは四月が始業式だから、その時の僕たちはまだ二年生で、ちょうど春休みの真っ最中だった。

 短い休みだから実家には帰らず、僕は毎日のように倉庫部屋に足を運んでいた。

 理由は……特にない。

 強いて言うなら、寮にいると嫌でも誰かの顔を見てしまうから、一人になる場所が欲しかったんだと思う。

 まあ、ルームメイトのいない僕の場合、部屋に籠っていれば確実だったんだけど、それだとなんか、心が疲れちゃうから。


「ここもずいぶん、汚れたな」


 雑多サークルの活動は、シエナさんのいじめが始まってから、一気になりを潜めた。

 ほんの少し前までは、みんながここに集まって、それぞれの好きなことを好きなように楽しみ、時には全員の特技を合わせて合作を作ってみたり。

 みんなで作った物の中で、一番面白かった思い出は、なんだろう。

 ……はは。多すぎて言い切れないよ。


 シエナさんは物語とかを考えるのが得意で、コアな専門書なんかをよく読んでいた。

 将来は作家になりたいって、よく、言ってたな……。

 幼馴染のエイルは、意外なことに料理が趣味だった。

 勉強の合間を縫って作った手料理を、よくここで披露していたけど、僕は彼女にそんな趣味があったなんて、全く知らなかったよ。


 ちなみに僕は絵を描くのが好きで、昔からそこそこ得意だったから、『じゃあロット君はデザイン担当で決定だね!』って、部長であるシエナさんに、半ば強引に決められたんだ。あれは本当に有無を言わさなかったなあ。


 最後の一人は、僕の数少ない友達であるフレット・ユノ。

 彼は正真正銘の天才で、『PC』の知識や技術に関してだけは『同世代に敵なし』って感じだった。

 その証拠に、彼は国が行う『サイバーセキュリティテスト・A級』を最年少で合格して、巷では『A級ハッカー』なんて風にも呼ばれているんだけど、天は二物を与えずというかなんというか……。実は彼、僕より腕相撲が弱いんだ。信じられないだろ?


「これじゃ、いつかゴミ捨て部屋になっちゃうよ。みんなの荷物も、ずっと放置されたままだし」


 僕は、何でか分からないけど、とにかく掃除することにした。

 何もしていないと、頭が勝手にシエナさんのことを考えてしまうから。

 じっとしているよりも、身体を動かしていた方が精神的に楽だったんだと、今さらながらに思う。


 とりあえず僕は、まず窓を開けて部屋の換気を行った。

 宙を舞う夥しい数の塵を、光の反射で目視してしまった時は、ちょっと後悔した。


 適当に床の掃除を済ませた僕は、次に、みんなの荷物を整理することにした。

 使えそうな空き箱を見繕って、ラベルを貼って、どれが誰の所有物なのかを、分かる範囲で仕分けしていった。

 僕は、得体の知れない『何か』から逃げるように、ひたすらその作業に没頭した。

 それから数時間が経ち、日が傾きかけていた頃、僕はある物を見つけてしまった。


「これって」


 荷物の山に埋もれるように混ざっていたのは、シエナさんがよく使っていた【レフィウム一眼レフカメラ】だった。

 そして、間が良いというか、悪いというか。

 ちょうどその時、部屋のドアが開いたんだ。


「あれ? ロット君?」

「っ……。シエナ、さん」


 彼女は部屋に入らず、開け放ったドアの前で僕と目を合わせたまま立ち尽くしていた。

 一方の僕は、すぐに彼女から目を離した。

 同じクラスであるにも関わらず、僕はいじめを放置している傍観者だったから、彼女を直視し続けるなんて、とてもじゃないけど耐えきれなかった。


「それって、私の『レフィ』?」

「へ!? あ、ご、ごめん! 勝手に触ったりして。あの、ちょっと部屋の掃除してて、そしたら」

「何で謝るの? むしろ私は、ありがとうって言いたいくらいだよ。ロット君のこういうマメな性格、私は長所だと思うな」


 言いながら、シエナさんが自然と僕の方へ歩み寄ってきたので、その場の流れで僕はレフィウムを差し出した。

 彼女はそれを受け取り、そして会話は途切れた。

 続けるなんて、無茶だった。

 彼女の現状を見て視ぬフリをしている僕に、一体何を紡ぎ出せって言うんだ。


「昔は、よくみんなで遠出したよね。ピクニックみたいで、楽しかったなあ」

「……うん。僕も、そう思う」


 夏休み、冬休み、春休み、あとは土日でも余裕のある時は、僕ら『雑多サークル』のメンバーは、決まってどこか遠くに出掛けていた。

 シエナさんは、愛用している『レフィウム』を首に提げて、見るもの全てを堪能し、とにかく感性に何かが引っかかれば、シャッターを切っている感じだった。


 本人曰く、小説のネタとか、感性を磨くための修行なんだそうだ。

 僕だって曲がりなりにも絵画をやっている身だから、彼女の言わんとすることも、分からなくはなかった。


 他のメンバーは首を傾げていたけど、感性っていうのは多分、曖昧とか抽象的な概念の焦点を〝心の力〟で合わせて、本質を見極める能力のことなんだと思う。

 そういった意味では、確かに、物理的に対象を見定めてシャッターを切る、という行為が伴うレフィウムは、感性磨きと相性がいいのかもしれない。


「すっごいホコリ被ってる。最近ここに来れないから、全然手入れできないや。なんか、悪いことしちゃったな」

「しょうがないよ。だって……」


 だって、君は毎日のように、あんな酷い目に遭っているんだから……。

 危うく口から零れ出てしまいそうになった言葉を、僕は必死になって阻止した。


「ロット君は、優しいね」

「はっ!?」

「顔に描いているよ?『助けたくても、僕には何もできない』って」

「……っ!? そ、それは……。でも、だって……僕にはっ!」


 何でそんなストレートすぎる言葉を、そんな茶目っ気溢れる表情で言えるんだよ。

 触れられたくない感情を抉られたようで、それに過剰反応してしまった僕は、投げたくもない怒りを彼女にぶつけてしまった。


 要するに、八つ当たり。


「どうしようもないじゃないか! 僕だって、好きで放置しているわけじゃない! あんなこと、止められる力があるなら、さっさと止めてるよ! でも、現実は違うじゃないか! 現実の僕は、止めた瞬間に返り討ちにあって、君と同じような目に――っあ…………」


 つくづく嫌な奴だと、僕は僕自身を疎んだ。

 今の言動で、僕の中に潜む本心は露わになってしまったのだから。



 どれだけ綺麗言を並べ立てたところで――上辺だけの妄想。

 慰めの同情心を取り繕ったところで―――でも物理的に救おうとはしない。

 助けたいって理想を描いたところで!――現実は痛くも痒くもないんだよっ!

 ……結局は、そうだ結局は!――――――



        〝自分の保身しか考えていないじゃないか!!〟



 見事に墓穴を掘った結果となってしまった僕は、その後、彼女にどう弁解すればいいのかも分からず、ただ反射的に「ごめん」と呟いてしまい、そんな社交辞令じみた謝罪しかできない自分の情けなさが、余計に腹立たしかった。


 そして、その時になってようやく、僕はフレットの気持ちが、少しだけ分かった気がしたんだ。


 彼は、自分がどれだけリンチされても、陰口を叩かれても、周囲からの嫌がらせを執拗に浴びせられても、彼だけは、未だにシエナさんを庇い続けている。

 フレットの腕力は、本当に僕より弱いんだ。

 多分、喧嘩だって僕といい勝負のはずなのに……。

 それでも、彼はディビットやソーマに挑み続け、毎度のように血反吐を吐く。


 まるで、『自分の命なんて愚にも付かないものだ』と言わんばかりの迫力で。


 なんで彼が、そこまでしてシエナさんを守ろうとするのかは知らないし、傍観者に回ってしまった僕が、今さら聞いていい話でもない。

 だけど、その片鱗くらいは、理解できた気が……いや、そうじゃない。

 あの時の心情を冷静に観察してみると、多分、彼に近づきたいという僕の根底にあった願望が、その思考を促した、と言った方が適切に思えてくる。


(フレットは多分、自責の念に捕らわれるくらいなら、助けた後の苦痛を選んだ方がよっぽどマシだ――って、そう、思ったんだろうな)


 彼のことを卑下するようで、どこか心に抵抗感はあったけど、僕は『身の程知らず』という言葉を、真っ先に思い浮かべてしまった。


「悔しいけどさ、どうにもならない理不尽って、やっぱりあると思う」


 物言えぬ、まさに案山子同然となっていた僕は、シエナさんの放った突拍子もない言動に、思わず顔を上げてしまった。多分、目は相当丸々としていたことだろう。


「だってそうでしょ? 仮に私がロット君に『どうにかしてよ!』って助けを求めて、本当にロット君が助けに来たとしてもさ、それって、ロット君を今以上に苦しめることになると思わない? 精神的にも、肉体的にもさ」


 本音は人を傷つけるって言うけど、この時ほど本音の威力を思い知ったことはなかった。

 どうして彼女は、自分の現状をそんなにも冷静な思考で俯瞰できたのだろう。

 理屈で考えれば筋の通る話でも、心の整合性が取れるとは限らない。

 いやむしろ、取れない方がマジョリティを占めているはずだ。

 なのに、シエナさんは理屈に善悪論や感情論を混ぜるわけでもなかったし、冷めた心で機械的に割り切っている、という風でもなかった。



〝理不尽に逆らうのではなく、受け入れて、

 その上で自分を変えていく方が、よっぽど建設的な生き方でしょ?〟



 実際に彼女がそう口にしたわけじゃない。

 ただ、僕を真っ直ぐに見据える彼女の目力には、そういった『念』のようなメッセージが込められていたような……。少なくとも僕は、そう感じ取った。


「でも、フレット君はきっと、そういう理屈じゃ納得しないんだろうなあ」


 そりゃそうだ。

 普通、人は抗えない理不尽には抵抗したり、憤ったりするものだから。

 そういった意味では、天賦の才を持つフレットも、普通の人だったと思う。


「けどね、私は彼のそういう部分、意外と好きなの」

「え……? ああ、そうだったんだ。知らなかったよ」

「へ、あ、ああっ! 誤解しないでね? 別に恋愛感情とか、そういうのじゃないんだよ?」


 なんだ違うのか。

 って僕は思ったけど、その言葉は胸の奥で響かせるだけにした。

 だって、実際に口にしたら、何か物凄い不謹慎な物言いに思えたから。


「あのね、理想って、ともすれば綺麗事だって私は思うの。確かに彼は、身の丈を超えたことをしているって思うよ。思うけどさ――」


 シエナさんは側壁に寄りかかって、独り言みたいに次の言葉を宙に放った。


「――時々考えるの。彼の行為が、たとえ痩せ我慢の綺麗事だったとしても、それすらできなくなってしまったら、弱者の居場所って、どうなっちゃうんだろうって」


 ひょっとしたら、彼女は心の中で泣いていたのかもしれない。

 西日を浴びるシエナさんの横顔には影が差し込んでいて、心なしかそこには『陰』も帯びているように思えたからだ。


 痩せ我慢の綺麗事。

 その言葉だけが、妙に僕の中で反響していた。


 社会的弱者は種々様々だ。

 分かりやすい例を挙げるとすれば、身体障害や精神障害、あとは介護が必要な老人の方たちだろう。

 レッテルと呼ばれる類を列挙し出したら、多分、止まらなくなる。

 マジョリティによる一気呵成を侮ってはいけない。

 彼らには、社会が肯定する大義名分が備わっているのだから。


 それを一言で言い表すのであれば、科学や医療が相当するのだろうけど、あまり悪口を言い過ぎるとしっぺ返しを食らうのも真実だ。

 仮に将来、何かの力がレッテルに大義名分を重ね貼りしても、僕は目を瞑って、だんまりを決め込むだろう。


 そうさ。とどのつまり僕は、保身を選ぶのさ。

 どうせ、そういう人間だよ。どうせ。


 しっぺ返しを大々的にできるだけの力を有するのが、社会世界という巨大な組織だ。

 その歯車に納まってしまった人間が大多数を占めている以上、『弱者の居場所』などという理想は、最早、上の描くシナリオプロレスに沿う形でしか実現し得ない、ただのフィクションではないのか?


 どれだけやっても、たかが知れてる。

 変革には、腕利きのシナリオライターが必要なんだから。


「まあ、その考えはひとまず保留にしとくよ。私にはまだ、ちゃんとした答えが出てないから」


 シエナさんは、虚しくならないのかい?

 この、全てが決まっている世界で、理想を追いかけることが……。


「でも、フレット君がその光明を私に見せてくれた。居場所がないなら、意地張ってでも作り手に回るしかないって。欲しいものがあるなら、自分で作れって」


 それこそ綺麗事だ。

 力を持ち始めた芽を潰しにかかる世界の怖さを知らないだけだ。


「あっ、それとね、事後報告みたいになっちゃうんだけど、私、今年度限りで、ここ辞めることにしたの」

「え?」

「急な話でごめんね」


 シエナさんは少しだけ舌を出して、苦笑いしていた。

 その茶目っ気は、何だか普段の彼女と接している時間が過ぎていくようで、卑屈に埋没していた僕の思考は、知らぬ間にサルベージされていた。

 今でも時々、不思議に思うことがある。

 いつの日だったか、原因は忘れたんだけど、僕がフレットと物凄い口論をしていた時の話だ。それはもう、とてつもなく険悪なムードだったんだけど、シエナさんが現れて会話に混ざった途端、自然と場が明るくなっていき、いつの間にか僕らは仲直りしていたのだ。


 人を和ませる、不思議な魅力を持った女の子。

 それが、僕の知っている『シエナ・マクアダムス』という個人だった。


「辞めるって、退学するの?」

「ううん。ラオ地区の通信制に転入するの」

「フレットやエイルに、その話は?」

「まだ。引っ越しの手続きとか荷造りで忙しくて」

「……。そっか」


 途端に、虚しさが心を穿った。

 開かれた穴から『寂しい』という気持ちが流出していくような、そんな気分。

 でも、僕は何の行動も起こさずに、ただ傍観者に甘んじていたのだ。

 退学の理由作りに加担した僕が、そんな感情を、抱いていいとは思えなかった。


「じゃあ、私はそろそろ行くよ。本当は、これ取りに来ただけだったから。開けた瞬間にロット君と目があった時は、びっくりしちゃった」


 シエナさんはレフィウムを片手に掲げて笑顔を向けてくれたのに、僕は気の利いた言葉すら返せなかった。

 通う学校が変わるだけなんだし、これが今生の別れになるわけでもない。

 きっといつか、また会える――って、そう信じて疑わなかったあの頃が憎い。


「うん。じゃあ、元気で」

「うん。またね」


 声のトーンも、身振り素振りも、いつも通りのシエナさんが去っていった。


                 〝またね〟


 あの時の言葉が毎日、いや、下手をすれば数分ごとに、僕の脳裏でリフレインを起こす。

 結局、『いつかまた』は永遠に来なくなった。

 大切なものは、失ってから初めて気付く。確かにそうだった。

 でも、その言葉の持つ重みを、その時の僕は、これっぽっちも理解していなかった。

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