4.7フィート
湖上比恋乃
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ジャクリーンの訃報が届いたのは、私にとってはなんでもない日だった。
彼女が死んでしまう原因は私よりずっと多いように思うが、それでも実際直面すると「どうして」と言ってしまう。電話の向こうではいろいろと説明してくれているが、頭に残ったのはふたつだけだった。
ひとつは、ジャクリーンが死んだこと。
もうひとつは、彼女のための葬列が明日執り行われるということ。
電話をきったあと、簡単な荷造りをはじめたのはごく自然な流れのように思えた。すこしの気の迷いもなかった。あの日の家出をやり直すような気持ちだった。やり直すといっても、私がなぞるのはジャクリーンの家出だ。私自身は向かいの友人宅に一泊するていどのことしかやったことがない。それも、一回だけ。
財布、家の鍵、歯ブラシ、着替え、こうしてバッグに詰め込んでみると、旅行と家出の違いってなんだろうと考えてしまう。心もちひとつでどうとでもなるらしい。携帯電話は二度くらい迷ってからベッドサイドに置いた。最後に、ジャクリーンから届いていた結婚式の招待状をバッグに差しこんだ。
過去に家出をしたときは、もっと大きな荷物を抱えていた記憶がある。もうこの家には戻らない、という強い決意がそうさせた。でも今はこんなに小さなバッグで、もっと遠くへ行こうとしている。
置き手紙は残さないことにした。これは旅行ではないのだから。
路面電車でニューオーリンズ・ユニオン駅までやってきた。ジリジリと肌を焼く日差しはまぶしく、追い立てられるように日陰に入る。体に膜をはるような空気が私にすがりつく。日差しも湿気も振り払った先の駅構内は空調が効いていてずいぶん過ごしやすい。
まばらな人と、簡素な時刻表。目的はpm1:45発、シカゴ行きだ。
列車に乗り慣れていないこともあって寝台もちらついたが、値段がはるのでコーチシートでチケットを購入した。
マジックで書かれた番号を頼りに、あてがわれた座席を見つけだす。座りこんで息を吐くと、いつのまにか全身に巡っていたらしい緊張もいっしょに流れ出ていった。骨のない生き物のようにイスの形に沿う。バッグがずり落ちる感覚があって、あわててたぐりよせた。このまま眠ってしまうような気さえした。
発車しても隣の席には誰も来ず、狭いながらも広々と空間を占領する。感傷に浸るには十分な広さだった。
ミシシッピ川沿いを眺めながら、不規則なようで規則的な揺れに身を任せる。
家出をしたジャクリーンはシカゴで発見された。連れ戻された彼女は学校で、まるでヒーローのように担ぎ上げられた。彼女がそれに対して誇らしげに自慢げにふるまっているのを私は遠くから眺めていたが、実際の心持ちは違っていただろうと、当時も今も思う。きっと、帰ってくるつもりじゃなかった。
車窓に彼女の顔が映る。「ねえマリア、一緒に遠くへ行かない?」と言った彼女の顔が。それに頷けなかった私が、いまここにいる。
一階の売店で購入したバーガーとコーヒーを持って、二階のラウンジへあがる。個室を選ばなかった人たちが、それぞれの夕食を手に点在していた。ポーカーを楽しむグループがあったり、降車駅からの予定を話し合うグループがあったり、静かすぎず居心地がよさそうだ。空席も選べるほどにはあって、声が音として聞こえるくらいの席に腰を落ち着けた。対面する窓から景色を眺める。勢いよく過ぎ去っていく窓の外は、右から左でも、左から右でもたいして変わらないように見えた。
彼女はどうしてシカゴを選んだのだろうか。行けばわかるだろうか。どうやってたどり着いたのかもわからず、さまざまな憶測の正解を知れるほどの意気地が私にはなかった。
私は真面目な生徒で、教師との折り合いも、両親との関係もいいほうだった。ジャクリーンと真逆だ。なぜ彼女が私を気にかけて、ときおりおしゃべりに興じてくれたのか。来週に迫っていた結婚式に出席すれば答えが聞けたのかもしれない。もうそれも無理な話になってしまった。
くしゃくしゃに丸めた包装紙をコーヒーカップに収める。外はずいぶん暗くなっていて、家出をした女の顔がぼんやりと窓ガラスに映っていた。
また売店へ寄って、こんどは缶ビールを手に入れる。揺れにあわせて体を動かすのにもずいぶん慣れてきた。コーチシートに戻ってくると、さっきまでいた人たちはほとんどいなくなっていた。プルタブを開ける音がいやに響く。半分くらいをいっきに流しこんだ。
どうしても初めてアルコールを口にした夜を思い返してしまう。ジャクリーンが連れ出してくれた、最初で最後の夜。
未成年でも入れる店というよりかは、未成年が飲酒しても気にしない店だった。それでも私が頼んだのはコーラで、ジャクリーンは笑ったけど不思議と恥ずかしさはなかった。彼女は私が優等生のままバーにいることを望んでたみたいに笑った。
陽気な彼女がよりいっそう陽気になっていくのを見て、やっぱりちょっとお酒を飲んでみたくなった私は、ジャクリーンの目を盗んでグラスに口をつけた。普段ならそんな大胆なことを考えもしない。雰囲気に酔っていたのかもしれなかった。直後、雰囲気どころか本当に酔ってしまった私はジャクリーンに支えられて店を出ることになる。
「門限は?」
「まだ、だいじょうぶ」
じゃあちょっと座ろう、と店の裏手にある通用口の階段に二人で腰掛けた。
どこからともなくジャズの演奏が流れ聞こえ、まだ明るさを残す空の下で人々は音楽と酒に酔っている。そんななかで、だんだんと冷静さを取り戻してきた私は
「もう平気。今日は連れてきてくれてありがとう」
と言いながら立ちあがった。ふらつくこともなく、しっかりと地に足をつける姿に安心したのか、ジャクリーンも隣に立つ。
「ついてきてくれてありがとう」
私の大好きな笑顔がすぐそばにある。額をつきあわせて両手を繋いだ私たちは、何に対してかわからないけれど声を出して小さく笑いあった。
「このままジャッキーとうちに帰れたらいいのに」
そうして朝までおしゃべりをして、また一緒に連れ立って歩き学校へ行くのだ。お互いに不可能だとわかっているから、悲しくもならないし、楽しい夢物語を言い続けられる。彼女がうちにくれば、彼女が傷つく。私が彼女のうちへ行けば、私が傷つく。やってみるまでもなくわかることだ。学校で仲良くすることも、校外で会わない(ように見せている)から大目に見られている。私たちはお互いのレールを行き来するときに、最も縛られる。脱線することは許されていない。「ここから先は私のレール」だと、ジャクリーンのほうが強く線を引く。私は自分のレールを逸脱したくなるときと、それを大事に抱えるときがあって、おそらく彼女も同じなのだろうと感じることが時折あった。その点において私たちは同じだった。
メンフィスを発車する頃には、窓際に並んだ空き缶が三本になっていた。そのまま抵抗なくまどろみに身を任せる。シカゴに着くまで起きなくてもいいと思った。
その日のジャクリーンはなんとなく元気がなかった。
「ねえマリア、一緒に遠くへ行かない?」
いつもの夢物語でないことは、すぐにわかった。ほとんど人のいなくなった放課後、バスに乗らない私たちだけの時間。開口一番の彼女のことばに、私は表情をかためてしまった。
「わたし、あの、ごめんなさい、わたし」
ジャクリーンは笑って「わかってた」と言う。続く「ごめんね」はなにに対してだったのだろうか。
「ジャッキー!」
彼女があきらめたのが見てとれて、思わず声が大きくなる。火のつきかけた私の口をジャクリーンの手が覆って首を振る。
「マリア。私の大切なともだち。困らせてごめんなさい」
言いながら額をつきあわせて握った手は震えていた。拭うことのできない涙が床に染みをつくる。
「元気でいましょう。そしてまた会うときに、話を聞いて。いつもみたいに」
「わたし、いっしょに、行きたかった!」
ありがとう、それで十分だと笑った顔は、私がコーラを頼んだときによく似ていた。
昔の夢を見るだなんて、ほんとうにあるのだと妙に感心しながら上体を起こした。ちいさな荷物は寝入ったときと変わらず手元にある。窓の外をながれる景色は様変わりしていて、遠くへ来たのだと突きつけられた。
列車に乗ってからもう十八時間になる。シカゴは近い。ジャクリーンがここ、と決めた土地なのか。それとも道半ばだったのか。連れ戻された彼女とは、卒業するまで二人きりになることがなかった。もちろん卒業してからは、さっぱり会うこともない。話を聞いてと言われたことどころか、仲良くしていたことさえも夢物語だったかのようだ。
だからこそ結婚式の招待状が届いたとき、舞い上がる心地だった。押し寄せてきた学生時代の思い出は喜びと後悔がセットで、招待状を前に泣き笑いした。翌日、頭が痛くなったくらい泣いた。
降り立ったシカゴの駅は、ニューオーリンズとはまるで違う空気で、彼女はこんなにも遠くに来たかったのかと寂しい思いがした。ニューオーリンズで生きてニューオーリンズで死んだジャクリーン。結局シカゴどころか他の土地に根を下ろすことなく死んでしまった。遠いところには行けなかった。
復路のチケットを購入してから外に出る。朝の街をさまよい歩きながら、無意識に彼女の後ろ姿を探す自分に気づく。ジャクリーンはここにいないし、もっと言えば、どこにもいない。そう、どこにもいなくなってしまった。崩れ落ちそうになるくらい悲しくて、会いたい気持ちが飽和する。
さようなら、私の大切なともだち。
青い空の下、ようやく私はジャクリーンのために泣いた。
4.7フィート 湖上比恋乃 @hikonorgel
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