座布団

赤城ハル

第1話

 外が気になるのかと問われると……気にはなる。

 ただ部屋にじっとしていても外の音は聞こえない。

 代わりに聞こえてきたのはドアをノックする音だ。

 俺がノックに返事をすると勝手にドアが開かれ、白いレジ袋を片手に髪の長い女性が一人入ってきた。その女性は穂乃果先輩だった。彼女はこのアパートの住人ではないが、たぶん前田主催のバーベキューに呼ばれてやって来たのだろう。

 外の──バーベキューで楽しむ彼らの会話が中に入ってくるのかと耳を澄ませたが、音は入ってこなかった。

 まあ、それも仕方ないだろう。このアパートは空から見ると稲妻マーク型をしている。

 俺の部屋は空から見ると稲妻マークの下にあり、彼らがバーベキューをしているのは同じように空から見ると右上の庭で行われている。ゆえにここには声が届き難いのだ。でも、ほんの少し聞き取れるのではと期待していた。でも結局、何も聞こえなかった。

 ドアが閉まり、意識は中へと戻る。ドアの閉まる音がまるで盗み聞きは駄目だと咎めているようだった。

「暑いわね」

 穂乃果先輩は一言そう言ってヒールを脱ぐ。

 そして冷蔵庫に向かい、これまた勝手に冷凍室の中を勝手に漁り、ソーダ味のアイスバーを一つ摘みだす。代わりに下の冷蔵室に白いレジ袋を入れてリビングにやって来た。

 万年布団の上に寝転がっていた俺は布団を畳み、奥へと移動させる。代わりに端へと移動させていたテーブルを中央に寄せ、座布団を台所側に一つ置く。そしてテレビに対面するようにもう一つ座布団を置き、そこに俺は腰を下ろす。

 闖入者は座布団には座らず、ベランダに続く戸を少し開き、網戸をセットする。

 しばらく穂乃果先輩は夏の音に耳を傾け、立ち止まるが、その場に座り込み、アイスを食べ始める。

「暑いわね」

 穂乃果先輩はもう一度言った。

「いいんですか? 戻らなくて?」

 本当はこんな所に立ち寄って良いんですかと聞きたかった。

「だって暑いんだもん」

 穂乃果先輩は俺の直接的な先輩ではないが、一つ年上ということで穂乃果先輩と呼んでいる。

 名前で呼ぶのが抵抗があり、名字で呼ぼうとしたけど、「同じ名字の子がいるから名前でお願い」と言われ、名前呼びとなった。

「扇風機点けます?」

 この部屋の冷房機器は扇風機だけである。

 クーラーが欲しいが貧乏学生には手は出せない代物。

「いいわ。風が涼しいし」

 自分としては網戸でも虫が入ってくるので、ガラス戸は閉めてもらいたい。

 穂乃果先輩はアイスバーを咥え、味わう。

 じっとしていると艶かしい音が部屋に響く。恥ずかしく感じて、俺はテレビを点けようとリモコンを探す。

「そうだ。お土産、冷蔵庫に入れといたからね」

 穂乃果先輩は冷蔵庫を指差す。

「そうですか」

 見てたから知っていますよ。

「焼いてよ」

 艶かしい甘え声が鼓膜を撫でる。

「はいはい」

 すぐ焼いて欲しいなら、なんでわざわざ冷蔵庫に入れたのだろうか。

 俺は息を吐き、立ち上がる。そして冷蔵庫から彼女が入れた白いレジ袋を取り出す。中に入ってたのは肉だった。

 しかも、そこそこ上物であるのが色艶でわかる。赤身に白い霜降りで国産以上の代物と推定される。

 換気扇を回したところで、またドアがノックされる。

「はーい」

 俺は気怠げな声を出して応じる。

「実里川です」

 俺がドアを開けると緩やかにパーマをかけた女の子がいた。

 その子は俺の直接的な後輩ではないが、向こうは俺を一ノ瀬先輩と呼ぶ。

 その実里川はドアを開けた俺に一礼すると、首を伸ばし部屋の中を窺う。

「あっ! 穂乃果先輩、やっぱりここにいた!」

 どうやら実里川の目的は穂乃果先輩のようだ。どうせ勝手に抜け出したので連れて帰るように彼らに指示されたのだろう。

「失礼します」

 実里川は俺の返事を聞かず、サンダルを抜き、部屋に上がりこむ。

「先輩! 駄目ですよ。勝手に出ていっちゃあ!」

「だって暑いんだもん」

 腰に手を当て、抗議する実里川に穂乃果先輩は明後日の方を向く。

「ここも暑いですよ」

 実里川がそう言うので俺はリビングに向かい、扇風機を点けた。

 そして俺は台所へと戻り、コンロに火を点けて肉を焼き始める。

 ちらりとリビングを窺うと実里川は穂乃果先輩に近付き、ひそひそ話するように声をひそめる。

「お肉は?」

「なんのこと?」

「肉取りましたよね?」

 もしかしてこの肉か?

 俺はフライパンの肉をひっくり返す。

 引いた油でなく、肉の油により、ぱちぱちと音が鳴る。

 実里川も肉の焼き弾ける音を聞いて、

「その肉!?」

 あっ? やっぱ焼いたら駄目なやつ?

 実里川はすぐにこちらにやってきて、フライパンの肉を見て、それから肉の入っていた容器を右手で掴んで、

「やっぱり!」

「まずかった?」

 穂乃果先輩はリビングからこちらへと言葉をかける。その声色は少しおとぼけ感があった。

「先輩! 肉はこっちですよ!」

 実里川は左手に持つ、レジ袋を掲げる。

 どうやらお裾分けはそっちだったと。

「ああ! どうしよ? もう焼けちゃってます」

 実里川は弱った困り声を出す。

「もう仕方ないね」

 他人事のように穂乃果先輩はベランダ側を見て言う。

「焼いたのを持って行っても?」

 実里川はフライパンの上でじゅうじゅう焼かれている肉を指して俺に聞く。

「え?」

「駄目よ。私も食べるんだし」

 穂乃果先輩は立ち上がり、不機嫌に台所に近付く。途中、アイスバーの棒をゴミ箱に捨てる。

「これは私が食べるって言っておいて。その肉は……返すとバレそうだから、この肉は彼が食べるってことにしといて」

 実里川は顔を下げ、溜め息を吐く。

「それでもその肉が無くなったことには変わりませんよ。前田先輩、怒りますよ」

「なんで塩川君でなくて前田君が怒るのよ。不幸な事故よ。気にしない、気にしない」

 穂乃果先輩はなんともなしに言う。

「…………わかりました。この肉は冷蔵庫に入れて置きます」

 実里川は冷蔵庫にレジ袋から肉を取り出して中に入れる。

 ちらりと見るとあまり良い肉ではないのがわかる。少し黒い。

「では私はこれで」

 そう言って実里川は部屋を出て行った。

「もういいんじゃない?」

 と穂乃果先輩はフライパンの肉を指差す。

「あっ、はい」

 俺は焼き上がった肉を皿に移動させる。

 穂乃果先輩は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出す。

「肉といえばビールよね」

「この肉、高いやつなんですか? で、実里川は慌てて持ってきたのは本当のお裾分けで……安い肉なんですか?」

「そうよ。高いのは塩川君が持ってきたやつよ。で、安いのがたくさん余ったので、前田君が君にお裾分けしようとしていたのよ。ひどいよねー」

 と言い、穂乃果先輩は笑った。

「さ、高いお肉食べましょ?」

 ああ! この人、確信犯だ。


  ◯


 一年半前、私は美大受験に失敗した。

 一浪してもう一度美大受験をしたかったが、親に反対され、美術専門学校へと進まされた。

 美術専門学校は入試はない。募集期間内に願書と卒業証明書を出せばいいだけ。

 俺はなるべく地元の人間がいない所として、遠く離れたこの美術専門学校を選んだ。もちろん、家から通える距離ではないため一人暮らしが決まった。

 が、いざアパート探しとなると募集期間ギリギリに応募したため、その頃は四月の頭であった。

 そのため学生アパートは満室で、残っていたのがこの美大生用のアパートだけだった。

 美大生ではないから無理かと思ったが不動産屋さんが大家に話し込み、なんと承諾を得てくれたのだ。

 なんでも少子化の昨今、美大生だけでなく、私のような専門学校生も受け入れていて、部屋に空きがあると言う。

 なんともまあ、うれしいことで。

 美大に落ちて不幸だと嘆いていたなか、幸運が舞い降りたとその時は感じた。

 しかし、専門学校生は私一人だった。周り美大生ばかり。

 精神的にものすごく窮屈だった。

 けれども周りの学生達は優しかった。俺を見下すのでもなく普通に平等として扱ってくれた。

 俺も初めは素直にそれを受け止め、彼らに感謝をした。世の中、悪い人ばかりではないんだと。

 でも、それは偽りだった。

 意外にも早く、俺は彼らの仮面下を知ることになった。

 彼らは複数でいる時は優しく接してくれるが、いざ二人っきりになると明らかに俺を見下してくる。

 第三者がいるときだけは良い顔をする。

 彼らは偽善の塊だった。

 それでもこの歪な関係は大きな亀裂を生むこともなく、学生生活は進んだ。

 そしてそんな関係が大きく変わったのはこの前のコンクールの後からであった。

 それは美大生も多く参加するコンクール。勿論、このアパートに住む彼らも参加した。

 そしてそのコンクールで専門学校生の俺が美大生差し置いて賞を取ってしまった。

 それまで偽善の仮面の下にあった平穏はシャボン玉のように弾けて消えた。

 それからは独り──にはならなかった。

 穂乃果先輩が時折、このアパートの住人ではないのにも関わらず、わざわざ遊びに来てくれたからだ。

 だがそれは同情とか彼らに対する怒りではなく、単にここに寄ることで彼らの反応を楽しんでいるのだろうと思われる。


  ◯


 穂乃果先輩はテレビを点けて、ザッピングをする。そしてナイターでリモコンの動きを止めた。

「どっちかのファンで?」

「ううん。どっちもよく知らない。でもビールにナイターって夏って感じがしない?」

「おっさん臭いですよ」

 と俺が突っ込むと穂乃果先輩は大きく笑った。


 しばらくするとノック音が再び。実里川かなと思いつつ、

「はーい」

 ドアを開けるとそこには予想通り実里川がいた。

 そして実里川はリビングにいる穂乃果先輩に向け、

「片付けですよー」

「はーい」

 穂乃果先輩はだるそうに立ち上がり、

「それじゃあね」

 と俺に言い、実里川と共に外へと出て行った。


 夜に実里川と青柳がきた。青柳は美大の一年生であり前田の腰巾着。

 青柳がここに来た理由も想像がつく。というか来るだろうなと予想はしていた。そして実里川は青柳の彼女として不甲斐ない彼氏のため一緒に来たのだろう。

「なんだ?」

「あー……」

 と言い淀んで、青柳はちらりと隣りの実里川を伺う。

 それに実里川は小さく溜め息を吐いて、

「……先輩。トイレ貸してください」

「ええー?」

 嫌そうな声を出すも実里川はそれを無視して俺とドアの隙間をくぐり、サンダルを脱いで中に入る。

 そして青柳はレジ袋を掲げて、

「お裾分けです。少し飲みましょう」

 と俺から目を逸らせて実里川の後に無理矢理続く。

「肉ならもらったぞ」

 青柳の背に向かって言うが。

「これはビールとツマミです」

 と青柳はそそくさと中に入りながら言う。


 実里川はトイレからすぐに出てきた。

 たぶん部屋に入るための口実だったのだろう。

 そして青柳から実里川は缶ビールを受け取り、プルタブを開ける。

「それじゃあ、かんぱーい」

 青柳が缶ビールを掲げ、俺と実里川も、『かんぱーい』と缶ビールを嫌々掲げる。そして各々缶ビールを口につけ、小麦色の液体を喉へと流し込む。

「で、先輩、就活はどうなんですか?」

 いきなりの本題で俺でなく実里川が吹く。口から少しビールがこぼれ、実里川は手の甲で拭う。

 あまりにも下手な聞き方で俺も呆れてしまう。

「普通だよ」

「普通とは?」

「今、バイトしているところからお声かけられてるっだけ」

「え! それって沙霧八郎太先生の?」

 実里川が声を弾ませて聞く。

「ああ」

「沙霧八郎太?」

 青柳は誰その人という顔をする。

「VFXの画家だよ」

 恋人に対してなんで知らないのという顔をする実里川。

「……VFXは知ってるよね?」

「知らない」

「そこから!」

 実里川は額を左手で押さえて天井を見上げる。

「映画ってCG使ってるでしょ? でも、全部CGだと臨場感とかフィット感とか良い演技できないでしょ? だから一部をセットで作り、後からCGで足すのがVFXよ」

 と実里川が説明するも青柳はまだわかっていないらしい。

 仕方ないので俺が、

「海外の映画でヒーローモノやSF作品って、宇宙空間や特殊な空間での戦闘シーンの撮影は、よくオールグリーンのセットで行われたりするだろ?」

「ああ、はい」

「VFXは一部を……例えば一部分の足場とか壁などを本当に作り、それ以外を……背景とかを後でCGを付け足すんだよ」

「んん!? それってSFX……では?」

「よく混同されるけど違うよ。SFXもセットを作る。でもそっちは丸々ね。違うのはVFXは一部分を作り、後はCGとか別の画像で加工するんだよ」

 青柳はいまいち分かってない顔だが、

「なるほど。それでそのセットを作ってる会社に先輩は入社するってことですか?」

 VFXの理解は捨てたらしい。

「まだ確定はしてないがな」

「でもあの沙霧八郎太でしょ。いいな〜」

 実里川は羨ましそうに言う。

「有名な人?」

「だからVFX界では有名な背景画家よ」

「背景?」

「撮影後、背景を付け足すのよ」

「背景デザイナーみたいな?」

「そんなもんだ」

 そう言って俺は缶ビールを飲む。

「気難しい人って聞きましたけど、どうやって仲良くなったんですか?」

 実里川が俺に聞く。

「仲が良いわけではないよ。他より距離が短いってことだよ」

「性癖が同じとか?」

「なんでだよ!」

「だって気難しい人だって。そういう人と仲良くなるには同じ性癖でないと。先輩も風景画が上手いじゃないですか?」

「得意であって性癖ではないし。てか、なんで風景を上手く描けたら性癖なんだよ」


「バーベキューはどうだった?」

 今度はこちらが聞きたいことを聞いた。向こうが聞くことは聞いたし、後はどうしようと迷ってたので、繋ぎとして俺が質問した。

「ええ、まあ」

 青柳はぎこちない作り笑いで答える。

 ああ、そうか。こいつらからすると俺は誘われていないのでバーベキューのことは文句のように聞こえたのかな?

 少し逸らすように、

「途中から穂乃果先輩が来たぞ」

「飽きたからでしょ?」

 実里川がすぐに答える。顔は赤い。酔いが回ったのだろう。

「飽きた?」

「結構人数多かったからあまり肉が回ってこないし」

「でも人が多いと話題も色々あっただろう?」

「基本前田先輩が中心に喋ったり、周りをいじったりとかだもん」

「どんなことを話してたんだ?」

「さあ? 忘れましたね」

 と言い捨て、実里川は缶ビールに口付け、ごくごく飲む。

 忘れるってことは面白くなかったってことかな? それとも逆に言いたくもないってことかな?

 それから沈黙が続き、何か話題はと考えていたら青柳のスマホから着信音が鳴る。

「あっ、前田先輩からだ。ちゃっとすみません」

 と青柳は中腰で台所に向かう。そして相手に二、三返事をして、戻ってきた。けど座らず、

「すみません。ちょっと呼ばれたので出ていきます」

 と言って青柳はそそくさと部屋を出て行く。

 おいおい彼女を置いてけぼりか?

 実里川はドアを少し意味ありげに見つめてから、急に目くじらを立てて、つまみをごっそり手で掴んで口へと放り込む。そしてバリバリと食べ、ビールで胃へと流し込む。

「なんなんでしょうね。まったく」

「さあな? 二次会の誘い?」

「私を置いて? 違いますよ。てか、二次会はもう始まってますよ。あっ、一部の男だけの二次会ですけどね」

 と言って実里川は鼻で笑う。

 一部というと前田を中心としたグループかな? もしくはこのアパートメンバーかな?

「女性陣は?」

「穂乃果先輩達は普通に帰りました」

 女性陣であって、別に穂乃果先輩のことは聞いていないんだけど。

「たぶんこっちに来てるかなと思ったりしたんですけど、それもありませんでしたね」

「なぜこっちに?」

「休憩に」

 まあ、アイスもあるし休憩に来るのかな。

「先輩のせいですからね」

「俺の?」

「そうですよ。でも、悪いのは前田先輩なんですけどね」

「じゃあ前田に言えばいいじゃないか」

「一応大学の先輩ですし」

 と実里川は視線を壁に向ける。唇を尖らせ、手に持つ缶を小さく揺らす。

「俺もどちらかというと被害者だぞ」

「ですね。でも、『はいそうですか』とはいかないんですよ。せっかく良い関係性だったのに」

「良い関係性? どこが? 居心地悪かったぞ」

 俺はつまみを口へと放り投げる。

 実里川は返事をしなかったが、目で「あなたが美大生でなく専門学校生だからでしょ」と訴えてくる。

 それからお互い、他愛無い会話をしてつまみを食べてはビールで流し込む。


 青柳は少し経ってから戻ってきた。

「何の呼び出しだったの?」

 実里川が聞く。そして三本目の缶ビールを開ける。

 青柳はすぐに実里川を連れ、ここを出ようとしたかったのだろうが、缶ビールを開けたことにより、青柳は仕方なく腰を下ろす。

「忘れ物があって、誰のかって話です」

「忘れ物? どんなの?」

「……シュシュ。ピンク色のさ。たぶんバーベキューの時に使ったのかな? 誰のか分かる?」

 青柳はスマホ画面を実里川に見せる。どうやら件のシュシュを撮ったものらしい。

「さあ?」

 スマホ画面を凝視して実里川は首を傾げる。しかし、その顔は何か知ってそうな顔だった。

「そのシュシュは? 今、先輩の部屋に」

「じゃあ、後で取りに行きましょ。私が女性陣に聞いて、持ち主を見つけたら返しておくよ」

「分かった」


 後日、穂乃果先輩がやって来た。

「暑いわねー」

 扇風機の前で胸元をはためかせて先輩は言う。風で髪が後ろへと靡く。それを見て俺は鯉のぼりを連想した。

 穂乃果先輩は卵色のポーチからミニタオルを取り出して首元を拭く。

「アイス食べます?」

「うん。頂戴」

 俺はソーダ味のアイスバーを二本持ってリビングに。

「どうぞ」

「ありがと」

 先輩は笑顔で受け取る。

「ねえ、私の髪エロい?」

「は?」

 唐突な質問で俺は疑問の声を出した。

 エロい? どういうこと?

 俺は座り、先輩の髪を見つめる。

 先輩の髪は黒くて長くて艶があり、絹のように綺麗だがエロさは感じられない。

「綺麗とは思いますけど?」

「ほら美術家って変な性癖の人が多いじゃない」

 と先輩は笑う。

「偏見ですよ。それ」

「そう?」

 そして先輩は包装を破いて、アイスバーを取り出します。

「そういえば先輩、この前のバーベキューでシュシュ使いました?」

「使ったよ」

 先輩はアイスバーを舐めながら答える。

 俺も包装を破いて、アイスバーを取り出す。

「忘れたりは?」

「したした」

 ということはあれは先輩のだったということか。

「そのシュシュ、実里川が……」

「うん。捨てた」

「…………へ?」

「だって前田君の手に一度渡ったでしょ? ナニされたのか分からないし。それって気持ち悪いじゃん」

 と先輩は嫌な顔して言う。

 ……ナニと言ったの? ん? 聞き間違いかな?

「……ええと、シュシュで何をするんですか?」

「自分のに括り付けて扱くでしょ?」

 先輩はアイスバーを咥えて、右手親指と人差し指で輪を作り、その右手を上下に振る。

 それが何の動作が理解し、かつナニがどういう意味かも知った。

「しませんよ。そんな気持ち悪いこと。それにたぶん痛いでしょ? ありえませんよ」

「やったことある?」

「ありません。だからたぶんって言ったんですよ」

「でも、美術関係の人って変な性癖の人が多いからね」

「もう、先輩。さっきからなんですか。その偏見は」

「いやー、結構多いよ。髪を緑やピンクに染めたり、コスプレみたいな服を着る人とかいるし」

「感性が強いだけでしょう」

「そっちは変わった子いないの?」

「まあ、クセのあるのは何人かいますけど、基本は普通ですよ。でも、アニメーション学科ならオタクやコスプレ好きな奴もいますね」

「まだ普通ね。こっちは意識高い奴と性癖全開のやつばっかよ。前田君だって一見普通に見えても絵を見ればどんな性癖か一発で分かるわよ。あと前田君は意識も高いからね。ダブルなんてクソやばいわ」

 穂乃果先輩は眉間に眉を寄せて言う。

「で、シュシュを捨てたと」

「そうよ。気味が悪いもの。その日のうちに捨てたわ」

「でもバーベキューの後、実里川が取りに行ったんですよ。二次会もあったから変なことはなかったのでは?」

「でも匂いを嗅いで……ああ! キモ! やだやだ」

 想像したのだろうか。先輩は嫌悪の顔をする。


「性癖か」

 穂乃果先輩が帰った後、俺はぽつりと呟いた。

 そして床に寝転び、先輩が座っていた座布団に頬を当てる。

 温もりが残っていた。それはここに先程まで先輩のお尻があったという証明。

 心臓がうるさいくらい高鳴る。

 俺は先輩のお尻を夢想する。

 これは性癖というか変態だ。

 先輩が急に戻って来れないよう鍵もした。カーテンも引いた。

 だから俺は遠慮なく鼻を座布団に押し付け、息を吸う。いや、嗅ぐ。

 ふと、田山花袋の「蒲団」を思い出した。

 人は愛すべき人に対して理性を失う。ことさら、周りに人がいないなら尚更。

 ああ。こんな俺を知ると先輩どう思うのか。前田のように嫌うのか。


               

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