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 ナポレオン・ボナパルトは、セント・ヘレナ島で息を引き取った。実に不思議な死に際だったと、島の監視役は語った。


 彼の死後、混乱に陥るフランス国民は、彼を醜く罵ったり、過剰なほどに称賛したり、自分の思うように彼を評した。




 その日は、雨がようやく止んだ後の、じめじめとした雰囲気が残っていた。とあるパリの貴族が、有名な画家の下を訪れた。


「お久しぶりです。お元気ですか」


 質素な造りの戸を叩くと、中から立派な老人が出てきた。頭髪は薄く皴も濃いが、一目で元気であることが分かる。


「おやおや、お久しぶりですな。まぁ、相も変わらずですよ」


 彼の名は、ドミニク・アングル。言わずと知れた天才画家で、パリの国際博覧会に出展するほどの腕前だった。


「ちょうど今、新しい絵を描いているんですよ。残念ながら、まだまだ描き途中なもんで、お見せすることはできないんですけどね」


 今年で八十二になる画家が、今なお精力的に絵を描き続けている。その生き様に感心しながら、貴族は作業部屋を見回した。特に依頼があったわけではなく、何となく、話し相手がほしかったのだ。パリの貴族と天才画家は、その程度の仲だった。


「おや、あれは……」


 貴族が見つけたのは、ロマン主義的な絵画だった。ごつごつとした岩場の中で、竪琴に体を預けながら、一人の詩人が眠っている。その上では、まるで彼を見守るように、兵士や女性が浮かんでいた。


「ああ、これね。ナポレオン陛下に依頼されたものなんだが、陛下がお亡くなりになった後、ローマ教皇からバツを食らいましてね。こういう異教じみた絵は、カトリックには不要らしいわい」


 それは、かの有名な物語だった。貴族には、すぐに分かった。


「もしかして、マクファーソンの『オシアン』ですか?」

「ああ、そう、そう。陛下は『オシアン』にお熱でね、私が描いた絵の他にも、こういうのが何枚かあったんだろうよ」


 アングルは、絵画の端に手を触れた。愛おしく撫でるようにも、冷たく軽蔑するようにも見えた。


「そんなに、お好きだったんですか?」

「そりゃあ、もう。ただの絵描きの私にだって、その愛が伝わってくるほどでしたから……」


 そこまで言うと、アングルは少し、言葉を濁した。何か予期せぬ悪いことを、ふと思いついたようだった。


「……本当に、憑りつかれているみたいでしたよ」

「憑りつかれる、ですか……?」


 アングルは遠くを見つめた。自らが手掛けた大作の、さらにその先を。


「マクファーソン……、いや、それよりももっと大きい、漠然とした世界観に」


 絵画の中のオシアンは、顔を伏せて眠っている。だから、誰にも分からない。その表情が、如何様なのか。


「『オシアン』ってのは、本当かどうか、分からないんですから。こういうことを言うと、怒られますがね。私が思うに、陛下はまんまと、嵌められてしまったのかもしれませんな」


 ジェイムズ・マクファーソンの『オシアン』。それは果たして真実か、それとも虚構にすぎないのか。もし虚構であるならば、それを信じた人々にとって、「真実」とは何であるのか。


「……つまり、ナポレオン・ボナパルトは、『オシアン』に踊らされていた、と?」

「まあ、そうとも言える、ということです。何せ、彼がこれだけ傾倒しなければ、『オシアン』は今よりいくらかは、無名だったはずですから」


 彼がのめり込みさえしなければ、私もこの絵を描かなかった。アングルはそう言って、重たそうに腰を上げた。絵画のオシアンを見下ろすように、ゆっくりと。


 随分と時間が過ぎたようで、空はすっかり赤くなり、大きな夕陽が落ちていた。

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Le Songe d'Ossian 中田もな @Nakata-Mona

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