ᚕ ᚕ ᚕ ᚕ

 軋む体の落ちた先は、冷たい海の底ではなく、荒い木目の床だった。体を起こした途端、記憶が鮮明に蘇る。ここはパリではない。別れを告げた先にある、絶海の孤島セント・ヘレナ。


 皇帝の座から引きずりおろされたのは、一体いつのことだったか。実におかしな話だが、パリで築いたあの誉れが、つい最近のように感じる。最早、数年も前のことだ。


 国民は激怒した。ナポレオンの戦争には、もううんざりだと。事実、彼は皇帝である前に、一人の軍人であった。彼は何度も戦った。だが、彼が凡庸だったのではない。困難なことが多すぎたのだ。大敗を喫したのち、彼は母国から見放され、イギリスの手によって流刑にされた。


 軍人としての威光も、皇帝としての名誉も、霧のように霞んで消えた。輝きを持つ全てのものは、フランス本土に置き去りにされた。何よりここは、煌びやかな世界からは遠すぎるほど、暑くて寒くてみすぼらしい。彼は具合が悪くなった。つながらない思考回路で、気を休めることに徹し始めた。


 この島では、彼は捕虜として扱われた。監視は彼の意向を無視し、厳格なルールを守るように強要した。筆舌尽くしがたい、屈辱。実情はともあれ、彼はそのように感じた。


 ナポレオンは思った。この島の監視役は、如何せん信用ならない。あの威張りに威張った皇帝が、落ちぶれたと思っているのだろう。ひょっとすると、無様な生贄だと嘲笑って、毒でも盛ってくるかもしれない! 甚だ呆れる話だが、やつらはそういう精神なのだ。


 目的もなく、外を見る。天気は荒れて、風が強い。外に出ても、何もできない。何もすることがない。ナポレオンはため息をつき、手元の『オシアン』に手を伸ばした……。




 また『オシアン』だ。


 いつも『オシアン』だ。


 必ず『オシアン』だ。


 決まって『オシアン』だ。


 変わらず『オシアン』だ。


 ……何故か『オシアン』だ。




 彼は本を愛していた。だから、彼は『オシアン』を愛していた。もし、それ以外に、理由があるとするならば。彼は一体、何を愛していたのだろう。


 愛した者は、大勢いた。美しい、ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ。純真な、マリア・ヴァレフスカ。その他の、可憐な愛人たち。誰一人として、ここにはいない。残されたのは、古く汚れた『オシアン』のみ。




 ――淡い夢を、思い出した。小舟に乗った、友人の顔を。




 彼はいつも、穏やかだった。優しい顔で、笑みをたたえて。


「ああ!! 馬鹿なのは、一体誰だ!! 私だ!! 愛情を履き違えた、この私だ!!」


 ナポレオンは哄笑した。不審がる監視役も、驚いた顔の雑用係も、何もかもを無視して。


 ――ナポレオンよ、何をぐずぐずしているのだ。私には、これがある。……いや、これしかない! これしかないのだ!


 ナポレオンは飛び出した。全ての制止を振り切って、強風の中を駆け抜けた。


「やつは言ったぞ!! 私の傍にいると!! 私を迎えるために、いつも傍にいると!!」


 どこをどう走ったのか、全く定かではない。気がつくと、そこは鬱蒼とした森だった。見覚えのある、霧がかかっていた。


「オシアン!!」


 彼は思い出していた。故郷の島の奥にある、あの泉の傍のことを。


「オシアン!! 早く出てこい!!」


 そこには、盲目の詩人がいた。竪琴に体を預けて、彼が来るのを待っていた。


「オシアン!! この偉大なナポレオーネ・ブオナパルテの前に、早く姿を現せ!!」


 雨脚が強まり、地面がぬかる。しかし、彼は叫んだ。この島の誰よりも、いっそう大きな声で。


「私は務めを果たしたぞ!! 英雄として、後世に名を残すために!!」


 ナポレオンは、生き続ける。例え命がついえても、語る者がいる限り、彼は存在し続ける。まるでジェイムズ・マクファーソンが語った、詩人オシアンのように。


「早く来い、オシアン!! この私を、あるべき場所へ導け!!」




 ――厚くかかった曇天から、一筋の光が差し込んだ。天から鳥が舞い降りて、降り注ぐ雨を振り払う。その先には、愛する友人がいた。




「ナポレオーネ」


 友人は、彼を迎えに来た。英雄として、導くために。


「将軍!」

「ボナパルト将軍!」


 ナポレオンの名前を呼ぶのは、戦争で亡くなった盟友たち。懐かしい顔の一人ひとりが、英雄として名を連ねていた。


「さあ、おいで。君も、英雄の一員だ」


 オシアンは、両手を広げた。その後ろには、スコットランドのフィンガル王がいた。アイルランドの勇将・クフーリンもいた。


 全ての英雄が、そこにいた。彼を迎えるために、そこにいた。

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