ᚕ
ナポレオンは、大人が二人座れる程度の、粗末な小舟に乗っていた。ぽっかりと穴の開いた洞窟に向かって、心地の良い速度で進んでいる。
「見えるかな、あそこの岩。六角形の柱が、洞窟を囲んでいるだろ? まるで、魔法みたいだ」
盲目のオシアンが、櫂を使って岩肌を指した。洞窟の壁に並ぶ、六角の柱。彼の言う通り、不思議な力によって作られたようにも見える。
「溶岩が冷えて固まるときに、あの形に縮んだのだろう。魔法でも何でもない」
「へぇ、そうなんだ。ナポレオンは、物知りだね」
ほんの少しの力だけで、舟は面白いほどに水を切る。やがて洞窟の中に入ると、辺りは神秘に包まれた。これが夢の世界であると、容易く信じられるぐらいに。
「ここは、幻想の世界か? それとも、現実にある場所なのか?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。君が信じることが、君の現実になるんだから……」
オシアンは黙った。静かに耳に手を当てて、何かを聞くような仕草をする。
「ほら、耳を澄まして。ヴァイオリンの音が、聞こえてくる」
彼は言った。タイトルは、『フィンガルの洞窟』だと。重なる弦の音が、舟に当たるさざ波のように、遠くに響いては消えていく。
「聞いたこともない。だが、『フィンガル』という名は親しい」
「そうだろうね。だって、この曲が世に出回るのは、もっと後の話だから」
……実におかしなことを言う。いや、そもそも夢というものは、このようなものだったか。
「ほら、この本も読んでごらん。作者はオスカー・ワイルド。オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド」
「ふん、またフィンガルか」
表紙の文字は外国語で、何と書いているのか読めなかった。明らかに分かる矛盾点は、出版年が数十年後であることだった。
「……何故、おまえは。このようなものを、私に見せる」
「何故って? 教えてあげるよ。君の愛するべきものは、ここにあるってことだ」
芯の通った声で、オシアンは言った。表紙の「オスカー・フィンガル」を、『オシアン』を縁とするものを、白い指でなぞりながら。
「君は『オシアン』を愛してくれた。僕には分かる。君の愛は、本物だって」
「愛? 本物の、愛だと? 馬鹿だな、おまえは……」
「その言葉、君の本心じゃないね。だったら何で、僕を夢に見るのさ」
ナポレオンは、反論しようと口を開いた。……しかし、詰まって声が出なかった。しばらくは、呼吸を整えるので精一杯だった。
「……幻の分際で、知ったような口をきくな。おまえに一体、何が分かると言うのだ」
思わず、声が震えた。苦しいのは、歳のせいではなかった。
「君はさ。本当に僕のことを、ただの幻だと思っているのかい? 君の知らないことを、こんなにも知っているのに?」
……先ほどから、頭が痛い。訳の分からないことが、起こりすぎている。
「僕は、君の弱さが生み出した、儚い幻じゃないよ。君が僕を愛してくれるから、僕は君のところに来た。君が僕を思い出すたびに、何度も、何度も……」
「黙れ……!」
本当に、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。オシアンの輪郭も、背景の洞窟も。全てが全て、歪んで見える。
「ナポレオーネ」
友人は、懐かしい名を口にした。それは、故郷の響きだった。
「僕はいつでも、君を見ている。英雄として、迎えるために」
――そのとき、小舟が大きくぐらついた。ナポレオンは投げ出され、深い海に沈んでいった。
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