清家准教授と私 ep2

黒っぽい猫

第1話 清家准教授の過去

政治学の教官、清家准教授は単位認定の厳しさと時間厳守で学生の間では敬遠されがちだったが、講義にも研究にも熱心な教官だった。



清家先生は講義の終わりに毎回質疑応答の時間を取った。



第1回目の講義のとき、何に関しての質問だったか忘れたがある学生が清家先生に意見を求めた。清家先生に質問する勇気があるのはごく一部のまじめで優秀な学生だけだったから、その学生が質問した事項も一般的な知識に関する質問ではなくかなり踏み込んだ内容の質問だった。



清家先生はまっすぐその学生を見て言った。



「いい質問だ。君の質問に答える前に君の名前と君自身の意見を聞こうか」


「名前はナカハラです。僕の意見を言うんですか?」


「そうだ、ナカハラ君。まず君の意見を聞いてから質問に答えたい」


「僕は先生の意見を聞きたくて質問したのですが?」


「その質問に答えることは僕の価値観と信条を述べることになる。他人に価値観や信条をたずねる場合、まず自分の意見を述べるのが礼儀というものじゃないか?それについて君はどう思うか。まずそれを聞きたいのだが?」


「僕は…まだ意見というほどのものを持っていません。先生の意見を聞きたいのです」


「そうか。では君自身が自分の意見を持ってから次回に質問しなさい。君が自分の頭でよく考えて自分自身の意見と主張を述べてくれたら君の質問に答えよう」


「質問するのに僕の意見が必要なんですか?」


「君は受講生だが君の質問は僕の講義内容に関して単なる補足を求めるものじゃないだろう?君は僕に意見を求めている。僕に意見を求めるということは、君と僕とは対等の関係だ。まず自分自身の意見を述べなさい。それによって僕の答え方も変わってくる」



広い講義室は緊張した沈黙につつまれた。



「わかりました。次回までに自分の意見を準備してまた質問します」



ナカハラという学生はそう答えてその日の講義は終わった。






そんなふうだから、清家先生に質問するには覚悟が必要だった。ただし講義以外での清家先生は気さくでユーモアのセンスのある教官だった。



講義終了後の学生との会話で話題が人権に及んだ時、清家先生は「人権とは、社会的に許容される範囲の個人の我儘である」と説明したことがあった。清家先生は人権とは我儘であると言うのだ。言論の自由とは他人の悪口を言う自由であり、表現の自由とはコスプレの自由だと言うのである。ジョークも含まれるが面白い説明だと私は思った。






居酒屋で清家先生を囲んで飲み会を催した際にこんなやりとりがあった。



私が清家先生のグラスにビールを注ぐと、清家先生はこう言った。


「今のお酌は、教官の俺に対してか、男の俺に対してか?」


「え? そんなこと考えたことありませんけど」


「そうか。学生として教官の俺に対してお酌をするのはいい。だが、女として男の俺に対してお酌をするのなら、俺は断固拒否するからな」


「おっしゃってる意味がわかりませんよ、先生。もう酔ってるんですか」


「いや、これは大事なことだ。昔、俺がゼミの学生だったとき、飲み会での女子学生の役割は男子学生のお酌をすることだった。俺はそれが嫌で仕方なかった。なんでそんなことするんだと親しくしてた女子学生に詰め寄ったこともあった。その女子学生は場をなごませるためのコミュニケーションの手段だと笑って答えたんだが、俺は納得できなかった」


「どうして納得できなかったんですか?」


「ゼミの仲間は学問の仲間だろう?男女の区別なんてないはずだろうが。女が男に酒のお酌をするなんてのは、そうしたことを職業にしている女がやるサービスであって、同学の士がやることじゃないだろう?俺はそう思ったんだ」


「ずいぶん理屈っぽい学生だったんですね」


「そうか? 俺は今でも自分が間違ってるとは思わんがな」


「まあ、そんなこと言わずにおひとつどうぞ」


「いや、今度は俺のほうがつぐ番だ。まあ、飲め、保科」


「はい、ありがたく頂戴いたします」私は笑って応じた。


「うむ。まあ、今のはちょっと理屈っぽすぎたな」



清家准教授は上機嫌でカラカラと笑った。






そんな清家准教授と私が珍しく二人でプライベートな会話をしたことがあった。



清家先生は学生結婚をしていたのだった。奥さんは大学の同級生だったが、付き合っているうちに奥さんが妊娠してしまった。先生は卒業後にいずれ結婚するつもりだったから、深く考えずに奥さんのご両親に会いに行き事情を説明して結婚の承諾をもらい婚姻届を出した。



そのことを先生は深く後悔しているという。



ひとつは自分の不注意で付き合っていた彼女を妊娠させてしまったこと。もうひとつは先のことを考えずに婚姻届を出してしまったこと。先生も彼女も大学院に進学するつもりだったのだのだが、彼女は妊娠したことで進学をあきらめようとしたのだった。その後ほどなくして奥さんは流産してしまった。そこで先生は奥さんに離婚を提案したという。



先生いわく、彼女は俺なんかよりずっと優秀で才能があった。だから外国の大学の大学院に進学することを勧めたのだという。離婚後、奥さん…ではなく彼女は、外国に渡り世界でもトップクラスの大学の大学院に進学した。そうして今は、その大学の教授を務めているという。



「流産は彼女にとってショックだっただろうが、結果的にそれでよかったと思う。もちろん俺もショックで落ち込んだけどな」



ちょっと憂いに曇った顔で清家先生はうなずきながら言った。



「もし子供が無事に生まれていたら彼女は普通の専業主婦になっていた。そうなっていたら俺のせいで彼女の才能は埋もれたままになっていただろう。それはあまりにもったいない。学問に対する冒瀆だ。流産になった胎児には申し訳ないが、それでよかったと思う」


「先生は奥さんのことを愛してたんでしょう?」


「愛してたさ。もちろん。今でも愛してる。だが、彼女の才能は俺とは段違いだったからな。現に今の彼女は世界でも名の知れた国際政治学者だ。俺は危うくその才能の芽を摘むところだったんだ」


「でも、奥さんにとってそれがベストな選択だったんでしょうか?」


「なぜそんなことを言う?」


「だって、女にとって愛する人の子供を産んで育てることも幸せなことですよ」


「ずいぶん古風な言い方をするじゃないか」


「古風…ですか? 普遍的な価値観だと思いますけど」


「保科はそう思うのか?」


「ええ、そう思います。奥さん…その人は結婚していないんですか?」


「らしいな。講演のために世界中を飛び回ってるからな。結婚どころじゃないんだろう」


「先生はそれでいいんですか?」


「彼女には国際政治学者として今後も活躍してほしいと願ってる。彼女にはその才能がある。彼女の論文を読んだり、記事を目にすると俺は心から嬉しい」


「そういうものなんですか。私にはわからない世界ですね」


「何かを成し遂げるには、何かをあきらめなきゃいけないこともあるってことだ」



清家先生は笑ったが、その笑顔は心なしかさびしそうに見えた。






おわり。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

清家准教授と私 ep2 黒っぽい猫 @udontao123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ