よくあるけれど、あまりない話

@devotion

よくあるけれど、あまりない話

ある男がいた。


彼は愛に飢えていた。

ハンサムで剛健、実業家として何百億もの年商を上げる優秀な父親。

元一流モデルとして一世を風靡した、雪のように綺麗な肌と彫像を思わせるパーツ、完璧に近いプロポーションを持つ、美しい母親。

その娘が2人、明里あかり杏子あんず。彼にとっては、姉と妹。両親の遺伝子を存分に受け継ぎ、学業、スポーツともに他の追随を許さない成績を上げ続け、行く先々で評価を欲しいままにしてきた。


彼はその、非の打ち所の見当たらない家庭にあって、全くどういう遺伝子の悪戯か分からないほどあらゆる能力が低かった。

見た目は凡庸、成績は悪く身体能力も不器用。何をやらせてもパッとしない。ただ幼い頃から、努力を一切厭わないそのひたむきさのみが、一部の心ある大人たちから評価されてきたばかりである。


「君はきっと将来、誰にも負けないくらい強くなれる。そして君はとても優しいよね。強さと優しさを兼ね備えた、かっこいい大人になれるよ」

彼は小学生の時、担任の女性教師にこう言われた。

今、教師を辞して郷里に引いた彼女へと我々がインタビューを試みたところ、彼女は次のように述べたのだ。

「まさかこんなことになってしまうなんて、当時の私は思いもしませんでした。私があの時あんなことを言わなければ、あの子はもっと幸せになれたかもしれません」


彼には幼馴染の女の子がいた。名前は結芽ゆめといった。

生まれた時は隣人としてよく遊んだものだった。

貴族のような生活を好む人間の多く住む地域にいて、幼少期はそれでも彼の凡庸さに気づかず、打算ぬきで毎日ともに時間を共有していた。

大人になるにつれて、彼の愚かさが目立つようになると、結芽は彼に酷い言葉を投げかけるようになった。

「あんたなんかと幼馴染だったなんて信じられない。気持ち悪いのよこのグズ。記憶を消したいくらいよ。二度と私の目の前に現れないで」


家族からはもっと酷い言葉を浴びせられ続けていた彼であっても、これには堪えた。

そして彼は反省した。結芽を勝手に心の拠り所にしていた自分が悪いのだ。ろくに努力もできない、しても成果の上がらない自分のことなど忘れて、結芽は幸せになるべきだ。

彼は幼心に結芽のことを好いていた。いたからこそ、結芽は自分といては幸せになれないと思った。だから、身を引いた。たったそれだけのことだ。


「いつになったらお前は俺たちのように素晴らしい功績を上げられるんだ。信じられないことに、お前は何度遺伝子検査をしても俺たちの子供だ。だったらお前が優秀でないのは努力が足りないせいだ。この怠け者。罰として今日は飯を抜くぞ。お前なぞに使う金がもったいない」

「私の血を分けた子供のくせになんて不細工なのかしら。明里も杏子もこの間芸能事務所からスカウトが来たのよ。まあ当然といえば当然だけれど、あなたが人を惹きつけるような美貌がなかったとしても、せめてもう少し整った顔立ちでいられなかったのかしら。見た目だけじゃない、勉強も、スポーツもダメ。あなたの取り柄って何よ?」

「お前はいつも生徒会で評判だよ。もちろん悪い意味でね。私はいつになったら、無能な弟の話を一々聞かされる地獄みたいな日々から開放されるわけ?お前なんかいなければよかった。間違って生まれてきたんだ」

「あんたみたいなのを兄貴だなんて呼びたくない。あたしは努力して、お姉ちゃんに負けないように、お父さんやお母さんを喜ばせられるように頑張ってここまで来たのに、あんたがのうのうと生きてられるのが心底ムカつくんだよね。さっさと出ていってよ。お父さんもあんたのこと穀潰しって言ってたのに、まだ身の程わきまえられないの?」


ああ、まただ。どうしようもない過去の思い出が木霊する。


彼は中学生に上がったころから、持ち前の努力が少しずつ功を奏してきたとみえた。

目に見える形で成績も向上、高校入試直前の模試では全国第5位。大学入試の全国模試では国内13位。

運動では部活動にこそ入らなかったものの、勉強の合間に欠かさず行ってきた日々のトレーニングは体力テストに反映された。

それでも姉妹は同じ模試で全国3位以内の成績を残した。ここでも彼は姉妹に敵わず、故に家族の風当たりは今まで通り辛辣であり、まして幼馴染とは完全に疎遠になっていった。

同じ中学、同じ高校に通い、ともに国内最高峰の大学に進んだというのに、どういう訳だか幼馴染は彼を徹底的に無視したのである。


血のにじむような努力の果てに、彼は一流商社に入社した。

慣れない仕事内容で、社内の同期より抜きん出た業績を残すことはできなかったものの、誠実で向上心の強い彼はその堅実な仕事ぶりから、他社の信頼をよく得ていた。

愚かにも不用意なリスクを取って大失敗し、泣く泣く辞職していく同期たちを尻目に、いつしか彼は長く生き残り、ある日とうとう昇進を打診された。

折しもその時、彼に接近してきた一人の女性がいた。彼より3歳年下の、会社のアイドルのような子。美幸みゆきと呼ばれた彼女は、周囲から「妹みたいだ」と可愛がられて、いつも誰かに仕事を肩代わりされていたという印象が強い。逆に言えば、彼がそれぐらいしか美幸のことを見ていなかったのは、ある意味不幸であったとも言えるだろう。

彼の人柄に惚れたと、美幸側からの猛アプローチの末。

新郎側の家族が一人も出席しないという異例の式を挙げて結婚した。


彼にも人並みの性欲がなかったわけではない。特に彼は、家族から愛されなかった哀れな子。温かい家庭に対するあこがれは人一倍強く、勇気を出して初夜を誘った。彼は努力の鬼ではあるが、自らの意見を述べるという点に関してはこと今までの経験から自信をすっかり亡くしていた。

それでも勇気を振り絞って誘った。

すると返ってきた言葉はこうであった。


「やだなあ、先輩。わたしは先輩の子どもが産みたいわけじゃないんです。わたしはただ、先輩なら安心かなって思っただけですよ。浮気しなそうだし、将来も安泰だし、その為ならご飯くらいは作ってあげてもいいかなっては思ってますけど。だから、セックスは正直したくないです。それに子ども産まれちゃったら、今までよりもっと大変になりますからね。頼りにしてますよ、せ、ん、ぱ、い」


彼は翌朝出社しようと家を出て、その途中で泣いた。

この時ばかりは自分の不運を呪った。

そう、彼は決して悪い人間ではない。ただ運がなさすぎるだけなのだ。致命的なまでの運の悪さを、努力でカバーできるところはそうしてきた。

しかし周りの人間の心までは。


しばらくして、彼は取引先のひとつ、輸入品を取り扱うある貿易会社の担当者から、不穏な話を聞いた。

「ここだけの話、貴方だからお話しておきますが、まもなく取引をやめざるを得なくなるかもしれません」

何事かと彼が問いただすと、返ってきた答えはこうであった。

「いやね、別にあなたが悪いわけじゃないんです。むしろ、私が職を変えてもあなたとなら取引を続けてもいいと思えるくらいですよ」

「でもね、そうじゃないんです。私の取り扱う商品の輸入元がね、近々戦争するらしいっていうんで、国内にそもそも品物を買い付けられないかもしれないんです。戦争の相手は国境を接している隣国だとかなんとかですけど、日本も他人事じゃないかもしれませんよ。領土問題とか、日本とも結構もめてる国ですからねえ」

……そうか。

彼はこの瞬間、荒唐無稽な話だと頭では処理したが、その実内心では己に待ち受ける運命を悟ったような気がした。

俺は、戦争で死ぬ。

自ら死にに行くのではなく、国家命令にて死ぬ。

俺の人生はもうすぐ終わる。

自分を愛国心に溢れた人間だとは思っていないが、せめて酷いことを言われても家族は家族、それにかつて好きだった幼馴染と妻、それさえ守れれば、俺なんかどうなってもいい。

もとよりいなくてもいい命なのだから。


その後のニュースは、国家の転落を一足飛びで表現していた。

予想通り某国は日本にも宣戦布告。

当初はアメリカが米軍基地から派兵されていったが、やがて援軍と称して自衛隊が出るようになった。

戦線が膠着状態になるにつれ、ニュースは景気のいい言葉ばかりを垂れ流すようになり、その一方でいつの間にか政治争いに勝った女性権利団体出身の議員がこう叫んでいた。

「今こそ男性は戦地に赴くべきです。仕事でも頼りなく、業績をろくに挙げられていない男たちは、せめて祖国のために命を使い果たしなさい」


乾いた笑いが出た。

まさしく俺の事ではないか。

何をやらせてもダメだった俺が、今こそ自らの命に価値を見出す時が来たな。


焦らずとも召集令状は間もなく来るだろう、と思っていたら、果たして徴兵法案は強行採決され、間もなく家のポストに、彼の氏名が書かれた赤紙が届いた。

赤色はアドレナリンの分泌を促し生物を興奮させる作用がある、というが、彼には予想通りの出来事で、心はわずかばかりさえも動かなかった。

どこか優雅とさえ思える手つきで丁重に赤紙を持ち、自宅に入って、妻といつも通りの夕食をとる。

かくして彼は、赤紙の到着を告げた。


「美幸、今日こんなものが届いた」

と彼は事も無げに美幸の前に赤紙を差し出す。

「ニュースは見ているな。女性政治家が頼りない男は戦地に行って戦うべきだとの仰せだよ。俺のところにもこの紙が来たということは、俺はもう生きてここに帰って来れないということだろう。ただ一つだけ安心できるのは、俺がこの赤紙の招集に応じた時点で、美幸には多額の報奨金が支払われるということだ。その金で好きなように暮らして欲しい。新しい男と結婚するも良し、なにか自分で仕事を始めるもよし。一つだけ、俺が死んだあとも美幸は幸せになると約束して欲しい。そうすれば、俺は安心して死にに行ける」


美幸は衝撃を受けた。

新婚当初はああ言っていたものの、一緒に暮らしているうち、テレビやSNSなどで言われるような「悪い旦那」に比べれば自分の夫はずっと優れた人間だということに気がついた。

それは単に安定した収入を持つということにとどまらない。

ふとした瞬間に見せる優しさ。家事を率先して行おうとするいたわりの心。リビングで映画を見ていて、泣き疲れて眠ってしまった時にベッドまで運んでくれたこともあった。その時の、意外とたくましい体つきを朧気ながら思い出す。

かつて美幸が言い放った「安心」の言葉は、彼の外面しか見ていなかった、自らの幼稚な考えから出たもの。美幸はそれを内心で後悔していた。いつ謝るべきかと悩んでいた矢先の、赤紙。

「まっ……待ってよ!どうしてあなたに赤紙が来るのよ!仕事でも優秀な業績を挙げてるんでしょ!?あなたが死ぬなんて、会社にとっても、この国にとっても損失じゃないの!?会社は止めないの!?あなた本当に、死んじゃうの!?」

「美幸、落ち着いてくれよ。そもそも大企業とはいえ、いち会社ごときが国に異議申し立てしたところで法律が変わるわけじゃないだろ。それに赤紙はランダムに選ばれるらしいから、俺である必然性もないんだ。むしろ変に選ばれる方が俺は嫌だね。直接国から、お前は本当にいらない人間だ、と名指しで否定された気になるからさ」

美幸はそれでも納得がいかなかった。それは打算によるものではない。いつしか、美幸の中には、彼をができていた。しかしてその終わりは、美幸自身にとっても全く予期せぬ形で訪れたのだ。


「嫌……嫌だよ……行かないで……」

気がつくと美幸は涙を流していた。アイドルのように愛くるしい顔立ちは、ほんの数年歳をとったところで衰えるものでは無い。まん丸の大きな目から零れる涙を見て、泣き顔も絵になるといえばそれまでだが、いまの美幸には不思議な、庇護欲をかきたてるような魅力が備わっていた。

「私、あの時言ったことを後悔してるの。一緒に暮らして、あなたのこと、本当に好きになっちゃった。あなたがそうしたいなら、私、あなたの子供、産みたい。許されるなら、いっぱいセックスしたい、してほしい。あなたが望むどんなことでも、私してあげられるよ。だから、そんな赤紙なんか破り捨ててよ」

泣きじゃくる美幸の肩にそっと手を置いて、彼は努めて穏やかにこう告げた。

「美幸、気持ちは嬉しい。最期に君からそう言って貰えて、俺は幸せ者だ。でも、もし子供ができてしまったら、俺は死の間際に後悔してしまう。霊とかなんとかは信用していないけれど、未練を残したまま死んで、成仏できなくなるかもしれない。それに、シングルマザーとして子供を育てながら生きるより、子供のいない、俺に縛られない状態で生きていく方がずっと楽だと思う。だから、今は俺の方がセックスを拒否させてもらいたい」

彼は彼なりに、美幸を想っていた。

美幸のためを思って、彼は跡形もなく手を引こうとしている。

それがまたどうしようもなく、美幸の心を傷つけた。

この傷は彼のせいじゃない。かつての愚かだった自分が、今ここに現れて、美幸の心を八つ裂きにしていくのだった。

部屋を震わせながら号泣する美幸のからだを、彼はただそっと抱きしめ、美幸が泣き疲れて眠るまで、何度も、何度も、撫でさするのであった。


眠る美幸をベッドに横たえた彼は、ひとつひとつ、自らの荷物整理していった。

これは捨ててもらうもの、これは売ると金になるもの。

もとより勉学と運動にのみ精を出していた彼は、気がつくと趣味らしい趣味を持っていないことに気がついた。

ここまでまっしぐらに人生という道を走り抜けて来て、振り返るとなんと無味乾燥な生き方だったのだと、今更ながらに鼻を鳴らす。

小説は己の興味に沿って買ったものに限ればひとつも無く、まして漫画やゲームなどの娯楽は触れたことさえなかった。両親は姉妹に好きなものを買い与えていたのに、彼にはひとつとしてそうしたものをもらった思い出がなかった。実際、買っていなかったのだ。

まあ身軽でよかったじゃないか、と彼は考えることにした。過去などどうせ死んだら跡形もなくなるのだから、今のことだけ考えていればいい。全く赤紙というのは便利な効果を持っている。

じきに戦争に赴いて死ぬ男の思想としては、きわめて刹那的であった。

美幸を起こさぬようにそうっと、必要最低限の荷物だけを持ってガレージに滑り込み、車のキーを差し込んで回す。

役所に集合するのは3日後だ。その死刑執行猶予の前に、せめて家族に挨拶回りくらいはしていこう。

私はお国のために死にます、あなた方のために命を使えて本望です、と。


実際、彼は家族に対する恨みなど毛ほども抱いていなかった。

客観的に見れば悲惨な境遇ではあるものの、少なくとも成人するまでは屋根を貸してくれ、たまには食事をさせてくれ、そうして自分のために叱咤激励をしてくれた。その恩だけでここまで来れたのだ、と本気で思っている。

人は彼もまた歪んだ思想の持ち主だと恐れるかもしれない。しかし彼はどうしようもないほどに誠実であった。人を悪し様に言うという脳の回路が欠落している、それが彼の致命的な欠陥でもあった。

車を走らせると、やがて懐かしき実家の、大きめの門が目に入る。言うべきことを言って、早く出てこよう。さもなければ情が移って、戦地で死ぬことを躊躇してしまうかもしれないから。


家の前に車を停め、インターホンを押す。見栄えは良くないが、まあ死ぬ間際、これくらいの無作法は許してくれたまえよ、と少し鷹揚に構えた彼が息を整えて待つ。

玄関を開けたのは、歳をとってなおその美貌の衰えぬ、しかし年齢相応に貫禄のついた貴婦人然とした佇まいの。

「お母さん……」

彼が呟くと、母はこちらを一瞥し、みるみるうちに表情を変えて門に駆け寄ってきた。そのまま急ぎ閂を抜いて、勢いのままに息子(とされている)を強く抱きしめた。

「ああ……あんた!帰ってきたんだね!こんなに……こんなに立派になって……」


彼は不意をつかれてその場で固まってしまった。

およそ考えうる母親の行動として最も有り得ない選択肢。

出会い頭に息子を抱きしめるなど、ついぞ今までの人生で行われたことがなかったため、どうしたらよいかわからなかったのだ。

「お、お母さん、痛いよ……離してもらえないかな?」

おずおずと彼が言う。

母はそれを聞いて弾かれたように体を離すと、それでも彼の生命を確かめるように手を握ってこう言った。

「今まで連絡がなくて、ずっと心配していたのよ。さあさ、お父さんもお姉ちゃんも妹も、みんなお家にいるから、入っておいで」

「う、うん、ありがとう……」

何から何まで今まででは想定できないことが次々起こり、彼は言われるがままに敷地を踏むしか無かった。


「おお、帰ってきたのか!お前、大きくなって……」

父の反応は、概ね先頃の母と同じようであった。

一般家庭のそれよりは少し広く、しかし戸建てとしては無理のない範囲に収まっているリビングの、円卓には父と、明里と杏子。

「あー……ただいま?お父さん、あと、ええと……」

「まさかお前、自分の姉妹の名前を忘れて……」

そんな事はありえない。彼は姉妹の名前を一時も忘れたことなどなかった。

「違うよ、ただ、なんて呼んだらいいか……」

それまで俯いていた杏子は、この言葉を聞いてぴくんと体を震わせた。

「あんたを兄貴だなんて思いたくない」

その言葉が、彼に自分の名前を呼ぶことを躊躇わせていると悟り、杏子の目に涙が滲む。

「明里とも杏子とも呼べばいい。お前は間違いなく我が家族の一員なのだから。さあ、椅子に座りなさい」

そうだ、お父さんはいつだって俺を自分の息子だと言ってくれた。その言葉を聞いて、彼は本当に自身が帰るべき場所に戻ったのだという実感を抱いた。

「話はよく聞こえてくるぞ。商社で同期を打ち負かして、もうすぐ昇進するらしいじゃないか。出世争いに順調に勝っているとは、やはり我が息子だったな。今までの努力が実ったのだ、本当におめでとう」

一流商社には一流のコネクションがあり、すると父の元にも情報は自然と流れていく。彼は思い当たる節がないわけでもなかった。

「いや、お父さん、それは違うよ。俺は俺なりにやれる事をやっていただけだ。そうしたら知らないうちに、同期で残ってるのが俺だけだった。ただそれだけだよ」

「ああ、だがな、それを続けること自体が難しいんだと父さんも最近ようやくわかったんだ。誠実に努力を続けること、それ自体が才能なんだとな」

ああ、この言葉をもう20年早く聞けていれば!

彼は少しだけ心が傷ついた気がしたが、これから話すことに比べたら些細なことだと思い直した。

そうして、父と姉妹、いつの間にか円卓に席を設けていた母親に改めて向き直り、姿勢を質した。


「それで……ごめんなさい。今日この家に来たのは、挨拶のためなんだ」

挨拶?と首を傾げた母と姉妹に対して、父だけは流石、実業家として長く生きてきた勘から「まさか……」と声を上げる。

「ニュースは、俺の家族なら当然言うまでもなく見ていると思うけれど、俺のところに召集令状が来た。3日後には戦地に赴きます。そうして、恐らく帰ってくることはないでしょう」

そう言うと俺は、懐に大切にしまっていた赤い紙を広げて円卓の中央に置いた。

その瞬間、今まで沈黙を保っていた姉、明里が「嘘だ!」と絶叫して立ち上がり、彼女の座っていた椅子は転げて軋んだ音を立てた。

明里は学生時代から自慢であるとしばしば口にしていた、その長く美しい黒髪が乱れるのも構わず、彼に急接近する。

「なんで、なんであなたに赤紙が……嘘だよね?嘘だって言ってよ……」

震える声で明里がそう告げる。だが、手に取ってよく調べても、そこに書いてあるのは変更不可能な事実のみ。彼は戦争に行く。それだけがどうしようもなく有った。

「姉さんがそんなに狼狽えるなんて、何があったの?」

「お前は知らないかもしれないが、明里は大学院を卒業して検事になったんだ。そして、ついこの間、あの女性権利団体の掲げる政策に同意する署名を書いたと言ったんだよ。後にニュースを見て、初めて自分が何に同意したのかを知った、とな」

父は悲痛な面持ちで彼に語った。


「じゃあ……私の署名は……巡り巡ってこの子を戦争に送ったってこと……?私が……愛する弟を…….殺したって……?」

明里は最早完全に自閉してしまった。しかし彼はじきに治るだろうと、いささか冷めた目で見ていた。愛する、というのはいくらなんでも大袈裟すぎるし、よく考えなくても、母親も姉も父も変化が急すぎる。いっそ完全に壮大なドッキリであったならどんなに楽か?

俺のいない間に、この家に何があったんだろう。


「……お兄ちゃん、死んじゃうの?」

彼が今日何度目かの「呆気に取られる」をやったところ、今度は妹、杏子からの声が届く。

「あ、ああ、きっと死ぬと思う。ろくに戦闘経験もなく、訓練も積んでいない俺が戦地に行って、役に立つとは思えないよ。赤紙はランダムに送られてきているみたいだし、たぶん俺たちのことだって、戦力として期待はしていないんだと思う」

何度かしていた説明に、自分自身で違和感を感じないほど、彼は馬鹿ではなかった。それならなぜ、赤紙が送られてきたんだろう?

「……私は知ってる。その女性権利団体は、インターネットに毒された人達のエコーチェンバーでできたもの。自分たちの不幸な人生は、全部男性が悪いせいだって勘違いしている、妄想に取り憑かれた集団だよ。女性の権利主張だなんてものじゃない。その人たちは、当初の目的を忘れて暴走した、明らかな過激派よ。権力争いに勝ったから、むちゃくちゃな法案を通したの」

明里がこう言った。

「じゃ、そんな奴らの自己満足のために、お兄ちゃんは死なないといけないってこと!?ありえない!お姉ちゃんどうしてそんなのに署名なんてしたのよ!?」

「私も最初は知らなかったの!こうなるなんて思わなかったのよ!」

姉妹の喧嘩は唐突に始まり、デッドヒートは加速していく。


「やめてくれ!」

俺が家族の前でこんなに大きな声を出せるなんて、と彼は驚いた。

そして彼は気づいていない。彼が今上げた声は、人生の中で初めての、家族の行為に対する異議申し立てであったことを。

「俺は、姉さんにも杏子にも喧嘩して欲しくて召集令状を出したわけじゃない。姉さんは悪くないし、杏子は姉さんを恨まないで欲しい。どう騒いだところで、俺が戦争に行くことは決定してて覆らない。だからせめて、最期くらいは笑顔を見せて送り出して欲しい」

彼は目の前で勃発した姉妹の小さな戦争を前にして、努めて冷静に意見を述べてこの場を切り抜けようとした。この穏やかに見せる技も、商社で働くうちに身につけたスキルだ。

実際は、彼から「姉さん」「杏子」と呼ばれた二人はその嬉しさに、不覚にも感情を抱いてしまい、それどころではなくなったというのが真相だが。

「……本当に、お前は成長したんだな」

父がゆっくりと口を開く。しみじみと、息子を慈しむように。


「……ところで、これだけは聞いておかないと出るに出られないんだけど、俺に対する接し方が変わっていない?前よりも雰囲気が柔らかくなったというか……」

それには家族四人とも答えを用意していて、しかしながら彼には面と向かって言えないものばかりだった。

ただ、家族四人ともはっきりと理解していたことがひとつだけある。今、彼に謝罪せねば一生を後悔のうちに暮らすことが確定してしまうことを。


一家の長として、自分から話さねばならないだろう。

父がまず先に話し始めた。

「私は、お前に強く育って欲しかった。と、最初は思っていたが、それはやがて単なる合理化に過ぎないと知った。本当は、実業家としての驕りが私の中にあったんだ。お前を無能だと詰ったのは、自分の能力を過信しすぎていて、自分のようにできない人間を見下していた、私の浅はかさによるものだ。お前が一流の商社で立派に働いていると知った時、私は鼻が高かったよ。初めはな。だが、それは結局お前の肩書きや外面しか見ていなくて、お前の心と向き合ってこなかったんだと、親として恥ずかしいと気づいたんだ。今まで会社を大きくする過程で、色々な人と協調してやっていかなければ行けないことの大切さを学んだよ。いろいろな人がいて、それぞれに個性があるということを受け入れなければいけないと。だからお前には、きちんと謝っておきたい。本当にすまなかった」

父は深深と頭を下げる。


母がそれに続いて言う。

「私も、自分のプライドをむき出しにして、あなたに強く当たっていました。そもそも、明里があんなものに署名してしまったのは、私の心の中に男性への嫌悪感があって、明里がそれを受け継いでしまったからかもしれないわ。自分の外見にあぐらをかいて、人の心を、権利を傷つけても許されると思っていた。強い男以外は男じゃない、私の選んだ旦那以外は全員いなくなってもいい、だなんて、なんてバカバカしい考え方。あなたにそれを向けてしまったのは、本当に悪いことをしたと思っています。許されなくても、母親として謝らせて欲しいわ。ごめんなさい」

母も父にならい、頭を下げた。


明里が次に続く。

「あなたが実家に帰らなくなってから、どこか寂しい気持ちになったの。私もお父さん、お母さんと同じで、あなたのことを能力でしか見ていなかったし、周りの人間にちやほやされるのを気持ちいいと感じていて、そのためにあなたを邪魔者だと思ったことは否定しないよ。誰かがあなたの居場所になってあげないといけないのに、私はそれができなかった。むしろみんなと一緒になってあなたをいじめていた。私はあなたの姉失格だよ。あなたが許してくれなくても、お母さんと一緒に許されるまで謝りたい。あなたがして欲しいことならなんでもしてあげたい。だからお願い、死なないで。生きて帰ってきて。できるだけ、自分の命を大切にして」

明里は目に涙を溜めながら、彼の手にそっと、そのほっそりした指を重ねた。


杏子はずっと考えていて、最後にようやく口を開いた。

「いちばん驕っていたのは私だよ、お兄ちゃん。私、幼かったから、まだ子供だったから、お兄ちゃんに言っていい言葉と言っちゃいけない言葉の違いもわからなかった。身の程弁えろだなんて、すごく酷い言葉だって。本当はね、私、大学の人間関係で一回失敗しちゃってて、お兄ちゃんに言ったような言葉をぽろっと言ったらすごく嫌われたの。そうなるまで気づかなかったんだ、私って本当にバカだね。自分の努力だけでなんでもやってきたみたいな顔して。こんな紙が来て、お兄ちゃんが死ぬってわかって、今更になって大切な、大好きな家族、お兄ちゃんなんだって気づいたのに、私にはどうすることもできない。ごめんね、ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね」

杏子は、そう、ちょうど美幸のように、愛らしい二つの眼から大粒の涙を流して俺に語りかけてくる。


ああ……

俺は今、家族に愛されている、のか……


今際の際の走馬灯、彼の脳裏に花畑が広がるように、温もりが心を捉えて離さなかった。

ダメだ、このままでは。


「……四人とも、気持ちはありがたいです。死ぬ前にこんな言葉を聞けて、俺はこの家に生まれてよかったって思います。だからこそ、本気で思うんです。俺が戦地に行くのは、この家族を命懸けで守るためだって。俺のちっぽけでくだらないこの命にも、ちゃんと生まれてきた意味と価値があったんだって、召集令状を見て初めて思えるようになりました。本当に、今までお世話になりました。」

彼もまた同様に、深深と頭を下げて最期の挨拶を成し遂げた。

「ダメ!死んじゃ嫌だ!またお兄ちゃんと、い、一緒に暮らしたいのに!いっぱい、いっぱい、今までのことを取り返すみたいに、楽しく過ごしーー」

「杏子!もういいだろう!いい加減にしなさい!」

父が杏子を強く制止した。

「……お前は、私たち家族の誇りだ。自信を持って、行ってこい」

父なりの激励なのだろうと理解した彼は、そっと椅子から立ち上がって、こう言った。

「……はい、お父さん。お母さん。姉さん。杏子。俺、もう逝きます」


玄関先の車にキーを掛けると、軽快なエンジン駆動が再び彼の体を揺する。

この車も売っぱらってしまわないと、明日のうちには連絡をつけて、と考えていると、車の前に両手を広げて立ちはだかる一人ぶんの人影。

「うわあ!」

彼は本気で腰を抜かしかけた。このまま発進していたらと思うとゾッとする。

「ちょ……ちょっと待って!行かないで!お願い!」

またえらく切羽詰った言い方だなと、彼がどこか他人事のように思考してエンジンを止めると、その人影は運転席の窓ガラスに姿を写した。


「結芽……」

初恋の幼馴染は、これもまた美しい女性に成長していた。

お嬢様らしい佇まいは、作法をそれなりにしつけられている証拠。その綺麗な顔とスタイルに合わせて、完成されたある種の美を纏っているかのように思えた。

そのはずで、結芽の家も、我が家に負けず劣らずの大企業勤めの家族を持つ。ゆえに、父に彼のことが知れているならば、同様に結芽にもその話が同じく伝わっていると考えても不思議ではない。

「……久しぶりだな。元気してたか?」

彼は、先程の家族との対話よりも少し緊張している自分を認めた。

「……ええ、それなりに。聞いたよ、あなたが一流の商社に勤めて、とても業績を上げてるって」

「それは光栄だね」

どうしても口数少なく、それゆえにぶっきらぼうに聞こえやしないかと彼は冷や冷やしていた。しかし、別れの挨拶としては、むしろ淡白な方がいいのかもしれないとさえ思われた。

如何せん、結芽にとって俺は恋愛対象外の人間。だったら俺が今ここで死にに行くなどと余計なことを言って、変に傷跡を付けたいなどと考えるのは、浅ましく汚い欲望だろう。彼はそう考えて、他愛もない挨拶で切り抜けようとした。

「もう時間が無いから、行かなきゃいけないんだけど……」

「あ、それはごめんなさい。だけど少しだけ、お時間いただいてもいいかな?」

「いいよ、何?」


結芽はしばらく口をモゴモゴと動かしたあと、突然往来にも関わらず腰を90度に届かんばかりに曲げてお辞儀をして、こう言った。

「あ、あの、子どもの頃、あなたのことを馬鹿にして、無視して、本当にごめんなさい!」

……なんだかデジャビュだ、と彼は思った。ついさっきも四人から立て続けに謝られたばかりというのに。これで全て合わせて六人目だ。神は俺に罪の負債を回収させようとしている?

「ずーーずっと、謝りたかったの。あなたが陰ながら努力して、ここまでの成功を掴んでいたのを、本当は私、知っていたの。あんなことを言っておいて、無視しておいて、本当はあなたの事が気になって仕方なくて。あなたのことをこっそり追っていて、裏で知り合いに遠回しに聞いたりして。会社で知り合った人と結婚したと聞いて、私の初恋が終わったって悟ったの。でも、せめてあなたに一言謝罪して、それで、っ、お幸せに、って言うくらい、許されるかなって」


……ああ、この子は知らないんだ。俺がもうすぐ戦争に行って、そこで死ぬことまでは。


「あなたの幼馴染で、どうして素直になれなかったんだろうってずっと後悔してたの。もっとちゃんと、早い段階で、あなたに好意を伝えられていたらって。あなたが家族からたくさん傷つけられていて、それでも努力をやめなかったあなたを、私が支えることもできたはずなのに、どうして、どうしてって。未練がましくて、人として許されないようなストーカーじみたことまでしちゃって。だから、ううん、でも、何も言わないよ。私は選択を間違えただけだから。ごめんね、でも、きっとあなたは幸せになれるよ。私が大好きになった人だから。えへへ、何言ってるんだろ、ごめんね、忘れて」


彼は無性に切ない気持ちになった。

この子は今、俺を好きと言った。きっと戻らない過去を取り返せないけれど、ほんの少しの未練を昇華したくて、俺が家の前に車を停めたのを見て慌てて飛び出してきたんだろう。

そのいじらしさに対して、このまま報いずに去るのは誠実だろうか?


「……じゃあ、言うまいと思っていたけど、俺からも二つ話がある。ひとつ、俺は小さい頃から君が好きだった」

それを聞いて結芽は、驚きと喜びの入り交じった不思議な表情になった。

「結婚したのはあくまで言い寄られたからで、当時は結芽が俺のことを嫌いなんだろうと思っていたし、もう疎遠になってしまっていたから連絡の取りようもそもそもなかった。でも、今、十何年ぶりの真相が知れて嬉しいよ、ありがとう」

「じゃ、じゃあ、もしかしてーー」

結芽は最早その表情に期待さえ滲ませていた。もしかしたら、妻と別れてーー

「二つ目の話は、ここに来たことと関係しているんだ。俺はさっき家族に別れを告げに来た。ニュースを見ただろ、召集令状が俺のところに来たんだ。妻とは死別になる、もちろん俺の死だよ」

令状を見せられた結芽の顔は、有頂天から急転直下、地獄の谷の底の底に突き落とされたような絶望へと染まっていった。それは彼にもわかった。あからさまな、結芽の心の世界に対するドゥームズデイの衝撃。

「ごめんな、結芽。俺は結局君と一緒にはいられなかった。本当はもっと時間をとってゆっくり話せたらよかったんだが、あまり長くいると情が移ってよくないと思うんだ。だから……ごめん」

彼はそう言うとエンジンをかけ、車をゆっくりとバックさせようとした。

結芽は「あっ、待って!」と追いすがろうとして、車の強い力に一瞬引っ張られて転んだ。せめて最後のキスを……と思ったのかもしれない。しかし、今となっては彼には、結芽との思い出が全て、現世に魂を繋いで離さない鎖のように思えてならなかった。




そうして彼は、戦地に降り立った。

案の定、事前に簡潔にしか伝えられなかった武器の使用法と戦術では到底勝てようはずもない。

商社の同期がほんの数名、同じ隊に所属されたまま、彼はほぼ知らない人間達の中に紛れて、機銃掃射を食らい、儚く死んでいった。

その1年後、明里らが中心となって過激派の女性権利団体に対する反対運動を展開。徴兵制はわずかの期間においてその幕を閉じ、この制度を推進した一部政治家は男女問わず法において裁きを受けることとなった。

やがて戦争は、本土決戦こそ迎えることはないものの、再び多くの戦死者を出し、国内の男性はこれまでの半分近くまで人数を減らすこととなった。多くの女性はこぞって戦地から引き揚げてきた同国の男性に対し、これまでの弾圧を詫びながら歓待をもって迎え入れた。


季節は巡り、ある夏の日。

「お兄ちゃん、今日も来たよ」

戦争以来、毎年杏子は、骨のない墓にお参りを欠かさなかった。

「お父さんもお母さんも、お姉ちゃんもみんな、お兄ちゃんが今頃生きていたらって話ばっかりしてる。でも、お兄ちゃんのことはみんな今でも大好きだよ。もちろん私もね」

水をかけ、花を取り換えて、杏子が立ち上がり振り返った時。

「ありがとう」

と、風に乗ってどこからか声が聞こえた気がした。

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