第3話
落ち葉が水面に円を描く。紺色の水着が窮屈そうに体に沿う。姿勢正しく教師の声に耳を傾ける沙智の背中を見つめる。芯の通った性格が所作にも現れているようだ。見惚れていると腹が唸り声を上げる。空腹は限界に達していた。体の芯から湧き上がる熱。いつ我を失うかわからない。唇を噛み欲望を堪える。教師の号令が聞こえ順に呼ばれ泳ぎ始める。水の中は体の火照りを冷ましてくれるだろうか。光の反射する透明な液体にそっと足を浸す。冷たくて気持ちが良い。音のしない静かな世界。息を吐き少し軽くなった体を曲げる。ザラザラとした壁を蹴ると真っ直ぐに進む。どこまでも流れる色。上を向くと揺らめき白く光る空。
「伊織ちゃんって泳ぐのあんなに上手だったっけ」
「カナヅチだったはずだよね」
「練習したのかな」
「まるで人魚みたい」
「綺麗」
子供の頃、神社の池に落ちてから水が怖かった。口から溢れる気泡。歪む視界。遠のく意識。池を泳ぐ錦鯉に噛まれた傷がまだ残っている。誰かに抱き上げられたはずなのに。近くに人はいなかった。気がつくと池の淵にいて。母が泣きながら私の名前を呼ぶ声が聞こえた。誰に助けられたのかいまだにわからないまま。透き通った液体の中を縦横無尽に泳ぐ。恐ろしいどころかこんなに心地良い場所だったなんて。この静寂の中にいつまでもいられれば良いのに。陸に上がりたくない。笛の音が無慈悲に響きプールサイドに上がる。少し前を歩く沙智が濡れた地面に足を取られ転んでしまう。駆けつけるが痛そうに屈んでいる。擦り剥いた膝からは血が滲んでいた。白い肌を伝う錆色の液体に心奪われる。芳しい香り。一滴でさえ流れてしまうのは惜しい。気がつくと誘惑に身を委ねていた。そっと近づき舌で拭う。後から溢れる雫も残さず啜る。愛おしい幸せな時間。感じたことの無い暗闇に堕ちてゆく。つんざくような悲鳴が聞こえ振り返る。青ざめ恐怖している同級生の顔。沙智の足を撫で傷口を舐める自分の姿が水面に映る。きっとおかしくなったことに気づかれた。一刻も早くここから逃げないと。立ち上がりその場から走り去る。
「伊織!」
沙智の悲痛な叫び声が背に刺さるが。もうここには戻れない。
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