第17話 仕方がないおはなし

 まさか自分のすぐ目の前で風花ちゃんの生の歌声を聞くことになるとは思ってもいなかった。


 少し恥じらうように頬を赤く染めて、『行きたいところがある』なんて言うから、てっきり大人なお店にでも行きたいのかとめくるめく妄想をしていたのだが、どうやら取り越し苦労だった。


 ぜ、全然、これっぽっちもいやらしい想像なんてしていなかったが、ほんの少しだけ……期待している自分がいたような気もするが、まあ気のせいだろう。


 そんなくだらないことなんか……この際、どうだって良い。

 

 なんと言っても、風花ちゃんの透き通るような歌声が生で聞くことができたのだから、俺の妄想なんて瞬く間に掻き消えてしまうことなんて当然の摂理だ。


 それくらに風花ちゃんの透き通るような歌声は力を持っているのだ。

 そう、それはまるでこの世界を照らす陽の光のようになくてならない存在に違いない。

 

 うん、この際だからスマホの着信音から、コンビニの入店音、国会中継のBGMまで全て風花ちゃんの歌声にしてみてはどうだろうか。


 くっそ、俺がこの国を裏から動かすビックブラザーならば絶対に強制的にそうさせるのに……今ほど自分の無力さを嘆くことしかできない日が来るなんて……悔しいぜっ。

 

 てか、小さくリズムを取るたびに揺れる黒い髪が、ふわふわと揺れて可愛いんですけど!


 などとあれやこれやと、風花ちゃんのことを隅々まで観察していたわけだが……残念ながら始まりがあれば終わりがあるものであり、至福の時は終わりを告げた。


「——君に伝えたいんだっ」

「おー」

 

 精一杯の熱意と声援を込めて、パチパチと拍手を送った。


 すると、なぜか頬を朱色に染めて、風花ちゃんが精一杯の弱気な弱音のような本音を呟いた。


「もう、ヒカルくん……凝視し過ぎですっ」


「ご、ごめん……そ、そうだ!風花ちゃんの生歌はスマホでしっかりと録音しておいたから、安心してくれっ!」

「はいっ!?」

「当然、この生歌のデータは家宝にするから!」

「恥ずかしいのでそれだけは絶対にやめてくださいっ!」

「え?いやでも、家宝に——」

「いいから、すぐに消してくださいっ!」

「……は、はい」


 なるほど、どうやら俺は気持ちの悪いことをしていたんだな、と客観視した結果、録音データを削除しすることにした。やはり、録音は良くないことなのだろう。


 ……け、決して鬼のような形相に変わって、今にでも握りしめたマイクをこちらへと投げてくるのではないかと、ヒヤヒヤして即座に消したわけではないのだ。


「ほんとに……もう。ヒカルくんは少しズレているんですから……」


 風花ちゃんはやれやれといった雰囲気でソファーへと腰を下ろした。

 そして、グラスに入った烏龍茶を一口飲んだ。


 先ほどまでぶっ続けで歌っていたが、どうやら一通り満足したようだ。

  

 そして、俺たちの間に沈黙が訪れた。


 隣なのか、向かい側の部屋からなのかわからないが、微かに『SeaSonS』の別の楽曲が微かに聞こえてきた。


 その音がきっかけなのかわからないが、風花ちゃんは口を切った。


「その……本当は怒っているわけじゃないんです」

「え?」

「マイさんたちをナンパしたのことですっ」

「……あ、はい」

「ヒカルくんが不埒なことくらいわかっていましたから!別にそんなことくらいで怒りません……別にナンパくらいでっ!私は怒りませんからっ!」


 えー、めっちゃ睨まれている気がするんですけども……。

 てか、明らかに言葉の節々に棘があるような……?

 機嫌悪いよね……。


 どうやって対処をするべきか。

 そんなことを考えていると、すぐに「コホン」と風花ちゃんは居住まいを正した。


「今日はリハビリだったんです」

「リハビリ……?」

「はい」

「デートじゃなくて?」

「も、もちろん、その意味合いも含まれていましたが、どちらかといえば——私の心の持ちようといいますか……なんと言いますか……」


 言葉尻が段々と小さくなって、風花ちゃんは何かを言い淀むように俯いてしまった。


 表情がうまく読み取れない。

 

 まあ、そもそも国語の読解力の問題は苦手だから、きっと風花ちゃんが顔を上げていたとしても表情を読み取ることなんてできないだろうが……。


 結局のところ俺のできることといえば、風花ちゃんの言葉を待つことしかできない。


 どこかの部屋から漏れ聞こえてくる『SeaSonS』の楽曲や時々誰かが廊下を歩く気配だとか、薄暗い部屋にぽつんとCMが流れているTV……種々雑多な音や色が俺と風花ちゃんを囲っている。

 

 風花ちゃんは何を戸惑っているのだろうか。

 

 やっぱり、よくわからない。


 でも、なぜだろうか。

 

 この沈黙は——気まづさよりも心地よさを感じる。


 それはきっと風花ちゃんから信頼してもらっているような気がしたからかもしれないし、単に密室の暗闇で推しと二人っきりというシュチュエーションに燃えて——萌えているからだけなのかもしれない。


 そんなことを思っていると、ついに風花ちゃんの顔が上がった。

 アーモンド色の瞳には、僅かに決意の色が浮かんでいた。


「その……ハルナちゃんから聞いているかもしれないけど……私、一人で外出するとパニックになって……でも、全然良くならなくて——」


「……」


「誰も私のことなんて……気がついていないことだってことくらい……わかっているんです……でも——」


「大丈夫だから……」


「独りで外出すると……フラッシュバックしてしまうんです。知らない年上の男の人に——」


 風花ちゃんの声が若干震えている。

 それに——今にでも涙がこぼれ落ちてしまうような気がした。


 だからこそ、いくら国語の成績が悪い俺であっても……いや、それゆえに風花ちゃんの身に何が起きたのかくらいのことはわかってしまった。


「風花ちゃんの状況は少しわかったから!だから……これ以上、無理に話さなくてもいい!」


 簡単にわかっただなんてこと言いたくない。

 でも、すこしでも安心してほしくて言葉を返してしまっていた。


「……ありがとうございます」


 そう言って、風花ちゃんは儚げに微笑んだ。


 僅かに震えている身体は、すぐにでも抱き締めてしまいたい衝動に駆られてしまった。


 しかしなんとか最後のところで、理性的で知的な判断を下すことができた。


 まるで弱みにつけ込むような……いや、違う。

 それはきっと誰か知らない年上の男が風花ちゃんに無理やりしようとした最低な事と同じような気がしたからだ。


 でも、俺は決して聖人君子なんかではない。


 だからこれくらいは許してほしい。


 風花ちゃんの小さな手を握りしめた。


 ほんの一瞬だけハッとした表情になったが、すぐに風花ちゃんは小さく「ありがとうございます」と呟いたような気がした。


 ああ、ずっとこの時間が続けば良いのに。

 そう思った。

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アイドルを引退した推しに1年間手紙と現金を送り続けたら、推しが彼女になった。 渡月鏡花 @togetsu_kyouka

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