第2話 ラスト・ワン

 僕はわざと不機嫌そうな声で「今開けますよ」と、ドアの向こうで待つ無遠慮な訪問者に声を掛ける。


 玄関のドアを開けると、そこには見慣れない――有り体にいって奇妙奇天烈な格好をした――全身ずぶ濡れの男がひとり立っていた。


 身長は私よりだいぶ低く、この時代の平均的な女性よりも低いくらいの小男だ。


 外には。空中を自動車が縦横無尽に飛び交っている、いつもと変わらぬ日常があるだけだ。


 しかし、彼にとってはどうだろうか。今までいた世界とあまりにかけ離れた景色に、眉尻をピクリとも動かさないところは、この男の底しれぬスケールの大きさを物語っているかのようだ。


 男は、僕に話しかける前に、この部屋のあるアパートから見える外の景色を物珍しそうにキョロキョロと見回していたが、一通り見終えるとボクに一歩近づいて、聞きなれない言葉遣いで話し始めた。


「そなた、奇妙な出で立ちをしておるが、南蛮の者か?」


 はあ? 


 奇妙なのはあんたの方でしょ? と口から出かかったが、男の堂々とした態度と、腰にぶら下げている長い物が目に留まって思いとどまった。


「ちと、物を尋ねるが。この近辺に厠はないだろうか?」


 かわや? ああ……厠ね、トイレのことだろう。


「ええ、狭い部屋ですが、一応ありますよ」


「そうか、それは助かる。いきなりですまぬが、ちと厠を所望できぬか」


「それは構いませんが」


 ああ、土足で……。


 男は僕が注意をするのも聞かずに、ズカズカと濡れた具足姿のまま部屋へと入り込んでくる。


 そして、トイレのドアが自動で開いたことに大仰な反応を示しながらも、何やらブツブツ独り言をいいながら中に入った。

 

 僕は特段戦国時代マニアというほど、戦国時代に詳しくはないのだが、男の豪華な甲冑を纏ったその出で立ちや、威風堂々とした男のオーラや態度、振る舞い。そして何より、相手を思わず後退りさせるようなそのギラギラした野心あふれる鋭い眼光。


 もし僕の判断に誤りがなければ、ある有名な歴史上の人物に間違いないと確信するに足る存在感をその武士……いや武将は持っていた。


 ほどなくして、男がトイレから出てきた。


「いやあ、助かった。礼を申すぞ。何か世話になった礼に、品をそなたに与えたいのだが、生憎と戦の最中でなあ。戦場には金子を持って出ないので持ち合わせが無いのだが……。そうだ、この刀を与えよう。そもそも初めから負け戦に出陣する武士もいるわけが無い。自害のための短刀など初めから必要なかった物であった。これをそなたに進ぜよるゆえ後生大事にするが良い」


 そう言って、男は腰から一本の短刀を抜くと、さあ受け取れと言った素振りで僕の前に突き出した。


 仕方なくその短刀を恭しく受け取った僕は、その短刀に刻まれた家紋を見て「やっぱり、そうか」と得心した。


 すると突然、男の背後に渦を巻いたまばゆい光の輪が現れ、その中からこれまた全身ずぶ濡れの甲冑姿の男が現れた。


「お館様、ここに居られましたか。突然姿が見えなくなりましたので、皆で辺りを必死で探し回りましたぞ」


「おお、それは迷惑をかけたな。なに、ちと腹の具合が悪くなってだな。用を足そうと草むらを分け入っていったのじゃが、気づけばこの者の住居の前に立っておる自分がおるではないか。運良くこの者に厠を借りることができて、用も足して今戻ろうとしていたとこじゃ」


「皆、心配しておりますぞ。さあお早くご支度を」


「まあ、ほんなに急かすでにゃーて。義元の首は逃げるわけあらへんて~」


 急に言葉遣いがくだけた感じになったのは、おそらく信頼の置ける家臣の前で気を許したのだろう。


「おお、そうだ。どうじゃそなた、体躯も大きく頑丈そうな図体をしておるではないか。これからちょうど、桶狭間でのんきに酒盛りをして呆けておる今川の腑抜けどもを急襲するところだ。どうじゃ、そなたが望むのであればわしらと共に戦に加わらんか? 褒美は欲しいだけ遣わす。わしはのう、国の内外では尾張の大うつけと言われておるようだが、身分の高い低いで報奨に優劣をつけない主義だで」


「はあ……、お言葉はありがたいのですが、僕にも……拙者か? にも、こちらでの暮らしも御座います。身内の者にも迷惑をかけたくないので、申し訳ないのですがこちらに残りたいと存じます」


「そうか。それは残念だが、縁あればまた何処かで会うこともあろう。その時を楽しみにしておるぞ」


 意外と偉ぶった感じでもなく、くだけた雰囲気のその男に僕は親近感を覚えた。


「もしもお主の気が変わって、わしの元で天下取りに加わりたいと申せば、いつでもわしを頼って城に来るが良い。まあ、わしも戦に明け暮れて日の本中を駆け回る身であるからして、そなたがわしを見つけるのに難儀することと思う。じゃが、その際には、ほら先程そなたに与えた短刀が役に立とう。それを配下の者に見せれば、わしへの目通りが容易にかなう故大事にするがよいぞ」


 そう言い残して、その武将――織田信長とその家臣は光の輪の中に入っていく。


 と、同時にそれまで煌々と眩い光を放っていた光の輪はその瞬間に姿を消した。

 

 何故、これから桶狭間の戦いで今川勢と世紀の一戦を迎える直前の信長が、僕の部屋に突然タイムスリップしてきた理由は不明のままだが、そのタイムスリップの目的地が僕の部屋だったかはなんとなく合点がいった。


 20XX年時点で、日本に使用可能な状態で現存する和式トイレは、僕の家にある物が最後だということは何度かマスコミの取材を受けているから明らかだ。


 洋式トイレの存在をおそらく知らない信長が、万が一そこで用を足せない事態が起これば、歴史が書き換えられていたかもしれない。


 それを回避するための苦肉の策だったのかと思うと、この日の訪問者が織田信長だったのは歴史の神様の粋な計らいとでも言えるかもしれない。


「あっ、しまった! うっかりしていた!」


 用を足した後のことを彼に伝えるのを忘れていた。


 この部屋の和式トイレは当然水洗式だが、用を足した後は手動で流さいといけないタイプのトイレなのだ。


 僕が慌ててトイレに行ってみると、案の定……。



  〈終〉

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この日の訪問者 ねぎま @komukomu39

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