第二花房

スツールに腰掛けた身なりの良い少女は、

ドレッサーに取り付けられた

大きな鏡に映る自分を見つめながら、

自らに化粧を施している最中だった。

特製の日焼け止め化粧水を肌に塗り、

頬紅に加え、赤い口紅を差す。


(うーん、もう少し肌を白く見せたいわ)


少女は白粉をはたくべきか悩んだ。

しかし、これには鉛が含まれているため、

中毒になる危険があることを思い出し、

あえなく断念するのだった。


(化粧で誤魔化すのではなく、元の肌から

白ければ良かったのに…。)


そんなことを考えながら、少女が自らに

香水を振りかけようとしたその時のこと。

突然、鏡が虹色に明るく発光し始め、少女は

強く驚いた。恐る恐る手で触れてみると、

何と貫通してしまい、

指先は虹色の向こう側へ。

怖くなった少女は直ぐに手を引き抜くも

状況は一向に改善せず、依然として鏡は

不自然な発光を続けている。少女は

スツールから腰を上げると、ドレッサーとの

距離を取るようにして後退りをした。

そのまま、呆然としながらそれの様子を

伺っていると、鏡は一層輝きを増したので、

その眩さ故に少女は思わず目を細める。

それから間もなくして、件の鏡の中から

少年らしき人物がぬるっと出てきた。少女が

驚きのあまり叫び声を上げるやいなや、問題の

少年は勢いよく鏡から弾き出され、

スツールの在る位置を乗り越えるようにして

吹き飛んだ後、床にその身体を打ち付けた。

ドンッと大きく鈍い音を立てた少年の身体

だったが、そんな彼の身を案ずることなく

少女は父と母を呼びに部屋を後にする。


この少年とは、他でも無い進鶯であり、

彼もまた自身の置かれた状況を把握出来ず

強い困惑を示していた。そのおかげか、

勢い良く硬い床に全身を打ち付けた衝撃すら

まるで気にはならず、その後はただひたすらに

キョロキョロと辺りを見回すばかりだった。


進鶯は、間違いなくマンションの屋上から

身を投げ出したはずであった。にも関わらず、

気付くと自分はこの部屋におり、後ろを

振り返って見ても、ただ大きな鏡が

そこにはあるだけ。この状況から察するに

自分はあの鏡から排出されたのだろうと

大方予測はつくものの、如何せん進鶯の身に

起こった一連の出来事は非現実的すぎるもの

だったため、中々理解が追いつかなかった。


(もしかしてここは死後の世界なのか?)


生前の進鶯は、天国も地獄も何一つ信じては

おらず、ああいった手の話というのは

詰まるところ世の秩序を保つために生まれた

おとぎ話に過ぎないのだと考えていた。

というのも、悪いことをすると死んだあとに

地獄に堕とされてしまい、こんなにも

恐ろしい目に遭わされるんだよ…と人々に

呼び掛けることで、犯罪などを未然に防ぐ

目的があったのではないか?ということだ。

それは何も犯罪だけに限った話ではない。

嘘をつく・虫や動物の無益な殺生・飲酒・

弱いものいじめ・不倫・窃盗・子の先立ち

など。どれも人を悲しませることであり、

意図してそれをさせないようにするため

こういった罪とは呼び難い事柄に対しても、先人達は地獄行きの脅しをかけて、

未然に防ごうとしたのだろう…これが進鶯の持論であった。

飲酒をすることの何がいけないのかと

問われると、恐らく、酒を飲むこと自体を

取り締まりたかったわけではなくて

酒を飲んだ後の言動を問題視したのだろうと

進鶯は考えていた。つまり、酔っ払った

勢いで人様に迷惑をかけることを、先人達は良しとはしなかったのだろう。

このように、進鶯は天国や地獄の存在を

信じてはいなかったものの、今現在自身の

置かれている状況を考慮すると、

死後の世界の存在をただのおとぎ話として

否定することはできず、今一度これまでの

考え方を改める必要性があると感じた。

しかし単なる臨死体験という可能性もある

ため判断を下すことにかなり難航していた

のだが、そんな物思いにふける進鶯の意識を

無理やり引き戻したのは、見知らぬ男性の

激しい怒号であった。


「お前、娘の部屋で何をしてる!」


びくりと肩を震わせた進鶯に対して、男の

怒りは留まるところを知らない。

彼の後ろには、先程の少女は勿論のこと、

その母親と思しき人物も立っていた。

進鶯は頬を平手打ちされた上に、両腕を

後ろ手に拘束され、ここが他ならぬ地獄で

あることを悟る。

母親や少女からも散々罵られ、それから

暫くすると、四人の元に簡素な作りをした

馬車がやって来た。

あれよあれよという間にその馬車に無理やり

押し込まれた進鶯は、行先も分からぬまま

連行されていったのだった。

振り返ると、進鶯が元居た建物はかなりの

豪邸であり、思うに先程の核家族というのは

貴族か、もしくはそれに近い上流階級の

一家だったのだろうと推測ができた。


「あんた、珍しい格好をしてるな。」


突然、馬車を引く御者にそう話し掛けられ

進鶯は驚きつつも「そうですか?」と

釈然としない返事をした。

それから直ぐに、進鶯を乗せた馬車は

人通りの多い街の方へ出た。

中世ヨーロッパかのような雰囲気を放つ

その街並みに圧倒され、異国情緒を感じ

つつも、自身の置かれた由々しき状況を

思い出し即座に警戒心を強める進鶯だったが

その反応は案外正しかったようで

ただそこにいるだけの筈なのに、心做しか

街の人々から後ろ指をさされているような

そんな気がして堪らなかった。

暫く進むと、奥に何やら大きな人集りが見え

一体何の集まりか、と進鶯が興味を抱くと

その人集りの中心に軍隊らしき者達が

行軍をしている様子が見て取れた。どうやら集まる人々のお目当てはそれらしい。


「あの人達は、一体何者なんですか?」


進鶯が、御者に恐る恐るそう尋ねると、

御者は驚いたような、呆れたような口調で

「知らないのか?エウロスの騎士を…」

そう答えた。

そうして御者は振り向き様に鼻で笑うと、


「ピンと来ねえみたいだな。

政公官って分かるか?」


その問いに対して、進鶯が困ったようにして

首を横に振ると、御者は


「ま、分かるわけねえか。なにせ、

『エウロスの騎士』って言葉すら

お前は知らないんだもんな」


そう言って、またもや進鶯を小馬鹿にする。

進鶯はというと、御者の話についていけず

会話の当事者でありながらも一人、

置いてけぼりを食らったような…そんな

気分だった。


「安心しろ。お前みたいな犯罪者には無縁の

存在だからよ」


終始鼻につく御者の言葉通り、

その後の進鶯は、わけも分からぬままに

投獄されてしまうのだった。

薄暗い牢獄の中、冷たい鉄格子に手を触れ

自身を落ち着かせるためにも一旦冷静になり

今日一日の流れをゆっくりと振り返る。


朝目が覚めると、進鶯は、母である美紀が

出勤の支度をしているのを確認し、彼もまた

顔を洗い、制服に着替えて髪を整えた。

以前までの母なら朝食を用意してくれる

ことが多かったのだが、最近はコーヒーの

お湯一つ沸かしてはくれなくなっていた。

というのも、例の怪しい新興宗教にのめり

込んでから、進鶯の朝食はおろか、夕食の

用意さえしてくれなくなったのだ。

それだけではなく、進鶯に対しての態度が

冷たくなり、大切な一人息子であるはずの

彼に対して無頓着になっていったため、

親子間の会話もろくに無かった。

それ故に、進鶯はより一層サッカーに

打ち込むようになる。

灰色に染まる日々の中で、部活動だけが

彼の心の拠り所だったのである。

「行ってきます」その一言さえ口にしない

母が出勤したのを確認すると、進鶯は

空っぽの通学用リュックを横目にすっかり

慣れた様子で欠席連絡を入れた。

そして、今日一日どう過ごすかを考えながら

再びベッドに横になっていたところ、

母からの着信が入った。ただ、電話には出ていないので、実のところ本当の要件は分からない。しかし、母である筈の自分に対して

無断で学校を休んだ息子に怒っていた──

進鶯は、それが着信の理由に違いないと見ていた。

以前から、自殺という行為に対して、進鶯は

漠然とではあるが思考を巡らせていた。

しかし、決行時期などの詳細については

ハッキリとは決めかねており

その日母からの着信が入ったことを皮切りに

衝動的に死を思い立ったのであった。

自身を取り巻く全てのことに疲れ果て

未来を悲観したのが主な理由である。

その時ふと思い出した懐かしきおまじない、

これもまた衝動的になって実行した。

この後直ぐに死ぬのだから、試したところで

何の意味も無いとわかってはいたけれど、

進鶯はそのおまじないに対してどこか希望を見出していたのかもしれない。


いざ自宅のマンションから飛び降りてみると

進鶯が想定していたより、ずっとずっと、

ゆっくりと景色は移り変わって行き、地面に激突するその瞬間の記憶──そこだけが、

ぽっかりと穴が空いたように抜け落ちて

いる。そして彼が気付いた時には、突然

知らない女の子の部屋の中へその身を

投げ出されていたというわけであった。


本日二度目の物思いにふける進鶯だったが、

突如としてそれを妨害する因子が現れる。


「ヒメノ様ッ!?」


牢獄の外から誰かの名前を呼ぶ声がしたのだ。声の主は、その後も繰り返し繰り返し

同じ名前を叫び続けていた。


「同じ匂いがする!やっぱり本物だ!」


徐々にだが、その声は質量を増していく。

声の主は、進鶯の居る牢獄の元へと近付いて来ているのだ。


とはいえ、進鶯の本名は他でもない

“若梅進鶯”であり、声の主が口にする

“ヒメノ様”などとは全くの無関係である。


牢獄の付近で呑気に騒ぐ奴もいたものだ、と

進鶯は少しだけ呆れ返った。

ところが、次の瞬間進鶯の閉じ込められて

いた牢獄の外壁が破壊され、彼の直ぐ目の前を瓦礫が掠めていく。あまりに突然のことで

心臓が飛び跳ねそうになりながらも、

何とか平静を保とうとする進鶯だったが

次に視界に飛び込んできた、

ドラゴンのような肉体を持つ赤き巨体には

これでもかと言うほどの圧倒を受けた。

驚きのあまり、息が詰まって叫び声すら

まともに出せない。

仮に臨死体験の最中に死んだときたら、

これ程の笑い話は他に無いだろう。


そう思った刹那、

進鶯の全身は件のドラゴンに覆い包まれ、

彼は本日二度目となる死を覚悟した。


(僕はこのまま絞め殺されるのか?

いや、食い殺すつもりなのかもしれない)


凄惨な最期というのは、いくら自殺に

踏み切った過去があるとは言っても、抵抗を

抱かざるを得ない。

進鶯はどうすることもできずに目を瞑った。が、ドラゴンの体温や圧迫感を一身に感じる

だけで一向に死は訪れなかった。


暫くして、進鶯は

自身の瞼をおずおずと持ち上げた。

すると、何とドラゴンはその瞳から一筋の

涙を流していたのである。

進鶯がその様子に呆気に取られていると、

牢獄の奥から足音が聞こえてきた。

その足音は徐々に進鶯らの元へ近付いて来て

とうとう二人の前に姿を表す。看守だった。


「お、おい…お前…」


看守は、何から触れたら良いのか分からず

動揺を隠しきれないといった様子であり、

その後、次から次へと別の兵士がやって

来て、辺りは騒然とした空気に包まれる。

その波に乗ってなのか、囚人達も騒ぎ始め

場は混沌としていた。

次の瞬間、進鶯から少しだけ身体を離すと、

ドラゴンは騒ぎ立てる兵士達に向けて口から

炎を放射した。兵士達はすんでのところで

回避したものの、一歩間違えれば火傷では

済まなかったことだろう。

これを皮切りに、場の困惑は一層勢いを

増し、収集が付かなくなっていく。

しまいには、取り乱した一人の兵士が

ドラゴン目掛けて銃口を向けるまでに発展。

一触即発の空気の中で、進鶯は額に汗をかき

ただ一部始終を見守る他に術はなかった。


「────何を騒いでるんだ!」


そんな中、突如牢獄内に響き渡る男性の声。

その声を受けて、看守や兵士達はピタリと

動きを止める。

気付けば、囚人達の騒ぐ声も聞こえなくなり

先程までとは打って変わったようにして

辺りは粛然とした空気に包まれていた。

進鶯のいる場所からでは、声の主である

男性の姿は見えない。しかし、

コツコツと子気味良い足音を立てながら

その男性は進鶯の居る牢獄へと少しずつ

近付いて来ている様子だった。

足音は連なって響いていたので、件の彼を

含めて、そこにはざっと数名の人間がいる

のだということが分かる。

心臓の鼓動が速まるのを感じながら、

進鶯は額の汗を拭った。



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凍て解けて春 依田蘭和 @yoda_ranna1103

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