凍て解けて春
依田蘭和
第一花房
給食を食べ終え、楽しい休み時間が
始まった。
生憎の雨により運動場に出られず、
残念がる男子達を気にも留めずに、いかにも
女子小学生が好みそうな表紙をした
おまじないの本を囲んで、女子達が
楽しそうにはしゃいでいる。
その会話に聞き耳を立てる少年が、一人。
小学五年生の若梅進鶯(わかうめ すおう)は
サッカーが大好きな普通の男の子だ。
今日だって、いつもみたいに友達と運動場で
サッカーをするつもりだったのだが、こんな
雨空では致し方ない。渋々、進鶯ら少年達は
教室の中で駄弁る羽目になるのだった。
昨日、最新話が放送された
話題のサッカーアニメについて盛り上がる
一同だったが、進鶯はどこか上の空。
何故なら、すぐ傍で聞こえてくる女子達の
おまじないの話が気になって気になって
仕方がないからだ。
というのも、どんな願いであったとしても
必ず一つだけ叶えてくれる…
そんなおまじないがあるのだと言う。
(それって、本当なのか…?)
進鶯の好奇心は留まるところを知らなかった。
すると、女子の輪の中にいた一人の少女が、
突然こんな話を始めた。
「結愛ね、この前これやってみたんだけどね
ハピネスピアノのワンピース、本当に買って
もらえたんだよ!」
結愛ちゃんのその言葉を受けて、
女子達は一層の盛り上がりを見せた。
それと同時に、ハピネスピアノなどという
女児服ブランドとは全くの無縁であるはずの男子小学生・進鶯も、流石のこれには
胸を高ぶらせ、例のおまじないへの期待感を膨らませる。
「いやー!進鶯君、何でこっち見てるの?」
ここで、進鶯はハッとした。
聞き耳を立てていただけのつもりが、
気付かぬ内に件の結愛ちゃんを凝視して
しまっていたのだ。
その他の女子、そして当事者の結愛ちゃんは
勿論のこと、友人の男子達にもおちょくられ
進鶯はその誤解を解くべくして慌てふためくのだった。
帰宅した進鶯に、母親の美紀は安堵した
ような表情を見せ、こう尋ねる。
「おかえり。遅かったわね。道草でも
食ってたんじゃないの?」
進鶯は苦笑いを浮かべながらも
やんわりと話を逸らすと、かなり急いだ
様子で二階にある自室へと駆け上がって
行った。
帰りが遅くなったのには、彼なりの訳が
ある。
進鶯は子供椅子に腰掛けると、黒い
ランドセルの中から大切そうに一冊の本を
取り出してそれをおもむろに学習机の上に
置いた。
この本を購入するのにあたり、
まだ幼い進鶯はかなりの勇気を振り絞った。
言うなれば、少し気恥ずかしかったので
ある。
「願いを叶える方法…この本に載ってるんだ」
件の本とは、他でもない、
女児向けのおまじない本である。
この本の定価である千円…それは、
進鶯にとっての貴重な全財産にあたったが
どんな願いでも一つだけ叶うのだとしたら
それを支払うのだって惜しくはなかった。
(さて、何をお願いしようか…)
進鶯がふと横に目をやると、
ボロボロになったサッカーボールが
その視界に飛び込んできた。
(新しいサッカーボールを買ってもらうって
いうのは、どうだろう?)
しかし進鶯は、折角浮かんだその案を
すぐに頭からかき消してしまった。
何故なら、もうすぐお正月…
つまり、お年玉の貰える時期に入るからだ。
たった一回のチャンスなので、決して
棒に振るわけにはいかない。
それからというもの、進鶯は沢山の案を
考え出したのだが、どれも浮かんでは消し、
浮かんでは消しを繰り返した。
夕食を食べている最中も、進鶯はずっと
自分は今何を願うべきなのか、と
考え続けていたのだが、暫くすると
普段から早食いの父を見かねた母が
「貴方、そんなに急いで
食べなくてもいいじゃないの」
と、笑いながら呟いたので
その瞬間に進鶯はハッとさせられた。
(そうか、今すぐ決めなくたっていいんだ)
いつの日か本気で叶えたいと願う何かが
やってくるその日まで、この本は
お守りとしてとっておこう。
進鶯はそう心に決めたのだった。
それから、約二年の歳月が経過した。
中学二年生になった進鶯は、
おまじないのことなどすっかり忘れていたが
今も尚サッカーは大好きなままであり
今日も元気いっぱい部活動に励んできた
ところだった。しかし、順風満帆だった
進鶯の学生生活に、突如陰りが見え始める。
母は部の顧問に対して直接取り合ったらしく
結果として進鶯は自らの意思をよそに退部をさせられることになってしまったのだ。
夏には全国大会を控え、部が一丸となって
一つの目標に向け全力を注いでいたところに
その報せは余りにも突然すぎるものだった。
最も厄介だったのは、辞める理由に関して
部員達の誤解を招いたことである。
進鶯の退部理由が正しく周知されなかった
ため、かつて仲間だったはずの彼らは、
幼さゆえか?
進鶯を心無い言葉で責め立てたのだった。
あの日、結愛ちゃんへの誤解は解けたのに、
進鶯にとって一番大切な存在である仲間達
への誤解は最後まで解けることはなかった。
結果として、進鶯がその心に宿していた
孤独という名の闇は、より一層深まりを
増すこととなる。
その上、母に「何故こんなことを?」と
理由を問い質すも、彼女は既に話になる
状態を逸脱しており進鶯自身が納得出来る
回答は得られなかった。
というのも、母は去年夫と望まぬ離婚を
したがために精神を病み、新興宗教にのめり込んでいったのだ。
無理やり退部をさせた理由は、依然として
釈然としないものの、ただ一つ分かるのは
この件には例の宗教団体が関わっているに
違いないということだった。
日に日に、進鶯は学校を休みがちになって
いき、しまいには登校したフリをして
実際には行っておらず、体調不良を装って
自ら学校に欠席連絡を入れるようになった。
美紀が出勤した日なら、その後家で
過ごしても良いのだが、そうでなくて彼女が
休みの日の場合に関しては、通学用カバンに私服を詰め、付近にある薬局のトイレでそれに着替えると、図書館でひたすら時間を
潰していた。
初夏の日差しの中で、
少年の居場所は他に無かった。
しかし、その生活も長くは続かない。
ある日いつも通り進鶯が欠席連絡を入れ
今日は母が仕事に行く日だったので、
自宅のベットで横になっていると、彼の
携帯が着信を知らせた。
見ると、それは母からのものだった。
この時、進鶯は確信する。
遂にバレたか、と。
大方、学校の方から保護者である母に
連絡が行ったのだろう。
それにより、発覚したのに違いない。
進鶯は電話に出ることはせず、虚ろな目をしてベッドから体を起こすと
淡々とした様子で遺書をしたため始めた。
とはいったものの、案外言葉というのは
出てこないもので、自分が主張したいことを
素直に言葉に起こしさえすれば、いくらでも
文章は紡げる筈なのだが…
それでも進鶯は、自分のことを語るのが
何だかとても嫌だったので、ただ一言
「疲れた」とだけしたためた。
余白で埋め尽くされていたルーズリーフを
四つ折りにすると、引き出しの中にしまい、
何か見られて困るものはないかと部屋中を
見回す。
おかしなものは全て処分する算段だ。
すると、本棚に身に覚えの無い一冊の本を
見つける。
見たところ、それは女児向けの本だった。
(何故こんなものが僕の部屋に…?)
進鶯はそれをおもむろに手に取ると、
中をパラパラと確認した。
そこまで来て、ようやくハッとする。
その本は、小学生の頃に他でもない進鶯が
自費で購入したおまじないの本だったのだ。
(懐かしいな…)
結局のところ、この本を購入する上で
一番の目的であったはずの
“願いを叶えるおまじない”というやつは、
当時試さずに終わった覚えがあり、
ページをパラパラとめくっていくと、
件のおまじないの紹介が両の視界に入る。
当時の自分とは異なり、現在の進鶯には
本気で叶えたいと願うことが
ただ一つだけあった。どっちみち今日この後
自分は死ぬのだから、何を祈ろうが無駄だと
頭では分かっていたものの、この願いこそが
自身の生きた証に相応しいと感じたのだった。
おまじないの方法はとても簡単で、透明の
深皿に水を注ぎ、その上から香水を垂らす。
進鶯は、ここで使う香水として母のものを
拝借した。
最近は専ら別の新しい香水ばかり使っていて
この淡い紫の瓶に入った香水を身に纏う
機会はまるで無い様子だったが、
久方振りに嗅いだその香りが自らの
鼻腔をくすぐる瞬間、進鶯はどこか懐かしさを覚えた。
母に抱きしめられる時、彼はいつだって
この香りに包まれていたのだ。
次に、白い折り紙に赤いペンで
願望をしたためたら、そのまま鶴の形に
折る。そして、それを水面に浮かべる。
最後に、その願いを口に出して唱えたら、
おまじないは終了する。
「…サッカーがやりたい」
(なんてな…)
進鶯は、どこか冷めたような目をして、
家の外へ出た。彼の自宅は、かなり高さの
あるマンションだ。エレベーターで、
上の階へと上がって行く。屋上に出ると、
進鶯は深い溜息を吐いた。今になって、
死ぬことへの恐怖や、そして何より、
深い悲しみ・寂しさに襲われたのである。
これらの気持ちが合わさり筆舌に尽くし難い心境を抱える進鶯だったが、おもむろに
シューズを脱ぐと、震える足取りで
柵を乗り越えた。足が竦む。
けれど、ここで踏みとどまったところで
明日に居場所はない。
ここで僕が生き長らえたとして、
これから先、どうしようもない自分の人生を
一人背負って生きていくのだと考えたら、
それはこの最後の一歩を踏み出すことよりも
ずっと恐ろしいことのように感じられた。
そうして進鶯は目を瞑り、覚悟を決める。
直立したまま体を前に倒すと、全身の力を
抜いて、重力に抗うことを一切放棄した。
視界に広がる景色が、想定していたよりも
ゆっくりと移り変わってゆく中で、進鶯は、
若くして自らの命を絶たざるを得なかった
自身の運命に対し、強い虚しさを感じるの
だった。
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