第27話

その瞬間は、謹慎が明ける前日に訪れた。

「んうううう! 終わったあああああ!」

現在日曜日の午後六時。

俺は大の字に倒れながら叫ぶ。

「霞河、うるさい。……って言いたいところだけど、あたしも同じ気持ちだわー」

一歩遅れて、紅野も一緒に倒れる。

それから深く深く息を吐き出した。

「あはは……二人とも、大丈夫?」

まるでフルマラソンを終えた選手のように寝転がる俺らを、ひななが優しく心配してくれる。

そういう彼女も笑顔を浮かべているものの、疲れ切った顔をしていた。

「ああ、大丈夫だよ。むしろ最高の気分だ」

俺は片手を上げて答える。

さっきの例え、フルマラソンというのはあながち間違いでもない。本当にそれくらいの苦行を終えたような清々しい気分だ。

もっとも、俺が走りきったのはランニングじゃなくて課題のフルマラソンだがな。

そう。あの鬼のように多かった課題のレースが、今日この瞬間にようやくゴールを迎えたのだ。

まったく、まさか本気でこんな時間までかかるとは思わなかった。

一週間前、そう一週間前までは本当に順調に進んでいたのだ。

思ったより証明問題が多くて時間がかかってしまったが、それでも致命的な遅れというほどではなかった。

じゃあ何がやばかったのか。

思わぬ伏兵は社会の調べ学習と国語や古文の語彙問題だった。

いや、それらは本来取るに足らない存在だった。なぜならスマホで調べればすぐに終わることだったからだ。

じゃあ何がダメだったのか。

それは、ちょうど週末にWi-Fiの工事が入ってしまったことだ。

とはいえ、それを聞かされた時は「ふーん。大変だなあ」としか思っていなかった。別に当時はWi-Fiがなくともスマホを使えるとわかっていたからだ。

しかし土曜日の午後、社会の天安門事件について調べてる時、俺は異変に気づいた。

なぜか急にスマホがサイトを開けなくなってしまったのだ。否、サイトを開くのに時間がかかるようになったというべきか。ただしかかる時間が異様に長い。言葉を打ち込んで検索するだけで、それが表示されるまでに十分以上もかかるのだ。

おかしい。これはおかしい。

まさかの故障かと思って真弓さんに聞いてみたら。

「それ、通信制限じゃない?」

通信制限? はて、なんのことやら。

首を傾げる俺に、真弓さんは丁寧に教えてくれた。

ギガとかパケットとか、よくわからない単語ばかり出てきたが、要するにWi-Fi使わないでスマホ使いすぎるとネット使えなくなるぞってことらしい。

ひなな曰く「そんなの当たり前だよ〜」とのことだが、俺には当たり前じゃない。

普段スマホはあまり使わないせいで、完全に盲点だった。

とにかく、社会の調べ学習には〇〇の事件についてインターネットを使って調べよ。なんてのが大半だったため、それはもう焦った。

一瞬、旅館の休憩室に設置されているパソコンを使うのもアリかと思ったが、そもそもWi-Fiが使えないのでダメ。

結局その日は打つ手がなくて、貴重な一日を無駄にしてしまった。

最終的には土曜の夜に紅野とひななに助けを求め、翌朝彼女たちに借りた古川中学の資料集やらなんやらを駆使して課題は終わらせることができたが。

二人には無駄な手間をかけさせてしまった。

紅野は部活を休んでまで一日付き合ってくれたし、ひななも仕事がおわるやいなや、浴衣姿のまま駆けつけてくれた。

そこまでされると申し訳ない気持ちでいっぱいだが、二人のおかげで本当に助かった。

俺が国語の語句問題をやってる間に先に社会の問題をまとめてくれてなければ、冗談抜きで日付が変わるまでかかっていたかもしれない。

だから、どっかで二人にはちゃんと礼を告げないとな。

漠然とそんなことを考えながら、達成感の余韻に浸っていると。

「ねね、二人とも。せっかくだからさ、クルくんの課題終わり記念にお祝いしない?」

ふと、ひなながそんなことを言い出した。

「お祝い?」

起き上がった紅野が首をかしげる。

「うん。お祝いっていっても、クルくんは外出れないからここの食堂でご飯食べるだけだけど。どう?」

「あー。それいいな」

「だよね。そうしよーよ!」

俺が賛成すると、ひななが両手を叩いて喜んだ。

ひななが夜桜に泊まる日は、よく一緒に飯を食うこともあるが、紅野と一緒ってのは初めてだな。

そう思いながら、「じゃ、行くか」と声をかけたら。

「ごめん、あたしはパス。先帰るから、二人で楽しんどいて」

紅野が、俺たちを追い払うようにヒラヒラと手を振る。

え? と俺とひななが振り向く。

あれ、おかしいな。最近の紅野ならこのまま一緒についてきてくれるかと思ったんだが。

「どうして?」

ひななが訊ねると、紅野は露骨に眉を顰めた。

「あたし、お店とか人の多いところでご飯食べるの苦手なの。見られるから」

なるほど。そう言われてしまっては納得するしかない。

そりゃそうだ。

俺たちはもう見慣れてるが、紅野のような見た目の奴が飯屋に座ってたら視線を集めるのは当然だろう。

そんな状態ではせっかく美味しいものを食べても居心地の悪さが勝るだろう。

自業自得とはいえ、俺も喧嘩のやりすぎで後ろ指を指されていたから気持ちはわかる。

俺とひななは頷いた。

「だったら仕方ないな」

「だったらお部屋に運んでもらおうよ」

へ? と今度は二人で顔を見合わせる俺たち。

「え、部屋ってここ?」

「そのつもりだったけど……もしかして嫌だった?」

「いや、別に構わないけど」

「女将に頼めばできると思うよー。だってここも客室だもん」

ああ、そういやそうだったな。すっかり慣れきってて忘れてたが、ここも客室なんだな。一応。

「そんじゃま、行くか」

そうして、今度こそ立ち上がろうとした矢先にまた。

「ねえ、勝手に決めないでよ」

紅野が慌てた様子で手を伸ばす。

「あたし、まだ参加するって言ってないんだけど?」

「え? 食べてかないの?」

「食べてかない。うちにご飯あるし」

「そっかあ……」

そっけない断り文句に、ひななが寂しげに肩をすくめる。

すると紅野は申し訳なさそうに目を逸らした。

……こいつ、もしかして。

「なら一度家に聞いてみたらどうだ?」

紅野に向けて、そう提案してみる。

「え?」

「もしかしたらまだ準備してないかもだろ? もしそうならせっかくだし、飯食ってけよ。美味いぞ、ここの飯は」

少し誘いがしつこいだろうか。

でもなんとなく、今なら押せばいける気がする。

どうやらその予感は当たっていたらしい。

その後、ひななも交えて叱責覚悟でごねてみると。

「……わかった。じゃあ、ちょっと家に電話してみる」

ため息をつかれてしまったが、なんとか折れさせることに成功。

隅っこでスマホを鳴らす彼女を、ひななと共に固唾を飲んで見守る。

「あー、もしもし。……え、あーごめん急にかけて。今日さ、ご飯って用意してる? ……用意してない? わかった。え? あ、うん。今日は外で食べてくと思う。……あー、そうそう。そんな感じ。や、そんな遅くはならないと思う」

「梓ちゃん、残ってくれそうだね?」

「だな」

電話を邪魔しないように小声で喜び合う俺とひなな。

「電話したけど、お母さんまだご飯用意してないってさ」

「じゃあ、ここで食べてく?」

「ええ、そうさせてもらうわ」

「やったあ!」

半笑いで紅野が頷くと、ひななが手を叩いて喜ぶ。

少し大袈裟すぎじゃないかと思ったが、すぐにどうでも良くなって俺も笑っていた。

ひななも俺も、長い課題レースでハイテンションになってたんだろう。

それはきっと紅野も同じ。

彼女もうっすらと嫋やかな笑みを浮かべていた。

それから、「着替えもあるし、女将には私が頼みに行くよー」といって出ていったひななを待つこと数十分。

紅野との雑談がちょうど途切れたあたりで、Tシャツにスカート姿になったひななが戻ってくる。

ラフな格好に着替えたからだろう。今度はノックもせず、立ったまま入ってきた。

「お部屋でご飯、OKだって」

ひななが満面の笑みと共に親指と人差し指で丸を作る。

おお、と俺は声を上げる。

紅野はどう喜べばいいかわからない様子で鼻を鳴らしていた。

「メニューはそこにあるから、食べたいもの教えてくれたら届けるって」

「メニュー? これか?」

俺はちゃぶ台の横のテレビ台のそばにあるインフォメーションを取る。これは旅館内の案内図やらなんやらがのっている一種のマニュアルのようなものだが、そういえば部屋食の他に食堂のメニューも載ってたな。

「そーそー、それそれー」

うなずきながら近寄ってくるひななにそれを手渡す。

「あ、そうだ。クルくん、なんか女将がクルくんに来て欲しいって」

彼女はマニュアルのページをめくりながら、ふと思い出したようにいった。

「俺?」

「うん。メニューを決めたらでいいけど、できるだけ早く事務室に来るように、だって」

真弓さんが俺に用事?

なんだろう。

出来るだけ早くって一文がものすごく不安にさせるんだが。

えぇ……まさか今日、課題のために仕事を休ませてもらったことで怒られるとか?

でもそうしないと課題は間に合わなかったんだけどな。

「ん、わかった。ならとりあえず決めてくるわ」

一抹の不安を抱えながらも俺は立ち上がる。

「あれ、メニュー決めなくていいの?」

「ああ、山菜定食ってやつないか? いちど食べてみたいと思ってたんだが」

「あ、これかな。オッケー、クルくんはこれね」

山菜定食、千五百円。俺は食堂でご飯を待ってる間にメニューを眺めることが多いのだが、ずっと気になっていたのだ。

賄いは基本的にメニューを選べない。でもそこに時々ついてくる山菜を使った料理は絶品だし、じゃあそれをメインにした定食はさぞかしうまいんだろうな、とはいつも思っていたのだ。

事実、夜桜は山に囲まれているがゆえに、山菜料理を売りにしているし。

普段ならわざわざ別のものを注文したりしないが、今日は特別ってやつだ。だから学生には少し高い値段も今日は気にしないことにした。

「そういうわけで、真弓さんのとこいってくるわ」

そういって片手を上げると、紅野とひななが「いってらっしゃーい」、「いってらー」と見送ってくれる。

「梓ちゃんはどうする?」

「んー、どれどれ。あー、どうしようかなあ。朝比奈さんは決めたの?」

「うーん、私も迷い中―」

二人の悩む声を背中越しに聴きながら、俺は靴を履いて廊下へ出た。

ザ・和風な部屋に対して、廊下は上下で和洋に分かれている。具体的にいうと上は壁が竹で編まれたもので、天井が木の板を組み合わせたもので作られていて、廊下は赤の絨毯か敷かれている。

チラホラと浴衣姿のお客さんとすれ違いながら、浴場と食堂を足早に通り過ぎて受付へ。

カウンターの人に一言告げてから、扉に二度ノックして奥の事務所へ入る。

「あら、早かったわね。来人くん」

休憩中だったのか、真弓さんは缶コーヒー片手に自分の肩を揉んでいた。

俺が来るのが想定以上に早かったらしく、若干驚いている様子だった。

「お疲れさまです。ひななに呼ばれて来たんですけど、今日はすみません。自分の都合で休ませてもらっちゃって」

必殺、初手謝罪。

どれくらい通用するかわからないが、先に謝っておくことで少しでも心象良くしようという作戦だ。

しかし。

「あー、それはいいわよ別に。それより課題はちゃんとやったの? なんかWi-Fi使えなくて大変だったみたいだけど」

俺の心配とは裏腹に、真弓さんは怒っていないようだった。

「あー、その辺はひななと紅野に手伝ってもらってなんとか。大変ですけどちゃんとやり遂げましたよ」

「それならよし。学生の本文は勉強と遊ぶことだからね」

勉強はわかりますけど、遊ぶこともなんですか真弓さん。

まぁそれはいいとして。

休んだことじゃないなら俺はどうして呼び出されてたんだ。

漠然と疑問に思っていると、真弓さんは引き出しの中から茶封筒を取り出した。

「とにかく、あなたを呼んだのはこれを渡したかったの」

「なんです? これ」

差し出された茶封筒は、大きいものではなく細長いタイプのものだった。

まるでお札でも入ってそうな──と思いながら開いてみる。

「え? これ、万札ですか?」

中に入っていたのは、まさかまさかの本物のお札だった。

うそだろ?

首を傾げながら取り出して、よく見てみる。

もちろん、偽札などではない。正真正銘、福沢諭吉の顔がプリントされたものだ。

それがひー、ふー──少なくとも、三枚以上はある。

一体なんなんだこれは。

「それはね、お給料よ。今日以外の十三日分ね」

「給料? でも今回って給料は出ないんじゃ?」

確か今回の労働は無賃と聞いていたんだが。

「最初はそのつもりだったんだけどね。思ったより真面目にやってくれたし、朝も早いのに一回も遅刻しなかったでしょ? だからあげてもいいかなって」

「ええ……でもいいんですかね。謹慎期間中にバイトって」

「ならお給料じゃなくて私からのお小遣いだと思っときなさい」

「そういうことなら……」

と、そんな感じで思わぬ収入が入ってしまったわけだが。まぁ、今のところ使い道もないし、ほとんどは貯金に回るだろう。

と、そんなことを思いながら茶封筒をポケットにしまおうとしたところで、俺はふいに閃く。

あ、そういえばあるじゃん使い道。

「すみません真弓さん。やっぱこのお金、少しだけ預かっといてもらえません?」

俺はしまいかけてた給料を、真弓さんに返す。

「預かる? 別にいいけど、どうして?」

「や、このあと俺たち部屋で飯食うつもりなんですけど、その料金をそっから引いてもらえたらうれしいなって」

首をかしげる真弓さんに、たった今思いついたことを説明する。

思いがけない大金が入ったんだし、せっかくなら二人の分も俺が負担しようと思った。

動機はもちろん、課題を手伝ってもらったお礼だ。二人が何を頼んだのかは知らないが、さすがに三万以上あって足りないなんてことはないだろう。

「なるほどね。なかなか粋なこと考えるじゃない」

みなまで語らなくとも、俺の意図を察したのだろう。

真弓さんは意味深な笑みを浮かべると、取り出した封筒を再び引き出しへしまった。

とっさに思いついたことだが、これはなかなかの名案だったのではないだろうか。

その自問を裏付けてくれたのは、部屋に戻った後の二人の反応だった。

戻った後に、なんか給料がもらえたので今日のお代は俺が持つと伝えたら。

「え? うそ、本当にいいの?」

「ああ。二人には課題のことでずいぶんお世話になったからな。そのお礼だ」

「んー、私はあまり役立ててなかった気がするけど……」

「そんなことねえよ。休憩の合間にお茶入れたりしてくれたろ? あれ、すごい助かってたから」

「そうかな。じゃあ、今日は遠慮なくご馳走になろっかな。ありがとークルくん!」

と、ひななは申し訳なさそうにしながらも喜んでくれて。

「ちっ、じゃあもっと高いの頼んどけばよかったわね」

「お前は少しは遠慮しろよ……」

「ふふ、冗談よ。ありがとね、霞河」

紅野は逆に無遠慮に喜んでくれた。

俺がいなくなったあと、二人は悩みに悩んだ末、俺と同じ山菜定食を頼んだらしい。

となると俺の出費は四千五百円か。俺の小遣い一か月分だが、さっきの給料に比べたらはした金のように見えるな。

ちょっとリッチになった気分を味わいながら、食べ物の好き嫌いなどとりとめのない話をしながら待つこと十数分。

コンコンと扉をたたく音が聞こえる。

「あ、来たかな」

ひなながつぶやく。

それから間もなく襖の方も二度ノックされ、開かれる。

「失礼いたします。お料理をお持ちいたしました」

正座した仲居さんが、丁寧な所作で料理を運んでくれる。

おお、部屋にお膳が運ばれるってこういう感覚なのか。

旅館暮らしも長くなってきたが、部屋に食事を運ばれるのは初体験だ。

それにしても、不思議だな。ただの食堂の定食が、お膳に乗るだけで高級料理みたいに見えるなんて。

「それでは、ごゆっくりどうぞ」

配膳を終えると、仲居さんが鷹揚に頭を下げて出ていく。

その姿に俺も「ありがとうございます」とつられて頭を下げてしまう。

なんだか人に慇懃な態度をとられるのって慣れないな。

申し訳なさとは違うが、なんか腹のあたりがムズムズするのだ。

「ふー。お給仕はいつもする側だから、なんかドキドキしちゃった」

玄関が閉じる音がすると、ひななが細い息を吐き出した。

彼女も俺とは別の意味でソワソワしていたようだ。

「あら、本当に美味しそう」

で、紅野はマイペースにご飯に対する感想を述べている。

でも、たしかに美味そうだ。

お膳の上にあるのは全部で六皿。

桜色のたくあんっぽい漬物、何かの野菜のおひたし、同じく和物が乗った小鉢が三つ。おそらく汁物の入ったお椀。粒がたったホカホカの白いご飯。あとは大根おろしや緑色の塩(茶塩というらしい)などの薬味が乗った小皿。そして天つゆ。さらにおまけと言わんばかりに銀杏のゼリーまでついている。

そして極めつけが、このど真ん中に鎮座する大皿。この定食の主役ともいうべき、山菜の天ぷらだ。

いや、白身魚(おそらく川魚)の天ぷらもいくつか混じってるので、正確には山の幸というべきか?

まぁ、結局うまそうなことに変わりはないし、どうでもいいか。

いただきます、と軽く手を合わせてからいきなり天ぷらに手を伸ばす。

適当に取ったのだが、これはなんだろうか。先端がグルグルと渦のように巻いているが。

ひとまず、天つゆを少しつけて一口齧ってみる。

おー、すげえ。衣がサクッとしてて、なのに中身はシャキッとしてる。これが噂の食のギャップってやつか。なんて、それは今俺が考えた感想なんだけどな。

「あ、このお吸い物美味しい」

「ほんと? どんな感じ?」

「そうね、あまり濃い味じゃないんだけど濃いっていうか、お出汁の味っていうのかしら?」

紅野とひななの会話を聞きながら、俺もお吸い物に手を伸ばしてみる。

なるほど、これは確かに出汁の味が出てて美味いな。なんの出汁かはわからないけど。

それから俺たちは、時々感想を言い合いながら箸を進めていった。

すると、あっという間にお膳の上が空になってしまう。

俺、ひなな、紅野と食べ終わった順に箸を置いていく。

お膳はそのままにしておけば仲居さんな回収してくれるらしいが、「運ぶ立場としては重ねておいた方が楽かなー」とひなながいうので、端に積んでおいた。

「ふう、美味しかったね。お腹いっぱいだー」

ひななが大胆に足を投げ出して、フニャっとした笑顔を浮かべている。

「朝比奈さん、はしたない。けどそうね。ご飯はほんと美味しかったわ」

ひななをたしなめながらも、紅野はうんうんと首を縦に振る。

二人とも、お腹いっぱいと言いつつ顔つきは結構余裕そうだ。

最初、それなりのボリュームがあったように見えた料理だが、彼女たち女性の胃袋にも余裕で収まるくらいちょうどよかったらしい。

つまり俺にとっては少々物足りないくらいなんだが。

まぁいっか。ここのところ仕事やら課題やらでろくに運動できてないし、その分摂取カロリーも抑えるってことで。

「あー、部活休んだのってひっさびさだわ」

食後の休憩中、まったりとした空気の中で紅野がググッと身体を伸ばす。

「ほんと悪かったな。俺のために……」

「いいわ。ご飯も奢ってもらったし、あの時も助けてもらったし。これで貸し借りはなしよ」

貸し借りか。俺はそんな打算的なことは考えていなかったんだが、紅野が納得してるんなら別にいいか。

「そういえば、あれから学校ってどうなったの? 剣道の授業はまだ続いてんのか?」

紅野の言葉をきっかけに、ふと気になったことを尋ねてみる。

この二週間、課題や仕事に精一杯で学校のことは何も聞いてなかった。

一応、ひななから聞いた話と、ラインのグループチャットでクラスの人たちが俺を悪く思ってないことだけは知ってるが。

あのあと授業や武内がどうなったのかは全く知らなかった。

授業は普通に担当を変えて続行してるんだろうか。まさか、何も変わらないままなんてことはないと思うが。

「剣道の授業も一応やってたわよ。ただ、あんたのおかげで馬鹿みたいに素振りだけさせられる、なんてことはなかったけどね」

そうか。あの馬鹿みたいで非効率極まりない反復運動は終わったのか。

それはいいことだ。あんなつまらないトレーニング、百害あって一利無しだからな。

無論、自分からやったり継続的に続けたりするんなら別だが、授業でやらせるのは本当に意味がない。そもそもトレーニングってのは最初は軽く、徐々に辛くしていくべきだ。

例えば一刻でも早く強くなりたいとか、余程の事情でもない限りはな。

「うんうん。武内先生から厚間(あつま)先生に変わってから一気に楽になったよね」

厚間というと、あのオドオドした中学校の体育教師だろうか。

「ふーん。武内はどうなったんだ?」

「武内先生は普通に授業してるみたい。さすがに体育の方には来てないけどね」

「は? まじで?」

嘘だろ。

俺、みんなが抗議してくれたおかげ(実際に効果あったのかは知らんが)で減刑されてようやく謹慎二週間なのに、武内はなんもお咎めなしなの?

確かに不意打ちで一方的に手出したのは俺だけど、あいつも紅野殴ろうとしてたじゃん。

そう思って彼女の方を見ると。

「まあ結局あたし、殴られてないからね。仕方ないんじゃない?」

「そんな他人事みたいな」

「まぁ、実際元々他人事だったしね。あたしが首突っ込んで、さらにあんたまで入ってややこしくなっただけで」

彼女は毅然とした態度で俺の言葉に答える。

「そういやそうだったな」

発端は武内が島村さんに詰め寄ったことだったか。そこを紅野が庇って、さらに俺が乱入したってのが事件の一連の流れだ。

そういえば、島村さんからも『霞河くん、私のせいで迷惑ごめんね💦』って謝罪のメッセージが来てたな。

ちなみに返信は『別にあれは島村さんのせいじゃないし、お礼とかは紅野に言ってやってくれ』と返しておいたが。

「つーか、なんであの時お前島村さんのこと庇ったの? 別に仲良かったりとかしないよな?」

今まで聞きそびれていたが、なんでこいつは島村さんを助けたんだろう。

弓道場でクラスの人たちには興味ないってはっきり言ってたくせに。

問い詰めるわけじゃなくて純粋な疑問を込めて見つめる。

すると紅野は答えに窮したように明後日の方向へ目を向ける。

「………………別に」

そして溜め込んだ末に、ただ一言そう漏らした。

なるほど。つまり紅野なりに何か言いたくない理由があるんだな。

「そう──」

「ただ、あれじゃまるで……」

と、思いきや。まだ続きがあったらしい。

打とうとしていた相槌を引っ込めて、俺は紅野の言葉に耳を傾ける。

しかし彼女は、まるで──から先は口をモゴモゴさせるだけで何も口にしなかった。

「……別に。ただなんとなく、見てられなかったのよ」

結局、彼女は歯切れ悪くそう言い直した。

「ふーん。まぁ、でもその気持ちわかるわ。俺もなんとなく見てられなくて身体が動く、なんてことよくあるし」

「あはは。あの時のクルくん、まさにそんな感じだったよね」

「たしかにそうだったな」

少し沈みかけた空気を、ひななが上手く持ち直してくれる。

しかし、俺たちが笑い合ってる間も紅野は苦虫を噛み潰したような顔をしていて、いつもの紅野らしくもない表情がひどく印象的だった。

その後、軽い世間話を繰り返すうちに紅野の様子も元に戻り、仲居さんがお膳の回収にやってきた。

その間大体一時間くらいだろうか。

外はもう暗くなっている。太陽さえ沈めば、紅野も厳重な対策はせずに帰れるだろう。というわけで、今日はここで解散することになった。

もちろん、二人のことは家に送って行くつもりだ。男としての当然の責務である。

──と言いたいところなんだが、残念ながら俺は絶賛今も謹慎期間中なのだ。

最終日に油断して見つかって問題になる、なんて展開は避けたいからな。

だから俺は家でステイだ。

玄関で二人が出ていくのを見たら、俺はすぐにその場を去った。

夜桜の玄関には出入りするお客さんもいるからな。二人の姿が見えなくなるまで見送る、なんて悠長なことは言ってられないのだ。

部屋へ戻る道すがら、ふと考える。

それにしても、明日みんなは本当に俺を受け入れてくれるだろうか。

もちろん、みんなはグループラインで励ましてくれたのだから杞憂であることはわかっている。

でも、中にはグループで発言しない人もいる。そういう人たちに怖れられ、嫌われてるんじゃないかって、考えてしまう。

だけど、あの紅野ですら受け入れてくれたんだから大丈夫だろう。

この時の俺はそう思っていた。



「じゃ、また明日なー」

「うん、バイバイー!」

「……じゃあね」

霞河に見送られて、あたしたちは夜桜を出る。

この二週間、あいつの課題を手伝うために何度も来て通り慣れた道。明日からもう来ることないと思うと、名残惜しい──とは別に思わなかった。

ただ、さっき食べた山菜定食。あれに関しては後ろ髪を引かれる思いだけど。

とにかくあたしの役目はこれで終わり。

明日からはまた弓道漬けの日々に戻れるの。

夏には大きな大会もあるし、ここから先は一秒たりとも休んでる暇なんてない。特に体に大きなハンデを抱えるあたしは、生半可な練習量じゃ追いつくことなんてできやしない。

だから誰よりも頑張らなきゃいけないんだ。

負けたくない。この体のせいで負けた、なんて言いたくないから。

ぎゅっと唇を噛み締め、拳を握りしめる。

あたしは勝つ。あの男が刻んだ呪いなんて、踏みにじってやるんだ。

改めて強く決意したところで、あたしのスマホに電話がかかってくる。

あたしは迷いなく出た。

「もしもし。梓ちゃん?」

「ええ、そうよ。ラインでかけてきたんだし、わかるでしょ?」

「えへへ、わかってるけど一応確認! なんかこういうのって条件反射みたいなとこあるでしょ?」

「まぁ確かにそうね」

なーんて。あたしはそもそも誰とも電話なんてしないんだから、条件反射もなにもないんだけどね。

「まったく……どうせ明日学校で会うのに、どうして電話なんてしたがるのかしら」

「えー、だって梓ちゃん。学校ではあまり話しかけちゃダメって言うじゃん。だからその分は学校でおしゃべりしたいなって思うの」

「そういえばそういう話だったわね」

そう。あたしは朝比奈さんの過剰な接近に対し、学校ではやめてもらうことで対処している。

だから帰り道に電話しながら帰ろうっていう提案も断らなかった。

本当は学校外でだってズカズカ接近してほしくないんだけど、そうでもしないと彼女、捨て身の覚悟でアプローチしてくるし。

学校外でなら極力相手するっていう条件で、学校の中であのグループに巻き込もうとしてくるのだけはやめてもらったというわけだ。

彼女、グループの話題の中に引き込もうと、すごくさりげなくあたしに会話を振ってくるけど、あれ本当に辛いの。

例えば好きな食べ物について話してる時。

「〇〇ちゃんはなにが好き?」「△△!」全員に話が回って。「そっか! あ、じゃあ梓ちゃんは?」

って言われても、反応に困るの。

そこで無視してもなんか気まずいし。

しかも厄介なのは島村さんがやたらあたしに好意的であること。

なぜか彼女は朝比奈さんを援護する。

さっきの例で例えるなら。

「それ……ちょっとわたしも気になるかも」みたいな感じで乗ってくる。

本当なんでそんなことするのかしら。って、理由は明白だけどさ。

間違いなく、あたしが柄にもないことをしたから。

霞河が謹慎になってから数日後だったか。いつものようにぼやけてよく見えない活字を眺めていたとき、彼女はあたしに声をかけてきた。

要件はあの日のことの謝罪とお礼だったけど、あたしはそっけなく追い払ってやった。

多分彼女は臆病だから、一人であたしに声をかけるのは躊躇われる。

でも誰かが近づくなら自分も一緒に。そんな感じの魂胆なんでしょう。

それくらいだったらあっさり跳ねのけられるのに。

「今日、楽しかったね」

自分の置かれた現状にため息をつきそうになった時、朝比奈さんが懐かしむようにいった。

「そう? あたしはそう思わないわ。部活も行けなかったしめんどくさいし。あ、でもご飯は美味しかったわね。それは認める」

「えー、ほんとに楽しくなかったの?」

「ほんとに決まってるでしょ。逆に朝比奈さんは何が楽しかったのよ」

「んー、梓ちゃんとクルくんと一緒に過ごせたことかな」

「なにそれ」

「梓ちゃんは嫌だった? 私たちと過ごすの?」

「……別に」

「ふふ、よかった」

ああ、ここで嫌だって答えられたらどんなによかったか。それが出来ないのはあたしも少しは楽しいって思ってたから。

ダメね。距離を保つって言っときながらそんな気持ちを抱くなんて。

「でも、そうじゃないと二週間ほぼ毎日通うなんてしないよね」

「それは……まあ、そういうことでいいわ」

「あはは。素直じゃないね。梓ちゃんは」

朝比奈さんのからかうような笑い声が耳元でこだまする。

きっと彼女にはそれは罪滅ぼしのためだから、なんていっても同じ反応をされるだけだろう。

あまり傷口を広げたくないから、あたしは言い返したい気持ちをぐっと抑えて黙り込む。

「ねね、梓ちゃん」

笑いを収めると、朝比奈さんは呼びかけるように話を切り出した。

「なに?」

「夜桜、いいところだよね」

急にどうしたのかしら。まさかのバイト先自慢?

「ええ、そうね」

あたしは首をかしげながら相槌を打つ。

けどそれは本心だった。

霞河の部屋にいったりするときに廊下を通ったときも、隅々まで掃除が行き届いていて、従業員の人たちもとてもにこやかでいい場所だなとは思った。職業柄外国人の人を相手することも多いからか、あたしの容姿をじろじろ吟味されることもあまりなかったし。

それは全部旅館としては当たり前のことかもしれないけど、その当たり前ができてるのがすごいなってずっと思ってた。

「でね、夜桜って温泉もすごく気持ちいいんだよ。天然だし」

温泉、ね。

天然温泉って確かあれよね。地脈とかから引いたお湯を垂れ流してる、家庭のお湯とはまた違ったちょっとリッチな感じのお風呂。

あたしは行ったことないけど、とても気持ちいいっていうお話は聞いたことある気がする。

──って、まさか。

「よく私もお仕事のあとに入っていったりするんだけど。それでね、よかったら今度一緒に行かない? 梓ちゃんの部活が終わった後とか!」

朝比奈さんは、少し上ずった声でかつ早口で捲し立てた。

ふーん。いきなり何の話かと思ったら、それが言いたかったわけね。

確かにあたしだって女の子だし、入ると肌がツルツルスベスベになるっていう噂の天然温泉に対する興味はないわけじゃない。ていうか家のお風呂は好きだし、むしろ興味津々だ。

それに彼女にはプライベートではなるべく相手するって言っちゃってるし、ちゃんと部活のことも配慮してくれてる。

じゃあ、どう答えるかっていったら。

「ごめん。それは無理」

あたしは有無を言わせぬ圧を込めた口調で、きっぱりと断った。

すると、朝比奈さんは空気が漏れたような声で「あ……」とつぶやくと。「ごめん」謝った。

「えっと、でも理由聞いてもいいかな?」

それから悲しそうに聞いてくる。理由、理由ね。それ自体は別に隠すようなことじゃない。

「人前で肌を晒したくないのよ。たとえ家族相手でもね」

そう、それだけ。あたしはこの呪われた肌を絶対に誰にも見せたくないの。

たとえ温泉を貸し切りにしてもらったとしても、抵抗はあると思う。

家の風呂くらい、絶対に誰にも見られないって確信がある場所じゃないと、裸になるなんて出来やしない。

「そっか。それじゃ仕方ないね」

そういって、朝比奈さんは力なく笑った。

きっと彼女は「恥ずかしいから」だと思ってる。

うん、そう思ってくれてていい。

それはほとんど間違ってないから。

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あずさ弓 黒飛翼 @blackwing3030

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